物語の魅力、理論の威力

 物語は私たちの心を魅了し、麻痺させるが、理論は私たちに世界を理解させ、支配させる。こんな気障な謂い回しはさておき、物語と理論は共に世界とその中の対象を知る手段。多くの人にはどうでもいいことなのだが、二つがどのような関係になっているのかははっきりしていない。そこには様々なものが絡み合うように関わっている。
 私たちが常にものごとを因果的に考えるのは、それが正しいからではなく、脳が世界を因果論的に解釈するようにできていて、それを着実に学習するからである。そして、これは人間だけでなく、生物そのものの基本的な原理のようなので、生きるとは本来因果的なことなのである。
 私たちは無数の因果系列を適度に選出し、その系列自体をアレンジすることによって物語をつくり出す。系列上の出来事を脚色し、取捨選択し、省き、戻し、プロットを置くなどしながら、巧みに出来事群を料理することによって物語をつくり出している。「A→B」の「→」が因果関係を指すとすると、私たちが自ら「→」を生み出しているという意識は通常ないので、そのまま受け入れ、何の疑問ももたないのがほとんどである。だが、「→」が接続詞あるいは条件法を指すとなると、なぜ「→」なのかが気になってくる。と言うのも、「ならば」を使う文脈は因果から論証に変わり、論証は自然の中で起こることではなく、私たちが自ら考えなければならないからである。
 いずれの「ならば」であれ、世界を理論によって、あるいは物語によって知るという二つの方式を手に入れ、二つを使い分け、時には分け間違うことが欲張りな人間のすることだとわかる。

 さて、「神話や物語から哲学や科学への転換(今風にはパラダイムシフトか)」という表現はどのように理解するのが適切なのか?二つは全く別物で、水と油のような関係なのだろうか。例えば、「神話は個別的だが、科学は普遍的だ」といった対で考えられるのがこれまでの常であったが…理論と神話、ロゴスとミュトスなどと聞くと、よく聞いた憶えのある旧来のタイトルで、二者択一を迫るような雰囲気を醸し出す。だが、論証と出来事や現象の叙述の間の関係と言い直すなら、二つが協働することによって私たちの「知る」ことが成り立ち、二つは裏と表のような関係にあることがわかるだろう。上述のように論証と因果関係の違いは「ならば」の微妙な違いによって表現されてきた。その違いは一般に考えられている以上に微妙で、僅かなのである。
 神話や物語に私たちは本能的に反応する。私たちの好奇心を満たしながら、疑問や異議を巧みに封じ込めてしまう。物語や神話は私たちに快楽を提供し、それを通じて私たちを麻痺させることができる。魅力的な話の展開は私たちの批判的な探求を妨げ、受け身の気楽さを容易に与えてくれる。自らのもつ物語のストックを利用しながら、以下の項目についてそれぞれ考えてみてほしい。
1物語の面白さ:その幾つかの理由
 言葉で書かれたものであれ、絵画や映像であれ、物語は私たちを惹きつける。物語が作り物であることがわかっていながら、面白い筋の展開はそれを忘れさせ、あたかも本物であるかのように錯覚させることができる。眼前の変化を追うのと同じように、物語の展開を追うことに熱中させる。一方、変化や展開の批判的分析には退屈な努力が求められる。物語は立ち止まる必要がほぼないのだが、論証は立ち止まらないと実行できず、それが人々に嫌われるのである。
2物語の特徴:個別性、展開の妙
 では、何故物語が面白いのかと言えば、個別的なストーリー、登場人物、事件や背景、それらが劇的に展開され、自国語で会話するかのように自由に苦もなく物語の因果的内容を理解できるからである。私たちは全てを忘れて物語の展開に引きずり込まれ、登場人物に憧れる。物語に没入できる私たちにはそのために自ら努力する必要がないのである。
3生き様の叙述:解釈された人生
 物語の主題は人生についての貴重な具体例になる場合が多い。人生の指針だけでなく、法律、倫理に関する内容もしばしば主題となる。刺激的な主題がスリリングに表現され、それがそのまま人生の縮図になっている。人生が眼前でわかりやすく展開される映画は苦も無く別の人生の可能性を描いてくれる。
4プラグマティックな知識の典型:わかる物語
 物語とは因果的に解釈された知識であり、わかりやすい説明の最たるものである。それは、したがって、使える、役に立つ知識の典型である。わかるための努力は必要なく、即わかるのである。その意味で物語はプラグマティックな知識であり、すぐに使うことのできる知識である。
5物語と異なる理論:知るための二つの方法、映像は両方を含んだ第3の方法
 私たちが世界について知る、わかる方法には二つある。理論と物語がそれら二つである。理論(哲学、科学)が一般的、普遍的な知識であるのと好対照に、物語は個別的で、特殊的である。理論が説明するのに対し、物語は叙述する。記述的な(因果的)描写によって何がどのように起こるかが苦も無くわかるのが物語の特徴である。

