龍樹と世親(2)(龍樹と世親(1)の改訂版)

 横山大観は「生々流転」(絹本 墨画 55.3×4070.0)を大正12年描いている。40メートルを超える長さをもつ世界でも類を見ない巻物。絹に描かれた水墨画で、万物が移り変わって常に変化し続ける世界を、深山幽谷で煙立つ朝もやがやがて瀬となり淵となり、川となってとうとうと流れていく物語として描いている。
 この絵が描いているものがどのような意味で「生々流転」なのだろうか。それを考えながら、例えば水面を打つ水玉の一瞬のストップモーション画像と見比べて見よう。そして、時間的な変化を人はどのように知り、理解するかといった問題に思いを馳せてみよう。そんな下準備をした上で、以下の叙述を読んでみてほしい。

 説一切有部アビダルマ、刹那滅と三世実有・法体恒有と言えば、仏教学者にはお馴染みの事柄。とはいえ、それを知っている人はごく僅かで、それゆえ仏教教義の専門的な課題と分類されて終わる。いくら歴史学や文献学の問題とはいえ、その議論内容が現在の常識とは余りにかけ離れていて、真偽の基準さえ異なり、正常な判断を許さないような状況で議論が進行しているように見えるのである。その私の懸念を少々開陳してみよう。
 仏教は、あらゆるものを刹那滅(瞬間的な消滅)という考え方でとらえる。あらゆるものは、無数の基本的要素(ダルマ)が縁起によって因果関係を結び、現象や存在をつくり出す。だが、その現象や存在は一瞬間だけである。瞬間的に生起して消滅する。そして次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、また生起し消滅する、そしてそれが連続すると考えるのである。われわれには持続して存在していると見えるものは、このような瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったものなのである。
*(懸念1)
 刹那とは瞬間のことで、ダルマとは要素のことだが、それらの定義がどこにも見つからない。刹那や瞬間が自明のものとは誰も思わないから、普通は数学的な点のようなもので表現できるのではないかと推測する。幅のない時間とか、極めて短い時間間隔と言ったりもするのだが、それさえ見つからない。刹那や瞬間は所与のものでも構わないのだが、それが刹那滅という基本用語になっているからには、一定の共通理解がなければならないだろう。それがない限り、過去、現在、未来という分類も不定のままになってしまう。これはダルマについても同様で、こちらはいくつかの要素が列挙されているのだが、周期律表のような納得できる説明装置にはなっていない。

 基本的要素の構成が変化すれば、現象するものも瞬間毎に変化する。ここにすべてのものが永久に変わらないものはないという無常、無我が説明されるカラクリがある。部派仏教の説一切有部は、刹那滅の立場に立ちながら、瞬間、瞬間の生起、消滅を過去、現在、未来の位相でとらえた。すなわち生起とは、存在を構成する要素(ダルマ)が未来から現在に現れ出ることであり、消滅は現在から過去へ去ることである。瞬間ごとに生起、消滅するからそこには恒常的な自我は存在しない。しかし、存在を構成する要素はこれ以上分割できない極微の単位だから、それ自体は恒常的な実体である。つまり、過去、現在、未来と三世にわたっての実体であると主張する。
(*懸念2)
 過去、現在、未来の位相あるいは様相は言語の時制から派生したものなのか、単なる経験的な区分なのか、その説明がどこにもない。要は、説一切有部もその反対陣営もしっかりした時間論をもち、それが展開されているようには思えないのである。時間に関する知識が一定していないところで、存在とその変化についての議論をしても無駄でしかない。

