変化とその表現(9)

[ラマルクの進化論] 
 1801年からラマルク(Jean Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck, 1744-1829)は進化理論の詳細について発表し始める。ビュフォンが既に生物の進化の可能性を示唆していたが、ラマルクは進化のメカニズムについて正面から論じる。ラマルク主義という語は現在では獲得形質が遺伝するという考えを意味するように使われるが、ラマルクが信じていたものはより複雑だった。1809年、最初の一貫した進化論がラマルクによって主張された。有機体は環境によって受動的に変えられるのではない。環境の変化がその環境に棲む有機体の要求(needs)の変化の原因となり、それが有機体の行動の変化を引き起こす。変更を受けた行動は構造や器官の使用の差を生み出す。使用することによる構造サイズの増大が世代を通じて引き起こされる。一方、不使用は構造を小さくしたり、消滅させたりする。使用、不使用によって構造は大きくなったり、小さくなったりする。これを彼は『動物哲学(Philosophie zoologique)』(1809)で第一法則と呼んだ。そして、それが遺伝可能であるというのが第二法則である。これら法則が働くことによって、すべての有機体の連続的、漸進的な変化が引き起こされる。有機体の生理学的要求が環境との相互作用でつくりだされ、それがラマルク的な進化をもたらす。『動物哲学』でラマルクは十分な時間の中で変化する環境に反応して生物種が変化するとして進化を捉えた。ここでラマルクは解剖上の構造を環境に関連付けることによって適応の起源を考えている。つまり、動物に見られる特徴はそれらを取り巻く物理的な環境と整合している。だが、どこから新しい特徴が出てくるのか。残念ながら、彼の思弁的な解答は彼の他の価値ある貢献を無にするようなものだった。
 ラマルクは『無脊椎動物の自然誌(Histoire naturelle des Animaux sans vertèbres)』(1815)で新しい形質は環境の変化に反応して個体の生涯の中で生じると説明した。つまり、個体は環境を評価し、それに応えて僅かで不完全な内的順応を行う。これが個体に変化を引き起こす。そして,それが子孫に伝わり、同じような過程が繰り返される。この過程は何世代も続き、生物種は完成の点に到達する。
 ラマルクは遺伝と繁殖の関係を把握していた。適応的な形質は次の世代に伝えられる。適応は何世代にも渡る小さな変化によって次第に改良されていく。だが、次の二点で彼は誤っていた。(1)彼はどのように新しい形質が現われ、変種を生み出すかを誤解した。(2)生態学的な圧力がどのように変種を生み出すか気づかなかった。
 ラマルクは進化を次の二つの原因から考えている。

