モデル生物:博物学と生物学の違い

 私はファーブルやダーウィンのように生き物すべてに強い関心をもつ少年ではありませんでしたが、生き物に無関心だった訳ではありません。小学生の頃、夏休みとなれば動植物の採集に明け暮れました。そのためか、今でも周りの植物に関心をもっています。かつてヨーロッパでは自然哲学(物理学)と自然史(博物学、生物学)が自然研究の二大分野でした。そして、その自然史に惹かれたのがファーブルやダーウィンでした。

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シロイヌナズナ

 ショウジョウバエ大腸菌と並んで有名な植物学でのモデル生物がシロイヌナズナ。かつてシロイヌナズナは役に立たないただの雑草(ぺんぺん草の仲間)でした。でも、色々な実験が出来る偉大なる「モデル植物」になったのです。シロイヌナズナゲノム解析は既に終了していて、遺伝子の働きとタンパク質が、全ての植物の中で一番詳しく調べられています。シロイヌナズナは植物の研究を行う上での代表的なモデル植物です。育てるのに場所を取らない、発芽から種をつけるまでの期間が短い、ゲノムサイズが小さいなど、遺伝学的な研究を進める点での利点がたくさんあります(これはショウジョウバエ大腸菌と同じです)。全世界に広がり、多くのエコタイプ(地域の環境に合わせて性質が分化し、遺伝的に固定されている型)があることから進化の研究にも使われます。植物が、受精からはじまって枯死するまで、すべて見ることができます。
 マッピングというのは、ある遺伝子がゲノムあるいは染色体上のどの場所にあるかを特定する作業のことです。シロイヌナズナはゲノムの解読が終了していて、染色体の数も少なく、たくさんの人が研究しているため手法が確立されている点からもマッピングが簡単にできます。また、シロイヌナズナは、世代時間(個体が成長して種を収穫するまで)が6週間と短く、塩基の数が種子植物の中で最も少なく、染色体の数も5対と少ないという特徴があり、研究材料として扱いやすい遺伝学のモデル植物です。多数の突然変異株、DNAクローン、形質転換系統などが世界中で共有されており、研究に利用できるようになっています。シロイヌナズナは、世界各地に広く分布する草本植物です。世代交代が非常に早く、およそ50日で播種から結実まで完了します。染色体数が2n=10で、持っている遺伝子数が少ないことから、古くから遺伝学の実験に用いられてきています。現在ではゲノムの塩基配列もすべて明らかになり、最もよく研究されている植物です。このような実験基盤が整っているので良く用いられますが、すべての植物を代表しているわけではないということを念頭に置く必要があります。
 分子遺伝学の発展はモデル生物の存在のおかげです。生物学では、研究分野の発展に合わせてさまざまなモデル生物が使われてきました。特に、遺伝子を扱う分子遺伝学の分野では、特定の生物への研究が集中することになります。モデル生物には、扱いやすいサイズで、観察しやすい、入手や維持が困難ではない、など様々な条件が求められます。遺伝学、特に分子レベルの遺伝学では、世代交代が早い、ゲノムサイズが小さい、遺伝子組み換えができるなどの条件が重要になります。また、ゲノム配列が解読されると、その生物のモデル生物としての有用性は益々高くなります。モデルの生物の代表は、大腸菌ショウジョウバエ、マウス、ゼブラフィッシュ、シロイヌナズナなどがあります。世界中の研究者が同じモデル生物を扱うことによって、研究を効果的に進めることができます。対象が同じ生物であれば、研究結果や研究材料を共有し、共通の知識を蓄積できるからです。以前は、モデル生物の代表と言えば大腸菌でした。世代交代は最短で20分と非常に短く、寒天培地で、1つの細胞と同一の遺伝子を持った株が無数に手に入ります。大腸菌のプラスミドで、遺伝子組み換え技術が実用化されました。現在も大腸菌がなければ、分子生物学の実験は立ち行きません。
 真核生物のモデル生物ではショウジョウバエで、長い歴史をもっています。染色体上の遺伝子の相対的位置を示したものが「染色体地図」で,モーガンらが初めてキイロショウジョウバエで作成しました。コロンビア大学のキャンパス付近に捨てられるバナナの皮などで簡単に飼育できるミバエが選ばれ、最初のモデル動物になりました。モデル生物によって、野外での採集と観察から、実験室での実験へと研究方法が変わったのです。ハエの産卵数は1日に約50個、10日ほどで成虫になります。体長2~3mmで、試験管でも飼育が可能です。モーガンが白い眼の突然変異を発見して以来、体の色などの突然変異が見つかりました。それらを用いて、染色体地図が初めて明らかにされました。
 モデル生物の存在なくして分子遺伝学の発展は語れません。ただし、モデル生物は便利さから選ばれたものであり、決して生物の生命現象の全てを表す代表ではないことを忘れてはなりません。生物世界は物理世界に比べて変化がより鮮明に経験できます。生死は生物世界の大きな特徴です。多様な現象変化、形態変化、生態変化、動物相や植物相の変化への私たちの一喜一憂の背後には自然への驚愕、畏敬などが綯い交ぜになり、それがかつて自然哲学と自然史を分けていた心理的な理由になっていました。モデル生物によって予測や説明ができないと思われていた天変地異を含む自然界の不可思議は物理学のモデルを使った研究に似た研究方法が採用でき、大いに進展しました。20世紀後半以降の生物学の知見は爆発的に増えましたが、その大半にモデル生物は大きな役割を演じてきたのです。それにしても、ショウジョウバエ大腸菌シロイヌナズナのどれも、昆虫少年や博物学者の関心の外にあったことを考えると、感慨深いものがあります。
 ところで、物理学や化学にはモデル物体、モデル物質なるものはあるでしょうか。