信念と欲求、あるいは信心と煩悩(2)

 釈迦がアリストテレスのように講義し、著作を残していたら、それは一体どのようなものになっていたのでしょうか。あるいは、アリストテレスが釈迦のように修行して悟るという経験をしていたら、彼はそれをどのように表現したのでしょうか。釈迦の表現とアリストテレスの表現は何が同じで、何が異なるのでしょうか。アリストテレス、カント、釈迦と並べると、存在論、認識論、そして実践マニュアルとでもなるのかも知れません。あるいは、建築技師と大工のような違いを考える必要があるのかも知れません。でも、釈迦が西欧の哲学者とどのように違うのかを考えてみる価値は十分にあると思います。釈迦と西欧の思想家は比較できない程に違ってはいない筈です。釈迦の教えはその後の仏教の発展の中で経典として様々に注釈され、脚色されて行きますが、それはアリストテレスの膨大な注釈書に似ていなくもありません。
 相互のパラダイムシフトを想定しながら比較するなら、やはり際立った違いは釈迦の飛び抜けた悲観論です。煩悩の対極にあるのは健全な快楽ではなく、煩悩がなくなった状態でしかありません。何のために煩悩が存在するのかの納得いく説明もありません。それは正に所与の事実なのです。本能が進化上の適応だとすれば、それが煩悩だと言われると、なぜ煩悩が存在するかの説明は一体どうなってしまうのでしょうか。

 ヨーロッパの倫理思想における欲求はもっぱら善悪で分類されてきましたが、釈迦の場合はあらゆる欲求が煩悩として悪となります。善と悪の定義は、古今東西実に様々ですが、仏教では単純明快です。それは「煩悩が無いこと」です。仏教では、煩悩が無ければ、それを「善」としています。煩悩がないことは、つまり、心が浄まっていることで、それが善です。反対に、悪とは煩悩の強いこと、心が汚れていることです。仏教における善悪のとらえ方は、実は世界中にある宗教や思想の中でも大変に明快です。
 日本では、儒教の影響があり、社会や世間に貢献する度合いの高い行為を「善」ととらえる傾向があります。いわゆる「徳」の概念です。でも、仏教では善行為の本質へと迫り、善行為の本質とは「どういう意図で行為をするのか」といった動機にあります。例えば、社会貢献をするにしても、本当は名声が欲しいからといった動機があれば、その行為の善は半減してしまいます。反対に、社会貢献といった大きな行為はしないけれども、家族や友人の幸せを心の底から願い、献身的に世話をするなら、この行為は素晴らしい善行為になります。仏教では動機に不純なものがあると、善行為の価値は目減りすると考えます。攻撃的な心、欲望に満ちた心、落ち着きのない心など、煩悩が盛んで汚れた心による行為は、善行為とは言いがたいというのが仏教の立場です。
 仏教の善悪論を「動機論」と名付ける専門家もいます。善行為の「結果を重視」するのではなく、「動機を重視」するのが仏教の善悪の基準です。実際に原始経典には、これを説くものが数多くあります。