完全性への駆動
有機体の環境への反応と適応の能力

マイヤー(Ernst Myre)によれば、ラマルクは生気論者でも目的論者でもない。彼は環境こそが進化を推進する力だと考え(ダーウィンは変異の結果を分けるのが環境だと考える)、使用を通じて遺伝されて強化される器官と、使わずに弱められる器官を区別した。
 ラマルクの進化メカニズムはダーウィンのそれとは異なるが、予測される結果は同じである。環境の変化によって引き起こされる、長時間に渡っての、系統内での適応的な変化がその結果である。ダーウィンと同じように、ラマルクも自分の理論を支持するために家畜や飼料に言及している。今では機能していない器官、成熟するとなくなる構造等も挙げている。彼は地球の歴史が極めて古く、そこでの自然選択の可能性さえ示唆している。
 ダーウィンは最初ラマルクの用不用説を否定したが、『種の起源』の後の版ではそれを認めている。ラマルク流の遺伝は現在では遺伝学上否定されているが、メンデルの遺伝法則の再発見までは(メンデル以外のほぼ)誰も遺伝のメカニズムを知らなかった。
 幾つかの点でラマルクの理論は現代の進化生物学とは異なっている。ラマルクは無機物から完全な存在までの漸進的系列というボネー(Charles Bonnet, 1720-1793)の新プラトン的見解を採用し、それを修正し、時間的な移行の原理を加えた。さらに、彼はこの移行が階段状ではなく、分岐的な樹状であると考えた。だが、その樹はダーウィンとは違って、単系統ではなく、異なる系統毎に複数考えられた。彼は進化を偶然によってではなく、複雑さと完全さが増大する過程と考えていた。ラマルクは絶滅を信じていなかった。消えたように見える種は異なる種に進化したのである。だから、彼は単純な有機体が恒常的に自然発生することを仮定しなければならなかった。
ダーウィンとウォーレス:生態学的な圧力と自然選択]
 ダーウィンは当初エディンバラ大学で医学を学ぶ予定だったが、彼には全く興味がなかった。さらに、神学にも無関心で、医学同様にあきらめたのだが、熱心な博物学愛好家だった。彼の生涯での転機は世界を巡る航海だった。ケンブリッジのヘンスロー教授の薦めで、探検船ビーグル号に(船長の話し相手として)乗ることになった。そして、1831年12月ダーウィンは歴史的な旅に出ることになった。
 ビーグル号は地球一周に5年を要した。その使命は立ち寄る各地でのすべての研究であった。ダーウィンの進化論者への転身はこの旅の間に起こった。南アメリカの沿岸を旅しながら、彼はかつてフンボルト(Alexander von Humboldt, 1769-1859)がしたのと同じ観察をした。彼には種の物理的な特徴と物理的な環境の間には密接な関係があるように見えた。類似した、しかし異なる生物種を数多く見ることによって、ダーウィンは神がなぜこのように多くの数の系統を造ったのか疑いをもった。
 動植物の研究に加えて、彼は地質学的な特徴も考察している。そして、携帯していたライエル(Charles Lyell, 1798-1875)の『地質学原理(Principles of Geology)』(3 volumes, 1830-33)の内容にも心を奪われていく。内陸の調査では地質学的研究と化石の収集を行ない、ライエルとハットンの理論が観察結果と合致することを確認している。
 ガラパゴス諸島ダーウィンにもっとも不思議な動物相を見せてくれた。約20の小島からなるガラパゴス諸島ダーウィンがもっとも驚いたのは、そこに見出される26種の鳥のうち21種が世界の他の場所には見られないものだった。他の動物種も多くは島固有の種であった。どうしてこのようなことが起こったのか。
 長い旅の後で、ガラパゴスフィンチの観察結果をどのように説明するか考察を始める。1842年にダウンに落ち着き、彼は動植物の飼育の過程に強い関心をもった。例えば、彼は農夫が特定の特徴をもつ牛、羊、穀物をどのように育て上げるか研究している。家畜化の研究によって彼は新しい変種を生み出す方法として自然選択の概念をもつようになった。
 マルサス(Thomas Malthus, 1766-1834)は1798年刊行の『人口論(An Essay on the Principle of Population, as it Affects the Future Improvement of Society)』で有名である。彼の重要な予測は、人間の人口は誰にでも十分な食物を供給する資源を超える点まで増える、というものだった。 ダーウィン1838年にこの本を読み、フィルターの役割をするメカニズムとして生態学的な圧力の重要性に気づくことになる。
 ダーウィンは彼の新しい洞察の重要性をじっくり考えながら、それらをノートしていった。ライエルと個人的に意見を交わしたが、ライエルはその内容の出版を勧めた。にもかかわらず、ダーウィンはなかなか出版しなかった。ウォーレス(Alfred Wallace, 1823-1913)もマルサスの本を読み、ダーウィンと同じような刺激を受けた。ウォーレスは赴任先のマレー半島で研究しながら、自然選択による進化という考えにダーウィンとは独立に到達する。1858年に彼は自分の考えをまとめ、それをダーウィンに送った。それは ‘On the Tendency of Varieties to Depart Indefinitely from the Original Type’ という論文だった。ライエルの心配はここで現実のものとなった。その内容はダーウィンが考えていたものと基本的に同じだった。そこで「微妙な調整」がフッカーとライエルによって考えられ、ダーウィンとウォーレスの二人の共同論文という形をとってリンネ協会で1858年に発表されることとなった。そして、その発表後に、ダーウィンは『種の起源』(1859)を刊行した。
ダーウィン革命] 
 1859年のダーウィンによる『種の起源』の刊行は知的歴史の新しい時代を切り開いた。彼は有機体が進化することを示す証拠を集め、その進化の過程、仕組みとして自然選択を発見した。ダーウィンの仕事の意味は、3世紀前の物理世界におけるコペルニクス革命の完成でもあった。16,7世紀のコペルニクスケプラーガリレオ、そしてニュートンの発見は宇宙の仕組みが人間の理性によって説明できることを明らかにした。地球は宇宙の中心にはなく、小さな惑星の一つに過ぎなく、宇宙は時空的に広大で、太陽の周りの惑星運動は地上の物体の運動と同じ法則によって説明できることが示された。これらの発見は人間の知識を拡大しただけでなく、それらによって知的な革命がもたらされた。宇宙が自然現象を引き起こす内在的な法則に従うという仮定を置くことによって、宇宙の諸現象は(宗教や形而上学ではなく)自然科学の対象となり、自然法則を通じて説明されることになった。
 ダーウィンはこのコペルニクス革命を受け継ぎ、運動する物体の法則的なシステムとしての自然を生物学に拡大することによって革命を完成させた。この拡大によって、有機体の適応と多様性、高度な形態の起源、さらには人間の生物的な起源が自然法則に支配される自然変化の過程によって説明されることになる。それまでは有機体の起源とその見事な適応は科学的に説明されず、全能の創造主のデザインに帰されていた。神はすべての生き物を造り、私たちが見ることができるように私たちの眼をつくった。あるいは、水中で息ができるように魚にえらを与えた。哲学者も神学者も有機体の機能的なデザインは全能の神の存在を明らかにするものだと論じていた。デザインのあるところにはデザイナーが必要である。それは時計の存在が時計作りの職人の存在を含意するのと同じで、この世界のデザイナーが神であった。
 ペイリー(William Paley, 1743-1805)は『自然神学(Natural Theology)』(1802)で創造主の存在証明として「デザインからの論証」を入念に行った。ペイリーによれば、人間の眼の機能的なデザインは神の存在の決定的な証拠を与えてくれる。人間の眼が単なる偶然によって存在すると仮定するのは意味がなく、ばかげていると彼は書いている。また、人間の手の構造と機能も議論の余地のない証拠として挙げられている。
 物理科学の進展によって自然法則による科学的説明が地上と天上の物質世界を支配することになった。生物世界にもこの科学的説明を適用し、デザインによる説明を否定し、真に統合的な科学的説明を徹底したのがダーウィンである。
 ダーウィンの自然選択による進化のモデルは次のような事柄からなっている。

