龍樹や世親の思想(1)

 仏教教義のアカデミックな追求となれば、龍樹の『中論』や世親の『俱舎論』が挙げられるが、それらの中の議論の下準備として、哲学や科学における類似の議論を確認しておきましょう。
1パルメニデス哲学:不変性と次元
 ギリシャ哲学の最初の関心は自然に向けられ、自然の謎を既知の自然のものを使って考え、説明するという、いわゆる「自然主義」の原型が生み出されました。ターレスが偽物の原因として退けたのは自然の中には存在しないものでした。変化を変化しない普遍のもので説明すること自体は疑われない中で、変化自体を全面的に否定する哲学者が登場したのです。それがパルメニデスです。存在するものはすべて不変で、生成も消滅もなく、運動変化も幻覚でしかない。彼の意表を突く主張を心底信じるには生命の進化や社会の歴史だけでなく、自分の誕生や死を含む生活世界そのものを否定しなければなりません。このパルメニデスの無謀とも思える主張は仮説でも経験的事実でもなく、より基本的な前提からの帰結です。
 物語ではなく論証からなるパルメニデスの哲学は、次のような思考と存在の関係に関する基本前提からなっています。

対象を考えることができるなら、それは存在でき、その逆も成立する。
対象が存在しないならば、それは存在できず、その逆も成立する。

これら二つの前提から次の命題が得られます。

実際に存在しない対象について考えたり、語ったりすることはできない。

この命題から「存在する」⇔「存在できる」⇔「存在を知る」という同値関係が導き出され、いわゆる様相(modality)の無視が明らかになります。そして、次の命題が出てきます。

生成消滅はなく、運動変化はなく、質的差異はなく、そして多数性もない。

どのようにこれらの命題が導出されるかは省き、哲学史家からは怒られますが、思い切って現代的な観点から彼の前提を見直してみましょう。存在、存在可能性、思考可能性の間の区別を否定する点で、大変よく似ているのがブロック宇宙モデルです。パルメニデスの世界が数学的で、数学的世界には変化がないことを考えれば、数学的モデルであることがパルメニデスの前提をそのまま満たすことになります。その数学的モデル内では彼の前提が正しいことになります。このモデルは物理世界を相空間(Phase Space)で捉え、それに時間軸を加えたものです。相空間に時間の次元を加えれば、絵巻物に描かれた対象のように、空間内のものはすべて静止したままになります。そこでは運動変化が動いている形態では存在しません。このモデル内には変化がなく、ユークリッド幾何学的世界と同じです。これが運動変化は幻覚に過ぎないというパルメニデスの理由と考えれば、私たちもこの数学的モデルには運動変化がないことを彼と同じように認めることができます。
 過去のもの、現在のもの、未来のもの、あるいは可能なもの、現実のもの、語りうるものの区別はこのモデルにはありません。すべては「ある」という述語で表現され、存在しないものは描かれていません。パルメニデスがこのモデルを採用したという証拠はありませんが、運動変化が幻覚に過ぎないという理由はこのモデルで十分説明できます。
 でも、このモデルを実際に使っている物理学では変化を扱っています。そして、このモデルを物理世界に適用して変化を実際に説明しています。このモデルでの変化の説明は、変化を見る視点をもつ私たちの経験を使ってなされます。例えば、4次元の世界の軌跡は、その同じ世界を3次元で考えた場合、その軌跡上を動く運動として変化を経験することになります。つまり、時間軸を取り去るという次元の還元が運動を見る視点をもつ経験の導入によって補完されるのです。また、時間軸を含む3次元の空間上の直線は時間軸を取り除いた2次元では一点から延び続ける線としてその先端が動いています。その動きはある視点から見られた空間内の運動で、「過去、現在、未来」と時制で表現される時間的な視点と協働しています。3次元の世界で対象が運動する様子は「過去から現在まで描かれ終わり、未来はこれから描かれることになる」ように描写されますが、4次元の世界ではこのような時制の区別は登場せず、その必要もありません。これを図式化すれば、次のようになります。

