物理学史のエッセンス(2)

近代物理学の展開と矛盾の拡大
<熱学・気体分子運動論>
 カルノー(1796-1832)の『火の動力についての省察』が第一歩。彼は熱素説に立っていたが、「熱は運動の原因になることができ、しかもそれが非常に大きな動力を持つことを知らぬ人はいない。」と述べ、「熱から動力が発生するとき、必ず高温から低温への熱の移動が伴う」こと、「熱平衡状態の下では熱から動力を得ることはできない」こと、そして、断熱膨張で温度が下がり、断熱圧縮で温度が上がるという事実に注目し、理想的な熱機関(カルノー機関)を考察し、これを越える熱機関は原理上存在しないことを示した(この理想機関は可逆的な機関であり、現実の機関は不可逆的ということになる)。
 熱力学の二つの法則はクラウジウス(1822-1888)による。
1 仕事を熱に、また熱を仕事に変えることができるが、そのとき一方の量は他方の量に常に比例する。
2 変化を一切起こさずに熱を低温物体から高温物体へ移すことはできない。この法則は可逆過程ではエントロピーの保存を、非可逆過程では必エントロピーの増加を含意する。
クラウジウスは熱素説による気体の諸性質を分子運動の立場から書き直そうとした。
 マックスウエル(1831-1879)は気体の諸性質を分子運動の結果として導出する立場(統計的方法)をとり、気体の速度分布、エネルギー等分配則、ボイル・シャールの法則、アヴォガドロの仮説を導いた。
 ボルツマン(1844-1906)は非平衡状態にある分子集団が非可逆的に、一意的な平衡状態に達することの力学的保証をもとめ、平衡状態の条件からマックスウエルの分布関数を導き、また彼の導いたH関数が熱力学のエントロピーと関係していることも明かとなり、熱力学の第2法則の統計的証明がなされたと考えた。彼の導出したものはボルツマンのH定理と呼ばれている。分子運動論者は分子の衝突における力学的法則と確率論とを併用している。それはまた「どのような条件のもとで力学系の時間的平均が力学系の空間的平均に等しいか」というエルゴード仮説でもある。
電磁気学
 天然磁石が鉄を引きつけたり、琥珀を摩擦すると小さな塵が引きつけられたりすることは古くから知られていた。ギルバートの『磁石について』は1600年び出版されている。1785年にフランスのクーロン(1738-1806)によって「2つの同種に帯電した2球間の斥力は、その球の中心間の距離の2乗に反比例する(クーロンの法則)」が確かめられた。1820年デンマークのエルステッド(1757-1851)によって「電流の磁気作用」が見出され、アンペール(1775-1836)、ガウス(1777-1855)、オーム(1787-1854)によって、電流の作る磁場と電流が導体を流れる仕方(磁極はそれと電流の流れる針金とを結ぶ線に直角の方向に動かされる)と我定量的、数学的に明らかにされた。1831年にイギリスのファラデー(1791-1867)によって電磁誘導が発見され、1837年には近接作用論の立場から電磁理論の基礎が確立された。1864年スコットランドのマックスウエルは「電磁場の動力学的理論」(この論文の翻訳版はPhilosophy Societyに掲載)を発表し、光の電磁理論(1861)と電磁波の存在を予言した。1887年にドイツのヘルツ(1857-1894)はマックスウエルの予言した電磁波の存在証明実験に成功した。
 ニュートンは光は小さい粒子であると考えていたが、これに対しホイヘンス(1629-1695)は光の波動説を唱えていた。光の波動説は光の「直進」、「回折」、「反射」、「屈折」、「干渉」、「分散」などの諸性質をうまく説明できた。ホイヘンスは「真空」中にあっても光を伝える「エーテル」なるものを考えていた。マックスウエルによって光が電磁波であることが明かとなったので、この波を伝える媒質としての「エーテル」の存在が問題となってきた。
マイケルソン(1852-1931)とモーレー(1838-1923)は地球とエーテルとの相対運動を発見する目的で実験したが、結果は否定的であった。その結果は、エーテルが地球の表面に対して静止しているというものだった。
<原子論と放射能の発見>
 イギリスの化学者ドールトン(1766-1844)は1808年に『化学の新体系』の第1巻を発表し、原子論を系統的に展開した。以来イタリアのアボガドロ(1776-1856)の分子論の提唱(1811)もあり、気体分子運動論も一定の成功をおさめていた。分子はいくつかの原子の結合体として理解され、物質の究極の粒子としての原子はこれ以上分割できないものと考えられていた。1869年にドイツのヒットルフによって陰極線が発見され、1897年にJ.J.トムソン(1856-1940)は陰極線が電子の流れであることを確認した。電子は全ての物質に含まれていることもわかってきた。真空放電の研究から1895年にはドイツのレントゲン(1845-1923)がX線を発見し、それが大変短い電磁波であることも明かとなった。1896年にはフランスのベクレル(1852-1908)がウランの放射能を発見し、1898年にはフランスのキュリー夫妻(1859-1906、1871-1934)が放射性元素ラジウムポロニウムを発見した。
