理論と物語と、そして…

 以後の話に登場する主人公は理論と物語である。それらがどのようなものか先に知っておこう。理論とは第1階の述語論理とその言語によって表現される公理システムとして形式化された科学の知識だとしておこう。要は形式言語で表現された科学知識のことである。物語はこれまで馴染んできた神話、寓話、小説、演劇、歴史記述、日記等何でも構わないが、因果的に出来事が生起する様の叙述のことである。
さて、あなたは理論と物語のいずれをより信頼するだろうか。あなたが古代人なら物語を、あなたが現代人なら理論を信頼するというのが定番の答えである。ターレスは最初の哲学者として讃えられてきたが、それは彼が神話の世界から哲学の世界へと探求のパラダイムを変えたからだと言われてきた。世界の誕生から現在までを歴史的な物語として受け入れ、理解することと、世界の仕組みや構造に関して疑問をもち、それを哲学的に考察し、世界の基本的な原理や法則を探求することとの間には大きな違いがある。ターレスは後者の哲学的な疑問を探求のエネルギーとして世界を捉えようとしたということになっている。
*John Burnet’s Early Greek Philosophy is a reprint of the 3rd edition of John Burnet's famous study of Presocratic philosophy, Early Greek Philosophy, 3rd edition, 1920, London: A & C Black.
W. K. C. Guthrie, A History of Greek Philosophy Volume I: The Earlier Presocratics and the Pythagoreans (1962), A History of Greek Philosophy Volume II: The Presocratic Tradition from Parmenides to Democritus (1965), A History of Greek Philosophy Volume III: The Fifth-Century Enlightenment - Part 1: The Sophists; Part 2: Socrates (1971), A History of Greek Philosophy Volume IV: Plato - the Man and his Dialogues: Earlier Period (1975), A History of Greek Philosophy Volume V: The Later Plato and the Academy (1978), A History of Greek Philosophy Volume VI: Aristotle: An Encounter (1981) Cambridge: The University Press
Kathryn A. Morgan, Myth and philosophy from the Presocratics to Plato, Cambridge University Press, 2000.
 神話や物語として描かれた世界の姿を素直に受け入れること、理論をつくり、論証によって世界の姿を説明すること、これら二つは大変に異なった態度であり、その態度の変化が哲学、そして科学を生み出した、という考えは、相容れない二つの態度の歴史的な変化だとするなら、それは根本的に誤っているというのがここでの私の主張である。その理由は、つまるところ、理論と物語は両立可能なものであり、世界についての対立する見方、考え方などではないからである。互いに両立するゆえに、神話や物語から理論への移行ができ、理論から物語への移行も同じように行われてきたのである。それを表現するスローガンが「理論の解釈とは理論の物語化である」である。量子力学のようにその言明が古典的世界の変化に合致しない場合、私たちは合致しない理由を私たちが理解可能な(古典的な仕方で)説明しなければならない。そのためには量子力学の理論的主張のモデルをつくる必要がある。これは経験的な物語として理論的主張を書き直すことを意味している。「解釈する」、「注釈する」とは理論の中の言明を因果的な出来事の系列として理解することである。比喩的に言えば、理論的な言語系列を因果的な物語として翻訳することである。
 この主張を確かめるために、「神話と物理的宇宙論」のような対について考えてみよう。この対は根本的に相入れない、両立不可能なものと考えられてきたように思われる。世界や民族の起源、創生の物語は実に多い。世界中のどこにも存在し、それが宗教につながっている場合がほとんどである。特定の物語によって特定の人物や事柄が主人公として描かれ、英雄や奇跡がふんだんに登場し、それが人々に大きな感動を与え、人々を結びつけててきた。物語は人々を支配し、それを信じることが共同して生きることにつながっていた。物語が描く特定の内容は大変具体的であり、それを模倣することが人生のゴールにつながるように仕組まれていた。自らの起源、歴史が民族の起源と歴史として語られ、それが常識として生活に組み込まれている世界では、それに対して疑問をもったり、反抗したりということは実質的には起こりにくいことだった。