 有部のこの考えを大乗仏教は批判し、対立軸として「空」の思想を生み出した。 部派仏教の中にも、有部に対立する考えが生まれた。有部から分かれた経量部である。有部が過去や未来をも視野に入れるのに対して、経量部は現在だけを問題にする。すなわち過去に見たものは記憶の問題、未来に見るものは推理の問題として認識から外し、刹那滅を厳密に現在だけに限定する。
 すべてのものは、各瞬間に生起し消滅する。すなわち各瞬間に別のものとして生まれ変わっていく流れとしてとらえ、そこには不変の同一性を保って続いていく実体のようなものはないと考える。世親は、大乗仏教に移る前は経量部の立場にあった。経量部の立場から有部の思想を批判したのが『俱舎論』である。その後、大乗仏教に移って唯識思想を大成するが、刹那滅の考え方については経量部のものをそのまま唯識思想に持ち込んでいる。存在は現在の一瞬だけ、ものごとの認識は思惟ではなく、一瞬の知覚つまり直感のみとするのである。
 有部によれば、この世界はダルマと呼ばれる存在の究極的なもの(要素)によって構成されている。すべての現象世界はこのダルマが無数の因果関係を結んで生起して現実の現象となる。現象として生起した存在は生起した瞬間に消滅し、次の瞬間には新たな因果関係が結び直されて新たな存在が生起する。その瞬間、瞬間が積み重なってわれわれの経験的な現象世界が成り立っている(刹那滅、つまり瞬間的な消滅)。したがって、因果関係を結ぶダルマの構成が変わらず瞬間、瞬間に引き継がれて生起すれば存在に変化は起こらないが、ダルマの構成が変化すると存在も変化する。因果関係が消滅すると存在そのものも消滅することになる。このようにあらゆるものはダルマという要素の組み合わせ、つまり和合してできた存在である。だから常に変化する運命にあるので不変の実在ではない「仮有」の存在とされるのである(これが諸行無常諸法無我の根拠)。
(*懸念3)
 因果関係とは常識的に原因と結果の間の関係であるが、原因と結果の定義や因果関係そのものの定義はどうなっているのだろうか。論証が中心となる議論において、論理的な「ならば」と因果的な「ならば」はきちんと区別されているのだろうか。因果関係の規則性については議論されているのだろうか。「変化して止まない」ならば、そこに規則性があるのか否か知りたいものである。