 原始仏教は釈迦が入滅してから約100年くらいまでの、部派に分裂する前の仏教のことです。現在の仏教は多くの宗旨に分かれています。それぞれが独自の主張をしていて、どれが本当なのかという疑問は多くの人々が感じてきたことです。たとえ同じ宗旨でも、歴代の先哲によって違う主張がなされたり、宗旨内で異見があったりするのは今も昔も変わりません。本来釈迦はどのようのことを説いたのかを探るには原始仏教の研究が不可欠です。伝えられている経典のなかで最古のものは何か、そこに説かれていることは何なのかを探ることによって、釈迦在世から入滅直後の仏教を推察することができます。
 原始仏教経典に比して、後の部派仏教(小乗)や、龍樹以後の大乗仏教は、難解な内容に変わっていきます。さらに、仏教の歴史は仏教が仏教でなくなる歴史だと言われますが、その一つの理由は釈迦が否定したはずの過度な神秘主義や、積極的に言及されなかった形而上学のことなど非仏教的なことが教義に編入されたことにあります。
 原始経典といっても、それまではずっと口承で、今に伝わる写本は最古のものでも1世紀を遡ることはできません。釈迦の入滅から400~500年経っていて、その時代は部派仏教の教義も発展しているし、その時代には初期大乗仏教も始まっています。口承はどうしても教義の展開の影響を受けてしまいます。
 原始仏教は出家による出家のための出家の仏教と言われています。そして、原始経典も必ずしも釈迦の生の教えを網羅し切れていません。釈迦の入滅から100年ほどしたとき、ヴェーサーリーで700人の僧侶が集まって教典編纂会議(第二次結集)が開かれました。その理由は、跋闍子比丘が戒律の緩和を唱えたためです。出家は一切の所有をしてはならず、塩ですら蓄えてはならない、出家は正午を過ぎて食事をしてはならない、といった戒律の緩和です。この結集で緩和は律(教団規則)に違反すると判断されました。この決定に不満をもつ僧侶たちは新たな教団を形成して大衆部という部派ができ、仏教教団は「上座部」と「大衆部」に分裂しました。
 さて、この分裂の後もさらに分裂してゆき20の部派に分かれました。この出家教団の仏教が小乗仏教(部派仏教)。部派に分かれたので部派仏教とも言われ、分裂した中で最も有力な部派が説一切有部でした。たくさんの部派に分かれたのは、もともと釈迦が対機説法で体系的な教理を説法しなかったことに起因します。これがきっかけになり、仏教の教理がさらに詳細に研究され緻密な思索がなされることになります。部派ごとに経(経典)、律(戒律書)、論(論書)の三蔵が整理され、教義が体系づけられて行きます。でも、それらは一方で壮大で煩瑣な教理に発展して行き、出家修行者のみにしか伝え、語れないほど膨大で難解で煩瑣なのものになってしまいました。でも、これが一般大衆を成仏の対象とした大乗仏教興起の原動力の一つになったのです。
 初期大乗は大乗仏教の興起の西暦紀元前後から龍樹(150-250頃)までの仏教のことで、『法華経』、『般若経』(初期)、『阿弥陀経』など日本に縁の深い経典が成立した時期です。部派仏教(小乗)で教学の体系化がなされ、それが大乗仏教にも継承されました。仏教は当初から、出家による出家のための仏教という傾向があったのですが、その傾向が強くなり、出家修行者のみしかわからない複雑で難しいものとなりました。それに対して、異を唱えた仏教徒の運動が大乗仏教を生むことになります。
 出家は当時のインドであっても全ての人にできることではありません。しかし、仏教の最終目標である煩悩からの解脱は出家に限って成就されると考えられていました。とはいえ、すべての人が出家できるわけではありません。そして、出家には相応の覚悟を必要とします。また、人々がみな出家して乞食(こつじき)の生活をしてしまえば、その国の経済は成り立ちません。
 初期大乗仏教の興起は仏塔信仰に求められます。釈迦の入滅後、火葬された釈迦の遺骨は分骨され丁重に埋葬されました。そこには、ストゥーパ卒塔婆)という仏舎利塔が建立され、仏教徒に限らず民衆の篤い信仰を集めました。やがて、そのストゥーパを管理し、ストゥーパ参詣者をガイドする人たちが出現してきます。正規の僧侶は墓守やガイド役などをしなかったので、彼らは在家でした。そんな彼らが初期の大乗仏教を起こしたのではないかと言われています。
 一方で、旧来より大乗仏教は大衆部から興ったという説があります。大衆部の教義で大乗仏教に影響を与えた考え方に次のようなものがあります。煩悩は心に本来からそなわったものでなく、もともと心は浄く、煩悩が塵のように付着したにすぎないものだというのが客塵煩悩説です。塵をのぞけば本来の清らかな心が現れるという考えは、後の如来蔵思想で強調されます。また、菩薩が衆生を救うために自ら苦しいこの世に生まれるというのが願生説です。文殊師利菩薩や弥勒菩薩などは、私たちを哀れむためにあえて菩薩として苦しみに満ちた私たちの娑婆世界に出現したというのが願生説です。
