仏教の時間論:常識の洗練

 ブロック宇宙モデルは時空のすべての点に対して同等の存在論的な身分を与えるモデルで、ダイナミックに変化する時間像は物理的な実在とは独立に人間の感覚と意識がつくり出したイメージに過ぎないと考えます。時間の流れや持続は人間の心が視点をもつことから生まれる、いわば第2性質に過ぎなく、実在するのは時空連続体だけです。では、ブロック宇宙に時制はないのでしょうか。ノートに平面座標を書き、そこに鉛筆で位置の変化を時間軸に従って記すとき、私たちの経験する時間の一部を使っているのではないでしょうか。確かに、任意の時点を「現在」にし、時間単位の長さを自由に選ぶという二点で実際に経験される時間とは違いますが、鉛筆の運動の表現に「動く時間」が暗黙の内に使われているのではないでしょうか。でも、その使われ方は認識とその表現レベルのもので、鉛筆の動きそのものや動き方がどうであれ、記された筆跡に違いはありません。描き方は様々でも、描かれた結果は同じです。そして、ブロック宇宙は描かれた結果だけからなっています。それゆえ、「動く時間」はブロック宇宙には存在せず、したがって、時制もありません。
 このブロック宇宙の考えと対照的なのが(アウグスティヌスに代表される)時間の現在主義(presentism)です。「実在するのは現在だけである」という現在主義の主張は上述のブロック宇宙の見解とは明らかに対立したものです。そこで、二つの見解を検討してみましょう。二つの見解は極めて異なる立脚点に基づいています。現在主義は主観的な経験である「今」を拠り所にするのに対し、ブロック宇宙論は直接経験できない(4次元以上の)数学的モデルを基礎に置いています。
 現在主義者は現在の経験だけが存在し、それが他に還元することのできない変化の基本性質だと考えます。でも、ブロック宇宙論はこの主観的直観を説明できないと批判します。現在主義によれば、時制が何を意味しているかを説明する唯一の方法は「今」が唯一存在している時間であることを主張することによってなされます。過去のものは「今」から過ぎ去り、未来のものは「今」が変化していくに過ぎない、過去や未来のすべての瞬間を含む客観的な時間についての話は誤りでしかありません。時制をもつ事実はそれ自体が時制的でなければならず、時制のない解釈は誤っているというのが現在主義の本質的な主張です。つまり、現在主義は時制主義を含意しているのです。「第二次大戦は既に起こった」を「第二次大戦はこの言明より以前である」という時制のない表現に翻訳することはできません。日本語や英語のような自然言語は時制なしに存在するものを描くことができなく、そのため現在時制は文字通り言語的な形式です。私たちの言語が時制なしに話すことを許さないなら、これは自然でしょう。でも、忘れてならないのは、時制をもつ文が時制なしの文に翻訳された後でも、時制のある文がもっていた外部世界についての情報は何も削られないことです。
 代表的な現在主義者であるプライアー(A.N. Prior)はブロック宇宙を過去と未来が今存在している宇宙であると考えました。そして、そこからブロック宇宙は決定論的だと主張したのです。でも、今ある過去と未来という主張は現在主義のドグマの中でブロック宇宙を理解することであり、公平な理解でないことは明らかです。時空理論は過去と未来の現在の存在について時制を含んだ言明を主張しているのではありません。スマート(J.J.C. Smart) は「未来の出来事がある」と言うとき、「それが今ある」ことを意味していないと述べています。
 ブロック宇宙では時制は主観的領域へ追いやられます。ブロック宇宙モデルはあくまでモデルに過ぎませんが、モデルとして公共的に表現可能でなければなりません。ブロックモデルは観察者がそのような形状を実際に観察するわけではないことから、時空が実際にブロックであることを含意していません。私たちはブロック宇宙を映画の各スライドのように想像しますが、そこから決定論や異なる時刻の時間的な共在が導き出されるわけではありません。ブロック宇宙が主張するのは時間の輪切りが空間のそれのように互いに関係し、その関係を表現することが可能であるというだけです。ブロック宇宙としての世界という見解は決定論も運命論も含意していません。ですから、それは決定論とも非決定論とも両立するのです。
 このような説明を少々カジュアルな観点から見直してみましょう。時間は人間の感覚から独立して実在するのか、それとも実在しないのでしょうか。「時間は流れていない、むしろ止まっている」と考えるのがブロック主義者です。相対性理論によれば、「現在、過去、未来は同じ時空間に広がっているもの」で、流れるという表現は誤りです。私たちは現在にのみ存在しているのではなく、全ての時間に同時に存在しているのです。常識的な(3次元の)時空間理論は相対性理論と矛盾しています。