 一方構成単位であるダルマは、これ以上分割できない極微の単位であるから、原子や素粒子のようなものであり、不変の実在、つまりそれ自体で存在する「実有(実体)」とされる。
 複数のダルマがある瞬間に縁起の法が働いて、集合し現在に現れて一つの現象が生起するが、その現象は刹那滅であるから、瞬時に消滅してダルマは離散する。それが瞬間、瞬間で繰り返され積み重なって現象世界が成立する。その場合、集合・離散するダルマはどこから現れてどこへ消えるのだろうか。有部はそれを、未来の領域から現れて過去の領域へ去ると説明する。つまり、ダルマは過去、現在、未来の三世にわたって実有の状態で存在する(三世実有。法であるダルマが三世にわたって実在するから、法体恒有ともいう)。ダルマがこの世を構成する要素としての機能を果たしている瞬間が現在、機能する前の位相が過去、後が未来ということになる。
 以上のように有部は、存在の要素を精緻に分析することによって無常、無我を究明した。だが、そのことによって存在の構成単位である極微のもの(ダルマ、法)というものの存在に行き着いたためにそれを実体とせざるを得なくなった。
 だが、経量部の世親によって無常な作用と、法の常住な自性との関係構造の矛盾を指摘されて破綻に追い込まれる。また、三世に法が実体とされるのであるが、有部によっては認められるが、経量部によっては 認められない過去、未来のものの実体性が有部によって説明される。その論証は簡単にまとめれば、「認識の対象は実在するから」という理由と、「認識(識)が生起するとき必ず依り所としての感覚機能(根)と認識対象(境)が実在しなければならないから」という理由と「業には結果があるから」という三つの理由に帰着する。それらも、非存在なものが認識対象になり得ることの証明や、認識の生起の原因として未来の対象は妥当しないことの証明や、過去の業が常住ならある特定の時に結果を生じさせることが説明できないことの証明などから、経量部の世親によって論破される。 世親は経量部の立場から現在有体過未無体論を主張し、一瞬一瞬生じては滅するもろもろの現在の法のみが実在し、過去・未来の法は現在法内に熏習され蓄えられた「あった」・「あるであろ う」という潜在的な種子であると説明する。なぜなら、 過去、未来におけるものの実在性を認めないとき、残る現在法の範囲内で過去や未来の対象の認識を説明せざるを得ないので、現在法としての現在一瞬の心におけるにおける潜在的な仮有なる種子が想起・期待の所縁として想定されるのである。このようにして過去・未来・現在の区別が成り立つ。有部は過去世の業の実有性に基づいて、過去の業には結果があるという説明をするが、経量部は、過去に行われた業は、有部の認めるような過去世には今はなく、現在諸法の連続からなる相続の中に熏習された種子としてあり、その相続の特定の変化に基づき、将来に結果を生み出すのであると説明する。これに対して、有部は、過去世・現在世・未来世を空間的な時間として想定し、過去の業が結果を生み出すとき、現在に生み出される法と過去世の業とは有部の空間的時間 においては、ある意味で、同時に存在しうるのである。経量部の相続とは一定の時間の幅を持つ五蘊あるいは心的な要素の連続態である。経量部では、厳密には一瞬の現在法の存在しか認めな いが、比喩的に相続というものが考えられて、業因業果の法則が説明されるのである。世親も現在における作用を認めるが、作用=現在法を構成するものであり、作用には潜在的なものと顕在的なものを認めていたようである。また、現在法内の過去の種子は凡夫によっても記憶として認識できるが、未来の種子はどれが後で実現するかは仏陀のみの認識領域であるとされる。このことは仏陀論における重要な問題を提起しているように思われる。 また、現在有体過未無体論の帰結として、現在を厳密に考えれば現在の幅がなくなり、時間というものがなくなり、法は時間を超越せざるを得ないという考えにいたると私は考えている。それが、唯識思想への発展の可能性につながるのではなかろうかとも思われる。
(*懸念4)
 キリスト教の自然神学の議論でも大いなる常識がふんだんに用いられ、法則を使った説明より論理的な説明が多くを占める。これは仏教でも同じで、非常識な前提や仮説が不思議とないのである。常識からは常識しか生まれず、その常識は実は信頼できないことを私たちは知っている。
(*懸念5)
 注釈家の精神は注釈する著作の内容を正しく理解することに注がれるが、科学者の精神は著作の内容が正しいことをデータを用いて判断することにある。注釈家は著作がなされた当時の常識を知り、現在の知識を組み合わせて内容を正しく理解しようとする。著作の言語と注釈家の言語の間の翻訳と常識や知識が実際にそこに関わっている。科学者は著作の内容が事実かどうか知るために、その内容が論理的に一貫しているかどうか、経験的に正しいかどうか、事実を説明し、予測できるかどうかを調べる。注釈家と科学者は似ても似つかないことを行っている。では、ここまでの叙述は注釈家のまとめなのか、科学者のまとめなのか。それは自明で、前者でしかない。そこで、次に科学者的な見方で同じような問題を考えてみよう。

アウグスティヌスの時間
時間の哲学的な分析では必ずアウグスティヌスの考えが取り上げられます。彼の時間についての発想・理解が現代の私たちにも通じているからです。アウグスティヌスが時間について現代的な考えをもっていたことは、次の二つの問いを比較すれば一目瞭然です。

神は世界をつくる以前に何をしていたか。
ビッグ・バン以前に何が起こったか。

最初の問いに対するアウグスティヌスの解答は、二番目の問いに対する現代の物理学者の解答に極めてよく似ています。時間は神が世界をつくる際、あるいはビッグ・バンで世界が生まれる際に始まったので、それ「以前」というのはそもそも存在さえしません。だから、上の二つの問は意味をもっていません。これが両者に共通する答えです。問いとそれらが出された状況は異なっていても、両者の解答はよく似ています。
アウグスティヌスが直面した問題は神による世界の創造を説明することでした。神とその創造については次のような三つの主張があります。