 一方、宇宙論は創世の神話に比べれば、随分新しいもので、現在新しい知見が増大している物理学の分野である。ビッグバン以降の宇宙の歴史が物理学の理論によって再構成されている。科学的な事実として宇宙の歴史を確定するのが宇宙論の目的である。創世神話が個別的で唯一の歴史物語であるのに対し、現代の宇宙論は歴史の再構成でありながら、そこで使われるのは物理学の一般的な知識、つまり物理法則と宇宙の物理状態である。つまり、物理学の知識と両立する範囲内での歴史の同定である。
これがより具体的に明らかに示されているのが生物学的な進化論である。この世界の中での生命の誕生とそれ以後の生命の歴史が進化論の扱う範囲である。生命の進化は歴史そのものであり、特定の惑星である地球で起きた生命現象の歴史そのものであり、これから起きると予想されるような変化ではない。

 かつてガリレオは物理的な性質と感覚的な性質を区別し、それが後にロックによって第1性質、第2性質と呼ばれることになった。色やにおい、味や手触りは感覚的、知覚的な性質であり、今ではクオリア(qualia)と呼ばれている。因果性も私たちの経験の中では現象変化を捉える上で不可欠のものとみなされてきた。クオリアが物理学に登場しないように、因果性も物理学には姿を見せない。クオリアと因果性は両方とも私たちの生活世界で重要な役割を果たすが、物理学の世界ではそれらを別の数学的概念によって巧みに置き換えることによってほぼ同じような結果を出すことができるようになっている。つまり、クオリアや因果性をそうではないものに置き換えることに邁進してきたのが科学の歴史なのである。物理学者の血の滲むような努力によって物理学の理論からクオリアも因果性も取り除くことに成功した。意識のハード・プロブレムとはこの成功が本当の成功だったのかどうか問うものだと考えるのがよいのかも知れない。
 コナン・ドイルであれアガサ・クリスティであれ、彼らの傑作を読んでいるときと、ユークリッドの偉大な『原論』を読んでいるときとで、私たちは大変異なる印象や感慨をもち、まるで違った心理状態にある。一体何がどのように違うのだろうか?ユークリッドよりアガサ・クリスティの方が面白いに決まっているのだが、それは何故なのか?それは物語が数学より面白いことを意味しているのだろうか?
 私たちが生きる世界、生活する世界は神話や物語によってその由来や構造が詠われ、語られることから始まり、いつしかそれらが書き記されるようになっていった。人が生きる世界は温もりや悲しみが染み渡った世界で、その世界に超自然的な力が働き、その力が世界と私たちを支配していると昔の人々は真剣に考えていた。今でも私たち自身、自らの生涯を歴史的に捉え、「自分史」などという言葉をしたり顔で使っている。自然、生命、個人、社会のどれも、まずは特定の歴史物語としてその由来が描かれ、理解されてきたことは紛れもない歴史的事実である。
 出来事は因果的に起こり、そこに目的や運命が絡まって物語ができあがる、というのが古代からの神話や物語の構成であり、古代の世界観の基調をなしている。この物語的、歴史的な変化を私たちの知力だけを使ってどのように正確に知り得るのかという疑問がギリシャ哲学を生み出し、それが紆余曲折を経て科学革命に繋がっていくことになる。そして、革命によって世界の本質を見極め、未知のものを説明し、自然を操作することが科学の目的として設定され、知識が組織的に探求され、世界を様々に描き出し、世界をつくり変えることになった。
 世界と私たちの間に一定の距離を置くことによって、つまり、「現実離れ」することによって俯瞰的な世界像を得ることができる。現実離れとは意図的に時間と空間を自在に分割し、外から時空を塊として見ることである。確かに、塊としての時空とその中の出来事は状態からなる抽象的な幾何学的空間の中での幾何学的変化に翻訳できる。それには随分時間が必要だったが、最終的には、因果的な状況に対峙して論理・数学的な構造が置かれ、物語は理論に取って代わられることになる。出来事の因果的な生起を論理的な状態変化として把握する試みの一歩がギリシャで始まり、終には歴史ではなく哲学が世界を知る装置になる。それまでは、『イーリアス』、『オデッセイア』から『聖書』、仏典、儒教の教えまで、どれをとっても因果的な出来事の生起とその意味が物語られ、伝承されてきた。誕生から死までの人生が物語であるように、世界の成立から現在の姿までの因果的な変化は物語として捉えられ、その背後の連関や構造が徹底して歴史的に解釈されていた。
 物語としての世界理解を一変させた最初の数学者、哲学者がターレスだと言われている。エジプトで測量術を学び、それを幾何学という数学的知識に編成し直し、それを使って世界の構造を捉えようとしたのがターレスだった。
