「諸行無常」、「色即是空」はなぜ真なのか

 このタイトルでだらだらと書き続けてしまったのですが、自分の不満だけ表面に出て、空回りでしかなかった感があります。自らの疑問に固執し、「空」思想の実践とは遠くかけ離れた結果になったことには我が身の至らなさを感じ入るばかりです。釈迦自身が実践重視で、理論などまるで気にしなかったことが忘れられ、大乗仏教は言葉巧みに物語を通じて仏教を言語化、大衆化しました。信頼できる知識をもとに大衆の説得に当たるには、その知識をわかりやすく説明しなければなりません。その知識に関心をもったのがこのシリーズの私の動機でした。仏教史の中で最もアカデミックだった時期にどのような説明システムがつくられたのか、私の関心はそこにあったのです。残念ながら、そのような説明システムを見出すことができませんでした。
 最後の未練を『般若心経』にかこつけて書いておきましょう。『般若心経』は「般若経群」の要約として仏事ではよくあげられるお経の一つです。今では幾つもの訳があり、文庫本や新書版で簡単に読むことができます。大乗仏教の理論的集約なのですが、余りに要約され過ぎていて、結論だけが物語風に語られるだけで、体系的な説明にはなっていません。でも、その短く巧みな要約が文学作品と見まごうばかりに、人々を大いに惹きつけ、深い智慧だと賞賛されてきたのです。物語は今も昔も人の心を虜にする常套手段ですが、そのエッセンスは次のような内容です。

 聖なる観音が正しい智慧の完成を目指していたときに気づいたことを語りました。舎利子、お聞きなさい。宇宙の構成要素には実体がなく、形のあるものは形がなく、形のないものは形があるのです。感覚、表象、意志、知識さえもすべて実体がないのです。観音はこれらの要素が「空」であって、生じることも滅することもなく、汚れることもきれいになることもないと知ったのです。私たちがいる宇宙では形がなく、実体がないのです。宇宙は粒子に満ち、粒子は自由に動き回って形を変えています。お聞きなさい。形のあるもの、つまり物質的存在を私たちは現象と捉えていますが、現象は時々刻々変化し、変化しない実体はないのです。実体がないからこそ、形をつくれるのです。実体がなくて変化するから物質であることができるのです。あなたも粒子でできていて、宇宙のなかの他の粒子とつながっています。ですから、宇宙も「空」です。あなたという実体はなく、あなたと宇宙は一つなのです。宇宙は一つですから、生滅、美醜、増減はありません。ですから、「空」という状態には形、感覚、意志、知識は何もないのです。眼、耳、鼻、舌、身体、心、形、声、香りはことごとくなく、心の対象もありません。実体がないのですから、「空」には物質的存在も、感覚も、概念を構成する働きも、意志も、知識もありません。正しい智慧がないということもなく、それが尽きるということもありません。迷いもなく、迷いがなくなるということもありません。こうして、老いも死もなく、老いと死がなくなるということもないということになります。老いと死は「空」であり、それを恐れる必要などないのです。心を覆うものがないので、恐れがなく、道理を誤ることもなく、永遠の平和に入っていけるのです。私たちは、あらゆるものは「空」だという智慧を身につけたものになれるのです。無常のなかで生き、永遠のいのちに目覚めていくのです。永遠のいのちに目覚めた人は苦のなかにいて、苦のままで、幸せに生きることができるのです。深い理性の智慧は永遠に存在します。それゆえ、仏の智慧は大いなるまことの言葉で、すべての智慧です。