(1) 神は永遠である。
(2) 神は恣意的でない。
(3) 神はある時点で世界を造った。

これら主張の二つから残りの主張の否定が導き出されます。(1)と(2)からは創造された世界が永遠で、したがって、(3)は誤りになります。(2)と(3)からは神が永遠ではないことが導き出され、したがって、(1)に反することになります。これでは神の創造を説明できないことになります。アウグスティヌスは時間についての独特の考察によってこれを整合的に説明しようとします。彼は神がある時点で世界を造ったことを否定します。神は時間の中に存在しているのではないから、ある時点で何かを行なうということはないと彼は考えるのです。そうではなく、世界を造る際に時間も一緒に造ったのです。時間は時間の中に存在する人間にだけ属します。神はすべてのものをそれらが現存しているかのように観ています。すべてのものは神の眼には過去や未来をもっていません。でも、私たちの時間的な見方では、すべての出来事は時間の経過の中で起こるものとして映っています。
 アウグスティヌスは時間の三つの区分、つまり、三つの時制(tense)を「存在」という概念を使って定義します。

(1) 過去は既に存在していないものである。
(2) 現在は今存在しているものである。
(3) 未来はまだ存在していないものである。
(これらの定義の「既に」、「今」、「まだ」は時間を仮定していないのか、仮定しているなら、それはどのような身分のものか、よくわかりません。)

アウグスティヌスはこれらの定義を心理的なものと考えます。過去は記憶の働きにより、現在は注意の働きにより、未来は期待の働きにより、私たちは経験します。時間はそもそも存在せず、神はこれらの働きをもつ人間を造ることによって、時間を造ったのです。
「時間とは何か」という問いは「Xは何であるか」というソクラテス的な問いの一つですが、この問いに対してアウグスティヌスは「それは何かと問われなければ何かはわかっているが、問われて説明しようとするとわからなくなる」と答えます。とはいえ、時間には過去、現在、未来があることを私たちは知っています。この時間の区別(=時制)を考え出すと、時間のもつ特異な性質が浮かび上がってきます。『告白』Book XI にはアウグスティヌスの時間論が展開されています。過去や未来は存在しません。というのも、過去は過ぎ去ってしまったもので、未来はまだ来ていないものだからです。過去も未来も存在しないなら、現在は過ぎ去ることなくいつも現在であり、それは永遠であることを意味しています。それゆえ、現在だけでは時間を十分に特徴づけることができません。そこで、アウグスティヌスは時間がどのくらい続くかを考えます。出来事や時間間隔が短い、長いというとき、一体何が述べられているのでしょうか。過去や未来が長い、短いはそれが存在できる現在のとき、長い、短いと考えられます。でも、明らかに現在は延長をもっておらず、瞬間でしかありません。過去も未来も存在せず、現在は瞬間であるとすれば、「何かが起こっている」とか「何かが起こるだろう」ということについて私たちが話しているとき、一体何が話されているのでしょうか。これにどう答えてよいかわからなくなります。でも、アウグスティヌスは過去や未来の話をすべて現在の話に還元しようとします。つまり、過去や未来についての主張が真や偽であるのは、過去の記憶や未来の期待についての現在の主張が真か偽であることと同じだと考えるのです。
ここでアウグスティヌスの主張を整理してみよう。彼によれば、世界には現在の時間、あるいは現在の出来事しか存在しません。未来はまだ存在していないし、過去はもう存在していません。でも、このような考えは多くの問題を生み出します。未来や過去について語るとき、何が語られているのか。過去と未来が存在せず、現在が瞬間に過ぎないなら、時間はどのように延長できるのか。延長していないなら測定できないことになります。時間の経過を説明するのに過去や未来は必要ないのでしょうか。現在しかなければ、時間はなく永遠しかないことにならないか。
ところで、過去も未来も存在しないというアウグスティヌスの見解の拠り所は何でしょうか。それは明らかに次の主張にあります。