 物語はそれが素晴らしい作品であればある程、私たちの判断を麻痺させ、私たちの心を掴み、麻痺させる。理論は正しくても私たちから理解されない場合があるが、物語には誤っていても私たちにそれを信じ込ませる力がある。真偽が理論の命だとすれば、物語は真でなくても一向に構わないし、偽だとわかっている場合も許容する。物語がわかりやすい、理解しやすいために、それを楽しみながら信じることになる(実際、相対論も量子論も知らなくても、最新のSFを十分に楽しむことができる)。
 歴史や進化は因果的であり、したがって、物語的である。因果連関はそれをつくるのが厄介でも、展開される連関を受け入れることは実に楽にできてしまう。歴史や進化の物語は数学の定理の証明とは違い、誰にもわかりやすく、とにかく楽なのである。
 特定の登場人物、特定の状況設定、特定の事件、特定の結末と、神話や物語は個別的な事柄から成立している。歴史もすべて個別の出来事の集まりである。すべてトークン(token)からなっているのが神話、物語、そして歴史である。そして、それら特定の事柄が因果的に生起し、登場人物が因果的に行動する。
 特定の対象、特定の出来事、個々の対象や出来事の特定の関連、特定の時間・空間の中での対象の特定の変化と出来事の特定の生起、つまりトークンを一貫して理解するための形式が物語であり、それは起承転結のシナリオ、プロットをもち、生活世界の特定の現象的変化を表現している。トークンとしての対象、出来事、因果的な連関をまとめ上げるには物語という形式しかないのではないか。個々の物語はトークンであり、その中のエッセンスだけがタイプ(type)として取り出される。理論が典型的にタイプであるのに対し、物語はトークンである。「一般的物語」などどこにもないし、「個別的理論」もない。そして、そのトークン性は私たちの知覚経験と同じ次元にある。私たちの日常の経験はトークンそのもの、一回限りのものであり、それゆえ、生き生きとした「クオリア(qualia)」を日々新たに体験できるのである。(ところで、クオリアはタイプなのかトークンなのか?)
 物語の刷り込み学習がなされると考えてみよう。生きるための学習として因果性が刷り込まれると考えるのである。それがうまく行くなら、遂には、嘘をつく、騙すといった物語の高度な応用ができるようになり、物語のための物語がつくられることになる。実際、社会生活すべてが物語のジグソーパズルになっていて、不可逆的な命から宗教へと物語は方々に飛躍するのである。
 因果論では、すべてのものごとに原因と結果があると考える。太陽が東から昇って西に沈むのは地球が自転しているからだし、彼女が怒って口をきいてくれないのはデートの約束をすっぽかしたからだ。当然、株価の上昇や下落にも、それに対応した単純明快な原因があるはずだ、ということになる。では、因果論はなぜ人気があるのだろうか。近年の脳科学や生物学は、この謎を科学的に解明することを可能にした。といっても、これはぜんぜん難しい話ではない。

 プラナリアは扁形動物で、神経や消化管はあるが骨や血管はなく、脳を持つもっとも原子的な生物。このプラナリアを透明なプラスチックチューブに入れ、電気スタンドのライトを点けた2秒後にチューブの両端に電気を通す。この実験を50回ほど繰り返すと、やがてプラナリアは明かりがつくだけで、電気ショックを予想して身体を丸めるようになる。すなわち、プラナリアは学習したのである。
 このとき、プラナリアは何を学習したのか。いうまでもなく、「明るくなる」→「電気ショックがくる」という因果関係である。これは条件付けと呼ばれ、「パブロフの犬」が有名だが、イヌばかりでなく、無脊椎のプラナリアまでもが因果関係を学習する。そして、これは長い進化の過程で、因果論的な行動原理が子孫を残すのに有利だったからだと理解されている。
 因果関係を学習し、次第にその中に不変性を見出していくというのが発達心理学的に明らかになってきた。刺激-反応のペアを何度も与えられると、それを原因-結果のペアと学習し、遂には情報の取得から言語的な遣り取りまで、因果関係が行動の基本単位に組み込まれることになる。これらの過程は、子供、孫、ペットを観察すれば、割と簡単にわかることである。
 さらに学習が進むと、因果離れ、現実離れ、外から見る、距離を置くといったことが、論理的な分析として定着していく。歴史や宇宙進化は因果的なものの代表例であり、すべての因果関係はそれらの断片でしかない。一方、感性とは違うものとして理性が想定され、時間を越えた対称性が前面に出てきて、反物語的、反因果的に見える世界像ができ上ってくる。

 このような一般的な話では埒が明かないというより、面白くない。そこで、因果的な話と論理的な話を組み合わせながら、その組み合わせの妙を探り、これまでの単純過ぎるだけでなく、誤っている二分法的な風景を変えて、正常な風景に直す環境回復を目指したいと思っている。