唯識と心理(煩悩)、唯物と物理(運動)

 タレスと釈迦は同時代に生きた可能性があるのだが、二人の人間性は随分違うように描かれてきた。いずれも聡明この上ないのだが、その質は異なると断定され、その違いがギリシャ哲学と仏教を水と油のように別々に理解する習慣を生み出すことになった。二人の関心や成果を眺めると、人と世界の間の関係の典型的な二大スタイルが見えてくる。外向的な世界の理解と内向的な心の理解というそれぞれの関心が、科学や哲学と宗教という異なる領域を安易に分けることになるのだが、それはヨーロッパでの哲学・科学と宗教の違いと同質の違いでは決してない。私たちはタレスと釈迦の違いをいわゆる哲学と宗教の違い(つまり、哲学と神学の違い)と即断してはならないのである。むしろ、カントのコペルニクス的転回に似たものをタレスと釈迦の間に想定、想像する方が適切なのかも知れないのである。
 釈迦の仏教が大乗仏教、中国仏教、そして日本仏教へと変遷する中で連続ている特徴は、仏教の心の振舞いへの関心の高さが変わらない点にある。心が「信念と欲求」の二つからなっているとザックリ考えた場合、仏教はもっぱら欲求に力点を置き続け、ヨーロッパの哲学は信念にその関心を集中してきたのである。
 心を中心に置いて世界を考え、心が認識するものだけを信じる典型の一つが独我論である。そして、その独我論の病、不具合として煩悩を捉え、煩悩が目の前に突き付けられ、それを克服するのが仏教の目的である、となると自らが問題を生み出したように見えなくもない。心を無視するのではなく、重視し過ぎたのが仏教であり、釈迦自身が精神分析家、心理学者だったことも頷ける。最初から心の悩みにのめり込む前に、忘れてならないインド思想の基本的な特徴を押さえておこう。

 『原論』(Euclid, Elements)の最初は「点とは部分のないもの」という点の定義。その点にサイズがあれば、その半分のサイズがあり、それは元のものの部分だから、点には部分があることになり、定義に反する。だから、点にはサイズがない。ユークリッド幾何学はサイズのない点からなる幾何学である。点から始まり、点を集めて線が、線を集めて面が、さらには多様な図形がつくられ、それらの間の関係が定理として証明されることになる。
 『原論』の出発点は奇妙に映る。サイズのないものは存在できないし、存在したとしても感知できない。物理的に存在せず、それゆえ、知覚経験もままならない。だが、サイズのある点から始めると、数学と物理学が協同して世界を探求することができなくなり、経済学や遺伝学のモデルもつくれなくなる。ここにユークリッドの格段に優れた慧眼を見出すことができる。「点」が、すべてのものを表現する基礎になっている。その後、点は実数と対応することから幾何学の代数化が進み、いわゆる解析幾何学デカルトらによって生み出される。空間内の点の遍在は空間内の対象の位置や運動変化を表現するのに使われ、対象はいつでもどこでも確定した値があるということになった。
 有限の点しかない幾何学は無限の点、それも連続した点をもつ幾何学とは随分異なっている。点のない幾何学は考えたこともないような幾何学であり、それは非ユークリッド幾何学より想像しにくい。点のない幾何学は点ではなく、領域を原始的な存在論的概念とする幾何学ホワイトヘッドが時空の幾何学ではなく、出来事の理論として考え、始まった。
 当初は点の効力は図形だけ、つまり図の部分だけだったが、地と図の両方に効力が及び、図形とその空間の両方が考察されることになる。さらに、n次元、無限次元の空間へと拡大され、位相幾何学へと進む。このような4段階で「点」の役割と効力が拡大し、点によって対象が構成され、点によってそれが表現され、点によってそれが測られるというモデルが確立していく。これが力学モデルの基本として使われ、古典的な時間、空間と、その中での運動変化の記述が、点からスタートする表現装置=実数によって成し遂げられることになる。
一方、零の発見はインド数学の優れた功績。それは、次のように表現されている。

「かくして零の発見、単なる記号としてばかりでなく、数としての零の認識、つづいては、この新しい零という「数」を用いてする計算法の発明、これらの事業を成就するためには、けっきょくインド人の天才にまたなければならなかったのであった。」 (吉田洋一、『零の発見』、岩波新書、p.20)