まだ存在しないものは存在しない。
もう存在しないものは存在しない。

(*懸念6)
 アウグスティヌスの主張は妙に私たちの琴線に触れるところがあって、昔から人気があるのですが、存在するのは現在だけとなると、存在しない過去や未来の事柄を現在の事柄と区別しないで、公平に扱うにはどのようにしたらよいのでしょうか。現在の私たちは記録を使って眼前から消えたものも、まだ現れないものも、存在するものとそん色ない仕方で扱っています。アウグスティヌスは昨日の天気と今日のそれをどんな風に比較したのだろうか。記憶も予測も事実も同じように扱うことが必要な場合に、彼はどんなトリックを使うつもりだったのでしょうか。

パルメニデスの試み
 ギリシャ哲学の最初の関心は自然に向けられ、自然の謎を既知の自然のものを使って考え、説明するという、いわゆる「自然主義」の原型が生み出されました。ターレスが偽物の原因として退けたのは自然の中には存在しないものでした。変化を変化しない普遍のもので説明すること自体は疑われない中で、変化自体を全面的に否定する哲学者が登場したのです。それがパルメニデスです。存在するものはすべて不変で、生成も消滅もなく、運動変化も幻覚でしかない。彼の意表を突く主張を心底信じるには生命の進化や社会の歴史だけでなく、自分の誕生や死を含む生活世界そのものを否定しなければなりません。このパルメニデスの無謀とも思える主張は仮説でも経験的事実でもなく、より基本的な前提からの帰結です。
 物語ではなく論証からなるパルメニデスの哲学は、次のような思考と存在の関係に関する基本前提からなっています。

対象を考えることができるなら、それは存在でき、その逆も成立する。
対象が存在しないならば、それは存在できず、その逆も成立する。

これら二つの前提から次の命題が得られます。

実際に存在しない対象について考えたり、語ったりすることはできない。

この命題から「存在する」⇔「存在できる」⇔「存在を知る」という同値関係が導き出され、いわゆる様相(modality)の無視が明らかになります。そして、次の命題が出てきます。

生成消滅はなく、運動変化はなく、質的差異はなく、そして多数性もない。

どのようにこれらの命題が導出されるかは省き、哲学史家からは怒られますが、思い切って現代的な観点から彼の前提を見直してみましょう。存在、存在可能性、思考可能性の間の区別を否定する点で、大変よく似ているのがブロック宇宙モデルです。パルメニデスの世界が数学的で、数学的世界には変化がないことを考えれば、数学的モデルであることがパルメニデスの前提をそのまま満たすことになります。その数学的モデル内では彼の前提が正しいことになります。このモデルは物理世界を相空間(Phase Space)で捉え、それに時間軸を加えたものです。相空間に時間の次元を加えれば、絵巻物に描かれた対象のように、空間内のものはすべて静止したままになります。そこでは運動変化が動いている形態では存在しません。このモデル内には変化がなく、ユークリッド幾何学的世界と同じです。これが運動変化は幻覚に過ぎないというパルメニデスの理由と考えれば、私たちもこの数学的モデルには運動変化がないことを彼と同じように認めることができます。
 過去のもの、現在のもの、未来のもの、あるいは可能なもの、現実のもの、語りうるものの区別はこのモデルにはありません。すべては「ある」という述語で表現され、存在しないものは描かれていません。パルメニデスがこのモデルを採用したという証拠はありませんが、運動変化が幻覚に過ぎないという理由はこのモデルで十分説明できます。
 でも、このモデルを実際に使っている物理学では変化を扱っています。そして、このモデルを物理世界に適用して変化を実際に説明しています。このモデルでの変化の説明は、変化を見る視点をもつ私たちの経験を使ってなされます。例えば、4次元の世界の軌跡は、その同じ世界を3次元で考えた場合、その軌跡上を動く運動として変化を経験することになります。つまり、時間軸を取り去るという次元の還元が運動を見る視点をもつ経験の導入によって補完されるのです。また、時間軸を含む3次元の空間上の直線は時間軸を取り除いた2次元では一点から延び続ける線としてその先端が動いています。その動きはある視点から見られた空間内の運動で、「過去、現在、未来」と時制で表現される時間的な視点と協働しています。3次元の世界で対象が運動する様子は「過去から現在まで描かれ終わり、未来はこれから描かれることになる」ように描写されますが、4次元の世界ではこのような時制の区別は登場せず、その必要もありません。これを図式化すれば、次のようになります。

