論証は物語の抜け殻なのか、それとも理性の自己主張なのか?(2)

パルメニデス哲学:不変性と次元>
ギリシャ哲学の最初の関心は自然に向けられ、自然の謎を既知の自然のものを使って考え、説明するという、いわゆる「自然主義、物理主義」の原型が生み出された。ターレスが偽物の原因として退けたのは自然の中には存在しない原因だった。変化を変化しない普遍のもので説明すること自体は疑われない中で、変化自体を全面的に否定する哲学者が現われた。それがパルメニデスで、存在するものはすべて不変で、生成も消滅もなく、運動変化も幻覚でしかないと説く。この意表を突く主張を文字通りに信じ切れる人はいないだろう。彼の主張を心底信じるには生命の進化や社会の歴史だけでなく、自分の誕生や死を含んだ生活世界そのものを否定しなければならないと考えるからである。パルメニデスの無謀とも思える主張は仮説でも経験的事実でもなく、より基本的な前提からの帰結である。それを信じられないと思う人はパルメニデスの主張のより具体的表現であるゼノンのパラドクスに対峙し、それを打ち破らなければならない、と言われてきた。確かにパルメニデスの主張とゼノンの主張は似ており、二人とも運動を否定する。だが、二人が否定する理由は全く異なっている。それゆえ、ゼノンのパラドクスを解決してもパルメニデスの主張が否定されたわけではないし、パルメニデスの主張が否定されてもゼノンのパラドクスが解決されたことにもならない。
*ゼノンのパラドクスを運動の分割自体が必ず矛盾を導くものであると考えれば、パルメニデスの主張の別表現と考えることができる。だが、特別の分割について矛盾が出るというだけでは、パルメニデスの擁護にはならない。これは、パルメニデスの哲学を現代風に理解する態度がもつ危険と、パルメニデスとゼノンの関係についての警告になる。ファン デル ヴェルデン(Bartel Leendert van der Waerden), ‘Zenon und die Grundlagenkrise der griechischen Mathematik’ (「ゼノンとギリシャ数学の根底的危機」),Mathematische Annalen, Bd. 117, 1940. タンヌリ(P. Tannery), ‘Le Concept Scientifique du continu: Zenon d'Elee et Georg Cantor’, Revue Philosophique de la France et de l'Etranger, 20: 385, 1885.タンヌリによると、ゼノンは運動を否定しようとしたのではなく,むしろ,無限小概念を曖昧のまま使っていると,運動が起こりえないということになると警告したということになる。だが、パルメニデスの哲学では,変化・生成・運動は幻想に過ぎなく,学問の対象にならないとされているので,無限小を使うと運動が起こらないことになるという主張は,運動なるものの存在を信じている人ならばともかく,およそエレア学派のゼノンなら主張するはずがない。これがファン・デル・ヴェルデンの意見である。だが、パルメニデスとゼノンの運動否定の理由は同じではない、これが私の見解である。

 物語ではなく論証からなるパルメニデスの哲学は、どのような筋立てなのか。彼の哲学は、次のような思考と存在の関係に関する基本前提からなっている。

対象を考えることができるなら、それは存在でき、その逆も成立する。
対象が存在しないならば、それは存在できず、その逆も成立する。

これら二つの前提から次の命題が得られる。

実際に存在しない対象について考えたり、語ったりすることはできない。

この命題から「存在する」⇔「存在できる」⇔「存在を知る」という同値関係が導き出され、いわゆる様相の無視が明らかになる。そして、次のような命題が導出される。

生成消滅はなく、運動変化はなく、質的差異はなく、そして多数性もない。

どのようにこれらの命題が導出されるかは省き、哲学史家からは怒られるが、思い切って現代的な観点から彼の前提を見直してみよう。彼の前提は存在、存在可能性、思考可能性の間の区別を無視する点で、ブロック宇宙モデル(Block Universe Model)に大変よく似ている。パルメニデスの世界が数学的で、数学的世界には変化がないことを思い起こせば、数学的モデルであることがパルメニデスの前提をそのまま満たすことにまず注目したい。その数学的モデル内では彼の前提が正しいことを確認しよう。幾何学代数学のモデルでは確かに運動変化も生成消滅もない。パルメニデスの世界は物理世界を相空間(Phase Space)で捉え、それに時間軸も加えたものにほぼ等しい。相空間に時間の次元を加えれば、絵巻物に描かれた対象のように、空間内のものはすべて静止したままとなる。そこでは運動変化が動いている形態では存在せず、軌跡として存在する。このモデル内には変化がなく、ユークリッド幾何学的世界と基本的に変わらない。これが運動変化は幻覚に過ぎないというパルメニデスの理由だと考えれば、私たちもこの数学的モデルには運動変化がないことを彼と同じように認めることができる。
幾何学的世界に運動があると考えることは不自然ではない。点や線、図形は空間内を動くことができるし、そう考えたほうがユークリッドの考えに合っている。対象を表示するために使われる点や図形は動かないが、それが数学的な対象である場合は動く。これは上記の内容と矛盾しない。