生物集団は有機体からなり、その形質は互いに変異している。
多くの形質の変異は遺伝する。
ある形質の変異は他の変異より有利である。
変異が有利か不利かは集団の棲む環境に依存する。
特定形質の変異の頻度は生存と繁殖の違いによって長時間にわたって変化する。
進化は集団や種に起こるのであって、個体に起こるのではない。
子孫はその両親に似ているが、正確に同じではない。
有機体は生存できる以上の子孫をつくる。
資源が限られているゆえ、過剰の有機体の間には競争がある。

(問)上の事柄を使って自然選択による進化の説明構図を考えてみよ。

このようなダーウィンの自然選択モデルとペイリーやラマルクの考えを比較してみると、ダーウィンの考えの斬新さが明らかになるだろう。比較のために下にペイリーとラマルクのモデルの特徴を挙げておこう。

ペイリーのモデル
有機体の環境への適応の完全性の説明は知的なデザイナーによる。
種は固定しており、その本質的な型は不変である。
ラマルクのモデル
種の変化を説明するのに有機体の要求(needs)が仮定される。
遺伝は特定の身体部分の用不用によって影響を受ける。

(問)ダーウィン、ペイリー、ラマルクの生物についての考えの違いを説明せよ。

[歴史から]
 ここでは物理的な自然生命的な自然をそこでの変化をどのように考えるかを中心にして考えてきた。僅かな歴史的事実だけから一般的な結論を出すことは危険であるが、今までの歴史的な概観からまとめることができる内容は次のようになるだろう。

ギリシャ哲学はプラトンアリストテレスに代表される、異なる総合をもたらしたが、いずれの総合も基本的な点で問題を含んでいた。変化についてのギリシャ哲学の探求は自然主義からスタートし、合理的な説明を目指した。その最終版の一つがアリストテレスであるとすれば、ガリレオに始まる経験科学はアリストテレスへの異議申立てである。自然主義的探求はアリストテレスの誤った総合からの開放であり、それが物理学や生物学といった経験科学を生み出していった。