4次元世界の記述 ⇔ 3次元世界の記述+視点をもつ運動変化の経験

私たちには時間軸を往来することなどできません。左右、前後、上下は移動できても、時間上の移動は不可能です。こうして、「運動変化が幻覚に過ぎない」ことは、「次元(時間軸)の還元を補完するために運動変化が必要である」ことを意味していると解釈できることになります。完成された変化、完結した運動が記述・説明されるべきものであり、それは時間軸を加えることによって可能となります。運動変化を完全に把握するには完結した運動変化でなければならず、運動変化の途中の状態だけでは不十分です。次元を増やせば変化はなくなり、それゆえ、変化は時間軸の補完のための方便に過ぎなく、したがって、変化は幻覚に過ぎないのです。私たちには2次元に描かれた絵画を見て奥行きを理解でき、さらに遠近法を使うことによって3次元の構造がわかります。これは私たちが3次元を知っているからです。同じように3次元でも運動を経験することによって私たちには時間経過がわかります。遠近法と運動はいずれも高次の次元で表現できるものを巧みな工夫によって部分的に表現していると考えることができるのです。つまり、運動の経験は軌跡としての運動の不完全な表現と考えることができます。遠近法を使った絵が描かれた対象のすべての側面を同じ画面に表現できないという意味で不完全だとすれば、運動経験もすべての運動の特徴を理解するには不完全です。運動変化を完全に理解するにはそれを完結した形で捉えなければなりません。運動の一部ではなく、運動の始まりから終わりまでを捉えることが運動の完全な理解に必要なのです。
 何かとても難解な話のようになってしまいましたが、以上のことが私が理解したパルメニデスの主張のアウトラインです。上述の数学的モデル内の不変性はモデル間の不変性、そして、より重要な対称性(Symmetry)につながり、それが現代物理学のきわめて重要な概念にまで成長することになります。ともあれ、パルメニデスの変化の否定はゼノンのパラドクスが主張する運動変化の否定とは異なっています。
2ヘラクレイトスの流動理論
 すべてのものは常に変化しているというのが流動理論の主張です。ある瞬間から次の瞬間へどんな対象もその構成部分あるいはその性質や特徴のすべてを保持することはありません。プラトンによれば、この流動理論はヘラクレイトスが提唱したものです。その理由は、ヘラクレイトスは持続する対象があることを否定するとプラトンが考えたからです。でも、(あやしいことですが)ヘラクレイトスが流動論者だったとしても、彼が持続する対象が存在することをすべて否定しなければならないことにはなりません。対象が静止しているのではなく、過程のようなものならば、それが恒常的に変化していても同一の対象であり続けることが可能です。さらに、程度の異なる流動理論が考えられます。

極端な流動理論:最も極端なものは、いつでも、どこでも、どんな対象もあらゆる点で変化している。多分この極端な流動理論は持続する対象を一切否定することになるでしょう。
穏当な流動理論:極端でないものは、いつでも、どんな対象もある点で変化している。この穏当な理論では時間の中で対象の持続を許すことになるでしょう。

 ヘラクレイトスが極端な流動論者であるとは思えません。彼の変化一般に関する議論、特に同じ川に二度と入れない話は、変化と永続性が共存できることが背景にあります。つまり、ある点で連続的に変化するにもかかわらず、対象は持続できることを示唆しています。これは、同じ川に入るけれども、違う水に足を入れる、ことを意味しています。異なる水をもつ同じ川に入るのですから、川の水は構成的に変化しても、川はやはり同じ川のままです。ですから、ヘラクレイトスは永続する対象があることを完全に否定したとは思われません。
3アウグスティヌスの時間
時間の哲学的な分析では必ずアウグスティヌスの考えが取り上げられます。彼の時間についての発想・理解が現代の私たちにも通じているからです。アウグスティヌスが時間について現代的な考えをもっていたことは、次の二つの問いを比較すれば一目瞭然です。

神は世界をつくる以前に何をしていたか。
ビッグ・バン以前に何が起こったか。

最初の問いに対するアウグスティヌスの解答は、二番目の問いに対する現代の物理学者の解答に極めてよく似ています。時間は神が世界をつくる際、あるいはビッグ・バンで世界が生まれる際に始まったので、それ「以前」というのはそもそも存在さえしません。だから、上の二つの問は意味をもっていません。これが両者に共通する答えです。問いとそれらが出された状況は異なっていても、両者の解答はよく似ています。
アウグスティヌスが直面した問題は神による世界の創造を説明することでした。神とその創造については次のような三つの主張があります。

