「野ばら」のバラはイヌバラ

 ゲーテの詩「野ばら」にはシューベルトは勿論、ベートーベン、シューマンブラームスを始め、多くの作曲家が曲をつけている。日本の学校で教えられ、よく知られている「野ばら」は、シューベルトとウェルナーの「野ばら」だろう。その二つの曲に同じ訳者が異なる訳詩をつけている。それぞれシューベルト、ウェルナーの曲に合わせて訳したものと思われるが、より比喩的なシューベルトの「野ばら」の訳詩を見てみよう。

1.童(わらべ)は見たり 野なかのばら
 清らに咲ける その色愛(め)でつ 飽かずながむ
 紅(くれない)におう 野なかのばら
2.手折(たお)りて往かん 野なかのばら
 手折らば手折れ 思出ぐさに 君を刺さん
 紅におう 野なかのばら
3.童は折りぬ 野なかのばら
 折られてあわれ 清らの色香 永久(とわ)にあせぬ
 紅におう 野なかのばら

私たちが親しんできた詩なのだが、この比喩に満ちた詩が何を表現しようとしているのか考えると、ゲーテの本音が見えてくる。
 少年が野のばらを、清らかで綺麗で見飽きないと褒めている。ゲーテは、女性の容姿を褒めまくる。2.の主語は童で、大胆にも「ばらを折る」と言う。すると、ばらは「貴方を刺すわ。いつまでも忘れないように」と言う。「折る」は隠喩で肉体関係を持つということ、「刺す」は、清らかな薔薇にふさわしく抵抗するが、それも印象を強める術である。ゲーテはばらを折ったが、哀れなばらの清らかな色と香りは永久に褪せない・・・。
 1770年秋に20歳のゲーテはフランス東部の村で18歳のフリーデリーケ・ブリオンと恋に落ちる。フリーデリーケは結婚を望んだが、ゲーテは彼女を残して一人で故郷に戻る。束縛を嫌ったと言われている。フリーデリーケは一生独身を通した。この詩はゲーテが若き自分の振舞いを悔いて書いたと言われている。比喩を巧みに駆使して、自分の行為を白状しているとなれば、この詩歌の味わい方も変わってくるだろう(詩が何を表現しようとしているかという点で、浜口の詩と比べてみてほしい)。
 文学に登場するお決まりの脇役となれば動植物である。動植物は人の好き勝手に使われ、大抵は人の引き立て役になり、搾取、借用、悪用がずっと続いてきた。食糧では飽き足らず、生活のすべての面に拡大され、当然文学や音楽でも動植物は必需品になった。そして、ゲーテに限らず、女性は花に喩えられ、比喩に使われてきた。
 野心的な青年のエゴイズム、女性に対する不実、それに対する苦い思い出と深い悔恨を表現するのに使われたのが野ばらである。ひねくれた人なら、一方的にゲーテの比喩のために使われた野ばらは浮かばれまいと思うのではないか。
 そのひねくれた人に従うなら、比喩に登場する動植物は本物の姿では毛頭ない。それぞれの動植物への人の勝手な思い込みが本来の動植物の性質をすっかり変えてしまう。人の文化の自然への侵入、浸食である。人がつくる、人のための勝手なコンテクストの中で、登場動植物も勝手に本性を捻じ曲げられ、奴隷の如くに材料として供されるのである、とその人は続けるだろう。。
 人為的コンテクストは、忘れられる自然と人の勝手な捏造による生活世界の一部からなっている。科学とは違って、文学や音楽が自然に対して中立的だという主義主張は既に大いに陰りを見せ、単なる無知に過ぎないと思われ出して久しい。
 さて、バラの原種について考えてみよう。日本で野バラといえば、一般にノイバラ(Rosa multiflora)を指すが、ヨーロッパでは、ロサ・カニナ(イヌバラ、Rosa canina)を指す。だから、ゲーテの「野ばら」は(そして、シューベルトの「野ばら」も)、ロサ・カニナだと言われている。同じ「野バラ」でも西洋と日本では違うバラを意味している。むろん、その違いはごく僅かなのだが…(画像参照)
 イヌバラの別名は文字通り「ドッグ・ローズ」。ヨーロッパ、西アジアに自生し、普通に見かける白やピンクの小さく素朴なバラ。常緑低木で、5から7枚の小葉がある。花は直径4–6 cmで白からピンク色。花弁は5枚。秋に結実する。ハマナスと並んで、その果実はローズヒップと呼ばれ、直径1.5–2 cmで橙赤色である。このバラがゲーテの詩に出てくる野ばらだろう。
 ロマン主義の闇には二通りある。比喩による美化という悪意ある企みと、美化に悪用される動植物の被害である。ノイバラ、イヌバラ、ハマナスは比喩の材料として文学者にどのように使われようと、それはバラたちには無関係なことで、バラたちの存在はそのことによって何ら変わることがない筈なのである。その筈なのに、人の魂胆は動植物の存続さえ左右する程強力なのである。恐ろしや、恐ろしや。

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イヌバラ

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ノイバラ

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ハマナス