この引用の中には二つの零の発見が述べられていて、それらは次のようにまとまられるだろう。
<記号(空位)としての零>
位取り記数法では、空位を表す記号が必要になる。3と30の違い、30と300の違いを表現しなければならない。位取り記数法は、数字を入れる位置が指定されているから、そこに何かの数字をいれなければ記法が完成しない。30の0,300の00が必要となる。このような意味での零の用法は、エジプト、バビロニア等の古代文明の中でそれぞれ独自の形で見られる。
<数(演算の対象)としての零>
 演算の対象としての零が最初に発見されたのがインド、3+0、3・0が3+5,3・5と同じように計算されるには、0は5と同じ数でなければならない。インドで零は他の数と同じように計算できる数になり、真に数の一つとなった。
 零と同じように点についても、その二つの意味を考えることができる。記号としての点と、図形(あるいは幾何学の対象)としての点である。零は記号としての発見の方が遥かに早く、インドでも数としての零が最初から存在していた訳ではなかった。だが、『原論』の定義の最初にあるように、点は幾何学的な対象としてまず登場する。それが記号として認識されるのはデカルト以降の解析幾何学においてであり、対象の位置を表現する記号として重要な役割を担うことになる。表示するための記号としての点と存在するものとしての点は零の二つの意味と対応しており、後に点と数との対応が明示的になる出発点となっている。まず対象として認識され、それがさらに別の対象を表示するための記号として使われる、これが点の歴史である。

 2世紀に生まれた龍樹は、仏教の原初からあった「空」の考えかたを、『般若経』の「空」の解釈によって深め、体系化した。その「空」の思想は中観派として後に多大な影響を及ぼす。「空」のサンスクリットの原語は「欠如」という意味。また、インド人が発見した零を表していて、その詳しい内容は上述の通りである。当初の仏教経典では単に「空虚」や「欠如」という意味に用いられていたようで、紀元前後に『般若経』が成立する以前には、「空」は仏教の中心思想ではなかったようである。
 初期大乗の『般若経』が成立し出すと、『般若経』は上座部仏教を「空」の立場から批判する。また、『般若経』では何ものにもとらわれない「空」の立場に立ち、またその境地に至るための菩醍の行(六波羅蜜)の実践を説き、般若波羅蜜の体得が強調される。龍樹はこれを受けて、空の思想を論理的・哲学的に整理し、それまでの上座部仏教の思想がその原理を実体化すると矛盾に陥ることを示し、「すべてのものは実体がなく空である(無自性)」という立場を表明している。
 仏教の目的は「転迷開悟」、つまり、煩悩を転じて悟りを開くということに変わっていく。第一に悩んでいる自己も対象としている悩みもないのだから、煩悩もないのだと気づくと、煩悩が消失、または軽減する。第二に煩悩はそれが形成される因果律をはっきりとつかむと、消失、軽減する。仏教では以上の二つの生き方が示されている。浄土教阿弥陀仏の極楽浄土に往生し、成仏することを説くが、そのため阿弥陀仏の本願を信じ、もっぱら阿弥陀仏の名を称えるという念仏がすすめられる。一般に瞑想法は、調身・調息・調心からなる。念仏でもこの関係が成りたち、念仏はふつう正座の姿勢をとるが、手のひらを合わせて合掌する。称名(仏名を称えること)によって調息、すなわち呼吸が調えられるので、これによって調心が得られる。また念仏では、南無阿弥陀仏と繰り返し称え、その音声に注意集中する。その注意集中が強められ、やがて三昧の状態が得られる。
 さて、そのもとにある唯識はどんな思想なのか。私たちが見ているこの世界は、すべて心の中にある。心の外にものは存在しないという独我論的な思想である。これは「一切不離識 唯識無境」と表現されている。眼前のコップは実在するのか。私たちはこのコップを認識しているだけに過ぎない。確かに眼で見ている、触ってもいる、その結果、このコップは確かにそこにあると思っている。私たちは目で見て、脳に認識されたコップという映像と、手で触った触覚という神経系から伝わって脳に認識された信号とで、コップがあると認識しているに過ぎない。
 人類は、色々なものを認識して、それらを区別、整理してさまざまな名前を付けて識別し、その性質を(人間の認識の範囲で)分析してきた。でも、それらはすべて人間の認識構造から抜け出ていない。唯識では、外には何も無いの立場を取る。般若心経には、「無」や「空」が何度も登場するが、この唯識の考え方がベースになっているからである。
 私たちはものを見ているのではなく、本当は見せられている。この考え方を延長していくと、私たちは実は生きているのではなく、生かされている、という考え方にたどり着く。これが親鸞の「他力思想」へとつながっていく。
 さて、自分とは何か。自分はどこにいるのか。「自分」は指そうとすれば、何を指していいかわからず、困ってしまう。「ポインタ」はデータを指しているだけで、データそのものではない。このことが、仏教で言う「無我」。だが、この自分という認識がなければ、人間は生きていけない。確かに生物学上必要な機能だが、私たちはともすれば必要以上にこの「我」にこだわる。これが「我執」で、すべての煩悩を生む根本原因の一つ。

 上述のように歴史的な展開を通じて仏教の教義は変化していくが、その出発点にはタレスや数学の零の存在があり、科学、哲学、宗教と枝分かれした系統関係の共通祖先がどのようなものか見出していくのが今後の目標である。