 初期大乗の経典の代表的なものは『阿弥陀経』、『般若経』、『法華経』です。おそらく、この順番で成立したと思われます。初期大乗経典を初めて漢訳したのは後漢の支婁迦讖(しるかせん)です。支婁迦讖が西暦179年に訳した『道行般若経』、『般舟三昧経』、『首楞厳経』などが中国の知識人に大きな影響を与えました。ともかく、初期大乗経典の『般若経』、『阿弥陀経』が2世紀後半に訳されています。現存する『法華経』の漢訳に関しては、西暦286年の竺法護訳による『正法華経』まで待たねばなりません。実際、漢字文化圏に広く流布した鳩摩羅什訳の『妙法蓮華経』は西暦406年の漢訳です。
 龍樹(ナーガールジュナ)は西暦150~250年頃の人で、インドのバラモンの学問をすべて習得した後、仏教に転向して、当時の上座部仏教と初期大乗仏教を学んで大乗仏教に傾倒し、あまたの諸経典に通暁し、初期般若経典の「空」をもって大乗仏教の地位を確立しました。龍樹の功績はなんといっても、大乗仏教を体系づけ、理論武装して伝統的な部派仏教(小乗)に対抗するに値するものにしたことにあります。龍樹の出現がなければ、大乗仏教はただの異端的な俗信に留まっていたでしょう。
 龍樹は最初からあった仏教の「空」の考えかたを、『般若経』の「空」を解釈することによって深め、体系化しました。その「空」の思想は中観派として後に多大な影響を及ぼします。龍樹以後の大乗仏教は多かれ少なかれ彼の影響下にあります。しかし、その仏教は在俗信徒をも含めた在家仏教的な初期大乗を、出家仏教にしてしまったという面があります。「空」のサンスクリットの原語は sunya であり、「欠如」という意味で、インド人が発見した0(ゼロ)という数字を表します。これは前回述べたことです。
 初期大乗の『般若経』が成立すると、部派仏教(小乗)は「空」の立場から批判されるのです。また、『般若経』では何ものにもとらわれない「空」の立場に立ち、またその境地に至るための菩醍の行(六波羅蜜)の実践を説き、般若波羅蜜の体得が強調されます。龍樹はこれを受けて、空の思想を論理的、哲学的に整理し、それまでの部派仏教の思想がその原理を固定化すると矛盾に陥ることを示して論破します。そして、すべてのものは実体がなく空である(無自性)という立場を表明したのです。 彼の主著は『中論』です。龍樹の中観仏教を中国にもたらしたのは、訳者として著名な鳩摩羅什(350-409頃)です。この系統から三論宗が成立しました。
 グプタ王朝期(320‐550年)のインドに「唯識」という仏教思想が生まれました。空の思想を受けつつも、一切が空であるという龍樹の中観派に対し、一切は空にあらずという主張をしました。その開祖は無著、世親という兄弟です。孫悟空の話に出てくるを玄奘三蔵唯識仏教を求めて天竺(インド)に旅をしました。その系譜は法相宗として日本の法隆寺に伝わります。無著と世親は、ペシャワールパキスタン)のバラモンの家に生まれた兄弟です。兄の無著は部派仏教最大の説一切有部にて出家しますが、それに満足せず大乗仏教の空の思想を学びます。弟の世親も説一切有部にて出家し、説一切有部の教義を集大成した『倶舎論(阿毘達磨倶舎論)』を著します。やがて、兄の無著に説得されて大乗に転向し、唯識仏教の開祖の一人となりました。
 龍樹(中観派)の「一切は空である」という主張に対して、「一切は空である」と認識する心のみは存在しなくてはならないと唯識は考えます。唯識では、六つの認識作用(眼・耳・鼻・舌・身・意)に、末那識、阿頼耶識を独自に加えます。末那識とは深層に働く自我執着心のこと。阿頼耶識のアラヤとは住居・場所の意味で、個人存在の根本にある認識作用のことです。

 これまで述べてきたことから、釈迦が対機説法で体系的な教理を説法しなかったことがその後の仏教の歴史を独特のものにしてきたことがわかります。解脱にいたる修行のマニュアルに徹した釈迦の教えは、その内容を言葉によって理解しようとするために、多くの経典として注釈付きで説明、解説されてきました。アリストテレスの『形而上学』はその後多くの哲学者が注釈し、それが蓄積されてキリスト教世界の自然神学の基礎となりました。釈迦の教えはアリストテレスのように著作にはなっておらず、多くの経典はそれぞれ形而上学の版づくりだと言えるかも知れません。でも、経典が編まれることは釈迦の教えが実践マニュアルからなっていたことから離れることでもあるのです。
*画像の左が無著像(194.7cm)、右が世親像(191.6cm)。無著像は老人の顔で右下を、世親像は壮年の顔で左を向き遠くを見る。運慶の指導で、無著像は運助、世親像は運賀が担当した。

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