4次元世界の記述 ⇔ 3次元世界の記述+視点をもつ運動変化の経験

私たちには時間軸を往来することなどできません。左右、前後、上下は移動できても、時間上の移動は不可能です。こうして、「運動変化が幻覚に過ぎない」ことは、「次元(時間軸)の還元を補完するために運動変化が必要である」ことを意味していると解釈できることになります。完成された変化、完結した運動が記述・説明されるべきものであり、それは時間軸を加えることによって可能となります。運動変化を完全に把握するには完結した運動変化でなければならず、運動変化の途中の状態だけでは不十分です。次元を増やせば変化はなくなり、それゆえ、変化は時間軸の補完のための方便に過ぎなく、したがって、変化は幻覚に過ぎないのです。私たちには2次元に描かれた絵画を見て奥行きを理解でき、さらに遠近法を使うことによって3次元の構造がわかります。これは私たちが3次元を知っているからです。同じように3次元でも運動を経験することによって私たちには時間経過がわかります。遠近法と運動はいずれも高次の次元で表現できるものを巧みな工夫によって部分的に表現していると考えることができるのです。つまり、運動の経験は軌跡としての運動の不完全な表現と考えることができます。遠近法を使った絵が描かれた対象のすべての側面を同じ画面に表現できないという意味で不完全だとすれば、運動経験もすべての運動の特徴を理解するには不完全です。運動変化を完全に理解するにはそれを完結した形で捉えなければなりません。運動の一部ではなく、運動の始まりから終わりまでを捉えることが運動の完全な理解に必要なのです。
 何かとても難解な話のようになってしまいましたが、以上のことが私が理解したパルメニデスの主張のアウトラインです。上述の数学的モデル内の不変性はモデル間の不変性、そして、より重要な対称性(Symmetry)につながり、それが現代物理学のきわめて重要な概念にまで成長することになります。ともあれ、パルメニデスの変化の否定はゼノンのパラドクスが主張する運動変化の否定とは異なっています。
 パルメニデスと正反対と言われるのがヘラクレイトスの流動理論です。すべてのものは常に変化しているというのが流動理論の主張です。ある瞬間から次の瞬間へどんな対象もその構成部分あるいはその性質や特徴のすべてを保持することはありません。プラトンによれば、この流動理論はヘラクレイトスが提唱したものです。その理由は、ヘラクレイトスは持続する対象があることを否定するとプラトンが考えたからです。でも、(あやしいことですが)ヘラクレイトスが流動論者だったとしても、彼が持続する対象が存在することをすべて否定しなければならないことにはなりません。対象が静止しているのではなく、過程のようなものならば、それが恒常的に変化していても同一の対象であり続けることが可能です。さらに、程度の異なる流動理論が考えられます。

極端な流動理論:最も極端なものは、いつでも、どこでも、どんな対象もあらゆる点で変化している。多分この極端な流動理論は持続する対象を一切否定することになるでしょう。
穏当な流動理論:極端でないものは、いつでも、どんな対象もある点で変化している。この穏当な理論では時間の中で対象の持続を許すことになるでしょう。

 ヘラクレイトスが極端な流動論者であるとは思えません。彼の変化一般に関する議論、特に同じ川に二度と入れない話は、変化と永続性が共存できることが背景にあります。つまり、ある点で連続的に変化するにもかかわらず、対象は持続できることを示唆しています。これは、同じ川に入るけれども、違う水に足を入れる、ことを意味しています。異なる水をもつ同じ川に入るのですから、川の水は構成的に変化しても、川はやはり同じ川のままです。ですから、ヘラクレイトスは永続する対象があることを完全に否定したとは思われません。