 物事を数学的に理解するというターレスの合理的精神を受け継ぎ、それをより基礎的な部分から論理的に展開しようとしたのがパルメニデスデモクリトスである。歴史物語としてではなく、哲学として世界を基本から知ろうという試みがパルメニデスの不変の哲学であり、デモクリトスの原子論であった。世界を把握する根本的に異なる原理が見事にこれら二つの哲学的主張に表れている。物質の根本原理としての原子論は現在に至るまで私たちに浸透しているし、不変的世界像は世界の数学的な表現として物理学的モデルの基本的な枠組みとなっている。現在の物理学の基本理論に残る伝統はプラトンでもアリストテレスでもなく、パルメニデスデモクリトスの哲学の肝心な部分であり、それが幾何学や原子論で、神話や物語とは根本的に異なった「理論」という形式をもっている。神話や物語では特定の出来事の特定の因果的な系列が重要であるのに対し、何から説明できるか、何から構成されているかが重要なのが幾何学や原子論である。物語の登場人物は固有名をもち、その登場人物が行う行為は特定の出来事である。それら特定のものの特定の系列が歴史となり、物語として語られる。すべては特定のものからなるという点に神話や物語の特徴があり、それが由来や起源という歴史を通じた理解の仕方となってきた。一般的、普遍的、不変的な事柄に関する理論と歴史はこの点で大きく異なっている。歴史を直線的な時間観で捉えようと円環的な時間観で捉えようと、個別の出来事と登場人物からなる因果的な系列が歴史であり、基本的な法則や原子を使って現象を説明するのが理論である。
 パルメニデス哲学の神髄は古典力学の相空間(phase space)モデル、相対性理論の4次元モデル、量子力学ヒルベルト空間モデル等に見出すことができる。変化の本性を変化の始まりから終わりまですべて俯瞰することによって空間的に捉えるというのがパルメニデスのアイデアであり、それが物理理論の状態モデルの基本型として採用され続けてきた。
*古代のパルメニデス哲学も現代の物理学も、運動変化は変化の途中や断片ではなく、運動変化が始まり、そして終わるまでのすべてを同じように扱い、理解しようという試みである。不変性の要請は、エネルギーや質量の保存則が成り立つためであり、新しいものが生まれ、存在するものが死滅してはならない。
 一方の原子論は化学的原子論として近代になって花開くが、物質だけでなく、生命、精神、そして言語もその構成は基本的に原子論的であることが20世紀に認識されることになる。いずれの哲学も基本的な原理の組み合わせによって物事を論理的に説明しようという点で出来事の因果的な展開からなる歴史的説明とは根本的に異なっている。
*原子論が如何に普遍的かは、数学理論の「公理系」、「論理的原子論」といった用語から容易にわかるだろう。単純なものの組み合わせによって複雑なものをつくり、説明し、理解することは物語や歴史の理解とは明らかに違っている。
 論理的な説明と因果的(歴史的)な説明の違いを別の側面から眺めてみよう。二つの説明を峻別するのは二つの異なる「ならば」である。それらは、出来事の間の関係としての因果的な「ならば」と、文と文を接読する論理的な「ならば」である。「ならば」の二つの異なる使い方を誰もが知っているが、二つの違いを改めて問われると困ってしまう。だが、特定の出来事が「ならば」で結ばれて因果的な関係が表現される場合と、条件法(conditional)の真理条件を満たす仕方で結ばれる場合とではまるで違った「ならば」であることは直観的にわかっている。例を通じて「ならば」の異なる意味を明らかにしてみよう。
「Aならば、B(If A, then B.)」が基本の文型であり、「雨が降るならば、地面が濡れる」が因果的な「ならば」を使った例、「A+B=Cならば、C+C=2(A+B)」は論理的な「ならば」の使用例である。論理的な条件法は真理関数(truth function)としてその使い方がはっきりわかっているが、因果的な「ならば」は実に複雑で、文脈に応じて変わる。私たちの生活世界では因果的であることが大変重要で、それゆえ因果的な「ならば」は重大な役割を担っている。だが、物理学の理論で直接因果性を扱うことを避けたのはその複雑さのためではない。数学を使い論証によって説明するには、論理的な「ならば」を使わなければならず、その結果、因果性は表舞台から消えるのである。自然の数学化の肝心な点は数量化ではなく、この因果性の条件法化なのである。論証、証明は条件法の「ならば」によって、因果連関の「ならば」は出来事の原因・結果の系列によって構成されている。因果系列の構成を論証によって説明するとは、したがって、因果的な「ならば」を論理的な「ならば」によって表現し直すことなのである。
*因果的な「ならば」で表現される因果性は科学的ではない常識的な概念(folk concept)であるという考えが物理学では普通である。例えば、Norton, J.D.(2003), “Causation as Folk Science,” Philosopher's Imprint, 3 (4)を参照。だが、因果的な連関があればこそ、それを論理的な文脈に置き換え、明らかにするのであって、因果性は常識的な概念だから無用なもの、というのでは決してない。