 原子は不安なものもあり、その構造が問題となった。1904年にトムソンは、プラスの電気を帯びた流体的物質が原子全体にわたって存在しており、そのなかに多くの電子が特別の配位をもって運動しているというトムソンの原子模型を提出した。1911年にラザフォード(1871-1937)は、アルファ線と原子との衝突の実験を行い、原子はトムソン模型のようなものではなく、正電気をもった原子核のまわりをまわる電子の群からなると考えた。しかし、そのような原子が安定に存在する理由はすぐには見つけることができなかった。光あるいは紫外線を金属に当てるとき、金属内にあった電子が照射した光のエネルギーを吸収して外に飛び出る現象(光電効果)がある。これは光の波動論では説明できない。

現代物理学の成立
相対性理論
 マイケルソンとモーレーの実験結果に対し、ローレンツ(1853-1928)は「個体は静止エーテル中を運動すると、物体の大きさにその影響が及ぶと考えなければならない(ローレンツ短縮の仮説)」とした。アインシュタイン(1879-1955)の特殊相対性理論(1905)はニュートン的な絶対時空概念を根本から変革する画期的なものである。アインシュタインは一人でこの理論を作り上げたが、その正しさはその後証明されている。それは次の2つの原理を基礎とし、これから導くことが出来る。
1特殊相対性原理:互いに等速度運動をするすべての慣性系において、物理法則はいつも同じ形で成り立つ。
2光速不変の原理:光は真空中を常に一定の速さcで伝わり、この速さは慣性系における光源および観測者の運動状態には無関係である。
この理論は光の速度に近い速さで運動している物体に現れる一見奇妙な現象、「時計の遅れ」「長さの短縮」、「質量の増加」などを予言し説明した。
  一般相対性理論は1915年に発表された。特殊相対性理論で扱うのは慣性系だけであったが、アインシュタインはこれを一般化し、加速系をも包括的に扱う理論を作り上げた。
1一般相対性原理:加速度運動している系を含めて、すべての系で、物理法則の形は不変である。
2等価原理:重力と加速系の見かけの力とは区別ができず、本質的には同じものである。
加速度系というものはなく、あるのは慣性系だけであり、加速度系とみえるのは実は重力が加わった系なのである。
 この理論によると、光も重力によって曲げられ、重力のあるところでは時計はゆっくり進む。大きな質量が一定の大きさ内の小さいところに集中していると、それが及ぼす強い重力のために、外から光が吸い込まれることはあっても、そこから外に光は出ることが出来ないことも起こりうる(ブラックホール)。
量子力学の成立過程>
 1900年のプランクの量子仮説は、空洞輻射(黒体輻射)に関する光のエネルギー分布を説明するために導入されたものである。それはいわゆるプランクの内挿公式である。プランクは彼の内挿公式がどの様な仮定のもとに導かれるかを考察し、「力学的エネルギーの連続性」を放棄し、調和振動子のエネルギーをエネルギー要素 hνの整数倍に量子化された非連続的な値をとると仮定することにあると考えた(量子仮説)。
  プランクの導入した作用量子hは自然の不連続性を規定する革命的なものだった。このエネルギー量子の考えは1905年にアインシュタインによって「光量子」の主張として展開された。光の粒子説は「光電効果」を説明することができた。1923年にはコンプトン(1892-1962)によってコンプトン散乱という現象が見つかり、光はエネルキー量子であるだけでなく、運動量としても粒子であることが確かなものとなった。
  1913年にデンマークのN・ボーア(1885-1962)がラザフォードの原子模型を使って、原子核のまわりを動く電子は、幾つかの許された軌道の上だけをまわるという「原子論」を提唱。そこでは電子の運動量の大きさと電子の軌道の1周の長さをかけたものはプランクの定数hの整数倍になるものだけが許される(ボーアの量子条件)。電子がエネルギーの高い軌道から低い軌道に遷移するときに光を放出するとして、水素原子からの光の離散的スペクトラムを見事に説明した。1923年にフランスのド・ブロイ(1892-1987)によって、「ド・ブロイ波(物質波)」と呼ばれる電子にともなう位相波が提案され、それによって原子の中での電子の軌道の安定性が説明された。ド・ブロイ波は後にアメリカのデヴィソン(1881-1958)、ガーマー(1896-1971)らの電子線回折の実験(1927)によって、その実在性が立証された。1926年にド・ブロイの物質波がどのように伝わるかを決める方程式はオーストリアシュレーディンガー(1887-1961)によって与えられた(シュレーディンガー方程式)。波動力学では物質波は複素数波動関数)であらわされる。1925年にドイツのハイゼンベルグ(1901-1976)はシュレーディンガーとは別の行列力学を提唱していた。シュレーディンガー行列力学の内容は波動力学に包含されることも明かとした。