(1) 神は永遠である。
(2) 神は恣意的でない。
(3) 神はある時点で世界を造った。

これら主張の二つから残りの主張の否定が導き出されます。(1)と(2)からは創造された世界が永遠で、したがって、(3)は誤りになります。(2)と(3)からは神が永遠ではないことが導き出され、したがって、(1)に反することになります。これでは神の創造を説明できないことになります。アウグスティヌスは時間についての独特の考察によってこれを整合的に説明しようとします。彼は神がある時点で世界を造ったことを否定します。神は時間の中に存在しているのではないから、ある時点で何かを行なうということはないと彼は考えるのです。そうではなく、世界を造る際に時間も一緒に造ったのです。時間は時間の中に存在する人間にだけ属します。神はすべてのものをそれらが現存しているかのように観ています。すべてのものは神の眼には過去や未来をもっていません。でも、私たちの時間的な見方では、すべての出来事は時間の経過の中で起こるものとして映っています。
 アウグスティヌスは時間の三つの区分、つまり、三つの時制(tense)を「存在」という概念を使って定義します。

(1) 過去は既に存在していないものである。
(2) 現在は今存在しているものである。
(3) 未来はまだ存在していないものである。
(これらの定義の「既に」、「今」、「まだ」は時間を仮定していないのか、仮定しているなら、それはどのような身分のものか、よくわかりません。)

アウグスティヌスはこれらの定義を心理的なものと考えます。過去は記憶の働きにより、現在は注意の働きにより、未来は期待の働きにより、私たちは経験します。時間はそもそも存在せず、神はこれらの働きをもつ人間を造ることによって、時間を造ったのです。
「時間とは何か」という問いは「Xは何であるか」というソクラテス的な問いの一つですが、この問いに対してアウグスティヌスは「それは何かと問われなければ何かはわかっているが、問われて説明しようとするとわからなくなる」と答えます。とはいえ、時間には過去、現在、未来があることを私たちは知っています。この時間の区別(=時制)を考え出すと、時間のもつ特異な性質が浮かび上がってきます。『告白』Book XI にはアウグスティヌスの時間論が展開されています。過去や未来は存在しません。というのも、過去は過ぎ去ってしまったもので、未来はまだ来ていないものだからです。過去も未来も存在しないなら、現在は過ぎ去ることなくいつも現在であり、それは永遠であることを意味しています。それゆえ、現在だけでは時間を十分に特徴づけることができません。そこで、アウグスティヌスは時間がどのくらい続くかを考えます。出来事や時間間隔が短い、長いというとき、一体何が述べられているのでしょうか。過去や未来が長い、短いはそれが存在できる現在のとき、長い、短いと考えられます。でも、明らかに現在は延長をもっておらず、瞬間でしかありません。過去も未来も存在せず、現在は瞬間であるとすれば、「何かが起こっている」とか「何かが起こるだろう」ということについて私たちが話しているとき、一体何が話されているのでしょうか。これにどう答えてよいかわからなくなります。でも、アウグスティヌスは過去や未来の話をすべて現在の話に還元しようとします。つまり、過去や未来についての主張が真や偽であるのは、過去の記憶や未来の期待についての現在の主張が真か偽であることと同じだと考えるのです。
ここでアウグスティヌスの主張を整理してみよう。彼によれば、世界には現在の時間、あるいは現在の出来事しか存在しません。未来はまだ存在していないし、過去はもう存在していません。でも、このような考えは多くの問題を生み出します。未来や過去について語るとき、何が語られているのか。過去と未来が存在せず、現在が瞬間に過ぎないなら、時間はどのように延長できるのか。延長していないなら測定できないことになります。時間の経過を説明するのに過去や未来は必要ないのでしょうか。現在しかなければ、時間はなく永遠しかないことにならないか。
ところで、過去も未来も存在しないというアウグスティヌスの見解の拠り所は何でしょうか。それは明らかに次の主張にあります。

まだ存在しないものは存在しない。
もう存在しないものは存在しない。

 このような議論を確認した上で、インドで大乗仏教への移行時に何が議論され、どのような理論がつくられたのか考えてみましょう。