 私たちが常識的にもつ常識的時間は、現在主義、三次元主義と呼ばれ、現在のみが実在し、過去も未来も存在しないと考えます。ブロック宇宙論では、現在、過去、未来が同じ時空に同時に存在します。これら二つの中間が成長ブロック宇宙論で、過去から現在までが存在しており、未来は人間の予想に基く仮想なものと主張します。では、仏教の時間概念はこのような分類のどこに属するのでしょうか。
 仏教の最も形而上学的な研究を担った一つが説一切有部です。有部は、三世(未来、現在、過去)にわたって世界を構成するものの自性(本性)が恒常なものであることから、それらが実在すると主張します。有部は、仏教における諸行無常という説をこの未来、現在、過去の時間の区別によって説明しようとします。有部の世友の説によれば、時間は実在しないのですが、時間としてまだ実現していない可能態としての未来を現実化する瞬間的な現在の位置と、実現し終わったあとの潜勢態としての過去の位置があり、ものは未来の位置から現在の位置を経て過去の位置に至るという過程を経て時の変化を説明します。この位置の変化を世友は作用の有無によっても説明します。つまり、作用がまだないのが未来のもの、作用があるのが現在のもの、作用が滅したのが過去のものである、と述べています。でも、この理論は、経量部の世親によって無常な作用と、ものの常住な自性との関係が矛盾していると指摘されて破綻に追い込まれます(と説明されてきました)。
 有部は三世にものが実在すると考えますが、経量部はこれを認めません。経量部が認めない過去、未来のものの実在性を有部は論証によって説明しようとします。その論証をまとめれば、「認識の対象は実在するから」という理由と、「認識が生起するとき、依り所としての感覚機能と認識対象が実在しなければならないから」という理由と、「業には結果があるから」という三つの理由による論証に帰着します。でも、それらは存在しないものが認識の対象になり得ることや、認識の生起の原因として未来の対象は妥当しないことや、過去の業が常住ならある特定の時に結果を生じさせることが説明できないことなどから、経量部の世親によって論破されます。世親は経量部の立場から「現在が実在で、過去未来は非実在」を主張し、一瞬一瞬生じては滅する現在のもののみが実在し、過去、未来のものは現在のものの内に蓄えられた「あった」、「あるであろう」という潜在的な種子に過ぎないと説明します。なぜなら、 過去の世界、未来の世界におけるものの実在性を認めないとき、残る現在のものの範囲内で過去と未来の対象の認識を説明せざるを得ないので、現在のものとしての現在の瞬間の心における潜在的非実在の種子が想起・期待の所縁として想定されるのです。このようにして過去・未来・現在の区別が成り立ちます。有部は過去世の業の実有性に基づいて、過去の業には結果があるという説明をしますが、経量部は、過去に行われた業は、有部の認めるような過去の世界には今はなく、現在のものの連続からなる相続の中に種子としてあり、その相続の特定の変化に基づき、将来に結果を生み出すのだと説明するのです。
 このような有部と経量部あるいは世親との論争を訳文を参考に調べると、何がわかるのでしょうか。そこには三つの常識が想定されている。

(1)釈迦が何を言ったか、伝統的な知識や物語の常識
(2)論理と言語の常識
(3)日常経験の常識

これら三つを使った議論がどのようになるかは、私たちの日々の生活での問題への対処と似たり寄ったりで、「常識は常識しか生まない」という自明の結果になります。『般若心経』の思想は日常世界の事象の変化から一般化されたものであり、それは有部と世親の論争を通じて明らかになり、それが日本仏教に引き継がれたのです。
 
 ブロック宇宙論での時間が説一切有部の時間観に近く、時制主義が世親や唯識の時間観に近く、意識の時間が時制主義的であり、唯識思想が心中心のものだということと呼応しているとしても、そこに特段の意義がある訳ではありません。とはいえ、説一切有部の考えをブロックモデルによって理解し、世親の主張を時制主義的に把握するなら、説一切有部の時間についての考えが世親のそれより今の私たちには受け入れやすいように思われる。にもかかわらず、歴史の皮肉とも言えるのですが、「諸行無常」の仏教的世界観が私たちの先祖を支配してきたのです。その時制主義の名残が『般若心経』への偏愛的な人気なのかも知れません。