 過去のもの、現在のもの、未来のもの、あるいは可能なもの、現実のもの、語りうるものの区別はこのモデルには一切ない。すべては「ある」という述語で表現され、存在しないものは描かれていない。パルメニデスがこのモデルを採用したという証拠はないが、運動変化が幻覚に過ぎないという理由はこのモデルで十分説明できる。
だが、このモデルを実際に使っている物理学では変化を扱っている。そして、このモデルを物理世界に適用して変化を実際に説明している。それはどのようにして可能なのか。このモデルによる変化の説明は、変化を見る視点をもつ私たちの経験の導入によってなされる。例えば、4次元の世界の軌跡は、その同じ世界を3次元で考えた場合、その軌跡上を動く運動として変化を経験することになる。つまり、時間軸を取り去るという次元の還元が運動を見る視点をもつ経験の導入によって補完される。また、時間軸を含む3次元の空間上の直線は時間軸を取り除いた2次元では一点から延び続ける線としてその先端が動いているように私たちに経験される。その動きはある視点から見られた空間内の運動で、「過去、現在、未来」と時制で表現される時間的な視点と協働している。3次元の世界で対象が運動する様子は「過去から現在まで描かれ終わり、未来はこれから描かれることになる」ように描写されるが、4次元の世界ではこのような時制の区別は登場せず、その必要もない。
*しばしば時間と時制の違いが問題になるが、時間軸の還元された空間で補完される運動はマクタガートの言うA-系列とB-系列の区別に対して、いずれでの運動とも考えることができる。還元された時間軸を補完する仕方は特に決まっていない。それゆえ、日常生活ではA-系列を、物理学ではB‐系列を使って補完される。補完は他の座標軸でも同じようにでき、AとBの系列に対応する区別をすることができる。物理空間と生活空間、空間と場所といった区別ができるが、混合した組み合わせはメートル法の一部に尺貫法を使うようなものになる。Hartle, J.B. (2005) 参照。

 時間の場合の視点と空間の場合の視点の具体的な違いは例を通じて知るのが適切だろう。また、「視点」は自然主義とどのような関係にあるのか。この問題は座標系の導入自体が自然主義にとっては最初から問題であり、実はユークリッド幾何学での図形の位置や他の図形との関係を考える際に図形を移動させる場合に暗黙のうちに気づかれていた問題である。座標系や視点が主観的であるとすれば、それらは認識的である。だが、座標系や視点そのものがモデルや図形に主役として登場しないのも確かである。視点はあるが、それはモデルの要素ではない。視点は座標系によって間接的に与えられ、次元の増減によってはっきり表現されるのは変化だけである。
これを図式化すれば、次のようになるのではないか。

4次元世界の記述 ⇔ 3次元世界の記述+視点をもつ運動変化の経験

私たちは時間軸を往来することなどできない。左右、前後、上下は移動できても、時間上の移動は不可能である。
*時間の場合の視点と空間の場合の視点の具体的な違いは例を通じて知るのが適切だろう。また、「視点」は自然主義とどのような関係にあるのか。この問題は座標系の導入自体が自然主義にとっては最初から問題であり、実はユークリッド幾何学での図形の位置や他の図形との関係を考える際に図形を移動させる場合に暗黙のうちに気づかれていた問題である。座標系や視点が主観的であるとすれば、それらは認識的である。だが、座標系や視点そのものがモデルや図形に主役として登場しないのも確かである。視点はあるが、それはモデルの要素ではない。視点は座標系によって間接的に与えられ、次元の増減によってはっきり表現されるのは変化だけである。

 こうして、「運動変化が幻覚に過ぎない」4次元世界の記述は、「次元(時間軸)の還元を補完するために運動変化が必要である」ことを意味していると解釈できることになる。完成された変化、完結した運動が記述・説明されるべきものであり、それは時間軸を加えることによって可能となる。運動変化を完全に把握するには完結した運動変化でなければならず、運動変化の途中の状態だけでは不十分である。次元を増やせば変化はなくなり、それゆえ、変化は時間軸の補完のための方便に過ぎなく、したがって、変化は幻覚に過ぎない。私たちは2次元に描かれた絵画を見て奥行きを理解でき、さらに遠近法を使うことによって3次元の構造がわかる。これは私たちが3次元を知っているからである。同じように3次元でも運動を経験することによって私たちは時間経過がわかる。遠近法と運動はいずれも高次の次元で表現できるものを巧みな工夫によって部分的に表現していると考えることができる。つまり、運動の経験は軌跡としての運動の不完全な表現と考えることができる。遠近法を使った絵が描かれた対象のすべての側面を同じ画面に表現できないという意味で不完全だとすれば、運動経験もすべての運動の特徴を理解するには不完全である。運動変化を完全に理解するにはそれを完結した形で捉えなければならない。運動の一部ではなく、運動の始まりから終わりまでを捉えることが運動の完全な理解に必要である。そして、それは4次元の世界で可能となる。
 何かとても難解な話のようになってしまったが、以上のことが私の勝手に理解したパルメニデスの主張のアウトラインである。上述の数学的モデル内の不変性はモデル間の不変性、そして、より重要な対称性(Symmetry)につながり、それが現代物理学のきわめて重要な概念にまで成長することになる。ともあれ、パルメニデスの変化の否定はゼノンのパラドクスが主張する運動変化の否定とは異なっている。どう異なるかはゼノンのパラドクスを見た上で考えることにしよう。

 パルメニデス、ゼノンに共通するのは、エレア学派の形而上学には当然ながら運動の法則は一切なく、それゆえ、世界は永遠の相のもと、完璧に傍観者の立場から眺められ、その幾何学的な構造だけが世界として理解されることになる。運動は幻覚なので、運動の法則はない。法則がないのであるから偶然も必然もなく、変幻自在な私は世界のどこにも存在しない。既述のようなモデルで理解したとしても、やはり、自らが生きる世界としては納得いかない世界であることは確かである。