量子力学の認識論>
 光は電磁波として波であるとともに光量子としてエネルギー粒子であることになった。電子は決まった質量と電価をもった粒子でありながら、同時にド・ブロイの波であることになった。量子の世界における粒子性と波動性という物質の2重性は全ての物質に存在することが明かとなった。さらに、ハイゼンベルグが示した「不確定性関係」は物質についての人間の認識の限界を示すものではないかとの解釈も生まれ、認識論上の大きな争点となった。ゲッチンゲン学派のボルン(1882-1970)は1926年に波動関数に対して画期的な「確率解釈」を提唱した。それは解釈というよりは「量子力学の確率規則」とも言うべきものであり、波動関数の絶対値が存在確率を表すというものである。さらに、ハイゼンベルグによって、1927年に量子力学における「不確定性関係」が提唱された。それは電子の位置と運動量を同時にかつ無制限に精確に確定することは原理的に不可能であり、その精度はプランクの定数 hによって特徴付けられる「不確定性関係」によって制約されている。
 1932年にブタペスト生まれのノイマン(1903-1957)は量子力学に現れる不確定性関係は「隠れた変数」の存在によるものではないことを示した。物質の粒子性と波動性という二重性、量子力学の確率規則と不確定性関係などに現れる量子の世界の特異な諸性質は、その成立の当初から解釈をめぐって論争となった。波動関数として表現される量子力学的状態と現象との関係は「観測問題」につて鋭い対立をもたらしてきた。
<原子・原子核素粒子の世界>
  原子より小さい世界では量子力学が適用される。1911年にラザフォードによって原子核が見いだされ、1932年にチャドヴィクはアルファ線ベリリウムに当てた際に放出される中性子が衝突して蹴飛ばされた反跳陽子を観測し、中性子を発見した。原子核は陽子と中性子によって作られていることがわかってきた。1935年に湯川(1907-1981)が核子核子を引き付けている力として電子の200倍の質量をもつ中間子が交換されるとするモデルを提唱した。この中間子は1947年にパウエル(1903-1963)らによって宇宙線の中に発見され、1948年には加速器によって人工的につくりだすことができるようになった。湯川は1949年に「核力の理論による中間子存在の予言」の業績によってノーベル物理学賞を日本人として初めて授賞した。1928年にデイラック(1902-1984)は相対論的電子論を作り上げたが、そこでは陽電子という電子の反物質の存在を予言することとなった。この陽電子は1932年にアンダーソンによって宇宙線の中で発見された。1955年にはセグレらにより反陽子も発見され、デイラックの「真空からの対生成」の理論は実験的に検証された。1956年に坂田によって素粒子の複合モデルが提唱されたが、1964年にはゲルマンとツヴァイクによって素粒子クオーク模型が提唱された。現在では更に改良され、標準模型として確立している。1926年のハップルによる宇宙の遠方からの光の赤方偏移の発見、1965年のベンジアスとウイルソンの宇宙背景輻射の発見を基礎とした膨張宇宙論は、素粒子原子核の理論を基礎として宇宙発展の壮大な歴史を明かしつつある。

*神話、宗教教義、形而上学の主張を信じることと科学理論を信じることの間には大きな違いがある。上述のスケッチは異なる理論の間に見出される異同、あるいは共振はそれまでのものとは違っていることを見事に示してくれる。根本的に異なる原理からスタートするのではなく、共有部分を多く持ちながら、僅かな違いに焦点を当て、それが根本的に異なる原理を見出すことに繋がっている。それぞれ独立に林立する宗教教義や形而上学と違って、地下茎でつながりながら、それを伸ばしたり切ったりしているのである。このような違いが二つの異なる「信念」に集約されている。
 ある神話の内容と量子力学の内容を同じように考察する人はいない。だが、いずれも正しい主張だとすれば、その主張を験証する方法が違うことを最初から認める理由は一体何なのか。どうして同じ方法で験証してはならないのか。小学生がもつ疑問だが、その解答は決して易しくない。