 この『般若心経』の典型的な一解釈は次のようなものです。仏教では区別を嫌い、主観客観、自他の区別をしません。その区別が二元論的な見方を生み出し、そこから「執着」が生まれ、「欲」の原因となり、「苦しみ」が結果すると考えます。そこで、世界を一元論的に見て、世界の風景を変えるのです。私たちをつくる原子が自由に動き回わっている物質世界(「色」)で原子レベルの意識になって世界を眺めてみると、そこには別の風景が広がっています。風景は原子の密度の濃いところと薄いところからなっています。人や物は密度が高く、その間の空間は密度が低いように、原子が飛び交っているだけの空間の中で原子の密度の濃淡しかないという世界なのです。その世界では個人や個性の違いなどありません。でも、この世のすべてが存在するのです。それは原子の濃淡でしかなく、物欲に捉われる必要などない世界なのです。
 すべてが空で、執着すること自体に意味がないと説かれると、人は不思議なもので、執着することが懐かしくてたまらなくなるのです。努力や精進は何かに執着しないとできるものではありません。固執することによって目的が達成されることを私たちは何度も経験し、そしてそれを賞賛してきました。特に、若い時分には諦めることと悟ることは区別がつかないものでした。
 ところで、タイトルの言明を使って、何を説明、予測するのでしょうか。これら言明は自然現象の説明ではなく、心理状態の治療に効果があるというのが実際のところです。言明をよくよく見るなら、『歎異抄』の悪人正機説に似て、限りなくトートロジーに近いのです。「色不異空」、「空不異色」、そして「色即是空」、「空即是色」の謂い回しを合わせるなら、つまるところ「色=空」、「もの=空」なのです。あるいは、それらが空の定義と言ってもいいのかも知れません。このレトリックは余りに見事というより、人を誑かしているようにも見えるのです。ですから、賢い釈迦は実践によってしか示さなかったのではないでしょうか。これらの表現はトートロジーと言うより分析的と言う方が正しく、それゆえ、このような文脈では「色即是空」はアプリオリで必然的に見えるのです。確かに、どんな数学システムも公理から定理を導出するのはトートロジーを利用したものですが、流石に定義はトートロジーでも分析的でもありません。鋭く見事な洞察は言葉にすると分析的にしかならないと釈迦が知っていたとすれば、龍樹も説一切有部もそれを見抜けなかったことになります。
 『般若心経』にまとめられているように、認識論的な話になることが釈迦以来の仏教の特徴で、直接に物理的なものに接し、それを指示することを敢えてしない巧みな手立てが張り巡らされていることに気づきます。事実についての話を意識の中の話に転換するやり方は小説の成立に大いに寄与するものでした。実際、これは読者には大いに受ける魅力的な方法なのですが、この手の方法を多用することに長けた哲学者は、それが実は科学の領域では何も生まないことを身に染みて知っています。
 物語やシナリオは人間には大きな効力を発揮するのですが、動植物には何の意味ももっていない無力なものです。音楽を楽しむ動物がいても、物語を味わう植物はいません。物語の内容や意図を理解するのは人間だけです。世界を知るには知る人間を知ることだと考え、人間を変えることによって世界を変えようとするのが仏教の伝統的手法でした。これは間接的に見えても、確かに世界を変える方法です。心身二元論などにこだわらずに、人心を操ることによって世界を変えるのです。
 科学的な知識と仏教の悟りの間には質の違いを強く感じます。特に、『般若心経』のような経典は文学的な物語として、直観的に行為のレベルで説明されますから、わかりやすく、共感できる部分が多いという利点をもっています。論証、証明、検証、確認など堅苦しいことは省かれます。そして、時には諦めを認めるような対応、処置は智慧と言っていいのでしょうが、経験則(rule of thumb)のようなものとして諭されるかのように主張されるのです。経典の注釈は世界や人生の注釈だと疑われることなく扱われてきたのです。経典の叙述は比喩、物語として述べられていて、そこでは整合的な主張かどうかしか調べることができません。世界の事実や現象からは独立した主張で、巧みに心理現象へのシフトが図られているのです。
 では、一体何が主張されているのでしょうか。そのために多くの解釈があるのですが、一つに定めることはできません。正直に言えば、不正確のままということです。これはいわば集団的な自己満足に終わったままだと言うことかも知れません。どんな殺人にも動機があります。この言明が個々の殺人事件にどのように役立つかと聞かれて、現場では役立たずだと多くの人が思うでしょう。まるで哲学者の主張のように、何の発見にも役立ちません。特定の事件の解決には役立たないと言いたくなりますが、役立つ領域があります。心理レベルにシフトするなら、動機のない人を容疑者から排除するという仕方で役立つことができるのです。
 『般若心経』は浄土真宗では無視されます。般若は「仏の智慧」という意味で、仏の究極の智慧を説いたのが『般若心経』ですから、その内容は高邁、深遠です。上述のように、この世の全てのもの、私自身も、欲を離れ仏の智慧になり切れば、何一つ固執がなくなると説きます。欲もなくなり、自我を主張することもなくなれば、この世は極楽浄土になる筈なのですが、欲や我執の煩悩から離れられないのが凡夫たる現実の私たちの姿です。親鸞は、現実の私たちの姿を認め、欲や迷いといった俗の中で生き、誰かの助けを受け、お互いに迷惑をかけつつも、私たちにかけられた阿弥陀仏の願いに気づき、阿弥陀仏のはたらきによって救われると説いたのです。稀代の秀才親鸞には「空」思想が実際に救済の手段になどならない空理空論だとわかっていたのです。彼は仏の智慧がどうかこうかなど無関係で、この世の苦しみからの救済者としての阿弥陀仏への信仰だけという、正に宗教のエッセンスだけを見据えていたのです。