煩悩(5):食欲

 生物にとって、そして人にとって食べ物は生きるために必須のものである。それゆえ、食物とは様々な自然のものの中で特別のものである。自然の世界で生き残るために必須なものとなれば、何はさておき「食べる」こと。どんな動物にとっても摂食が生存の最重要課題である。その課題を実現するための工夫の一つが食欲である。食欲は不足しているエネルギーを摂取するための機構である。そこで脳には、全身のエネルギーがどのくらい不足しているのか、あるいは足りているのかをモニターするシステムがある。エネルギーが不足している状態が、すなわち空腹として感じられる。空腹は行動に影響する。そして、空腹によって「お腹がすいた」と感じ、摂食行動を引き起こすために脳の広汎な機能が働き出すのである。摂食行動とは、食欲を感じ、食物を探す行動から、実際にそれを口に運び咀嚼して飲み込み、消化して体内に栄養として取り込むことまでをも包括するものといってよいだろう。こうした複雑な行動を引き起こしているのが、脳全体の機能なのである。
 動物が生きていくためにはエネルギーが不可欠、そのエネルギーを得るには食物を摂る、つまり、摂食という本能行動が必須である。その摂食行動を動機づけている本能的な要因が食欲。「お腹が空いた。何か食べたい」という私たちの気持ちは日常的に経験されているもので、宗教的にはしっかりコントロールすべき煩悩と見做されてきた。日常的な「食欲」に対して、食べたくても食物がなく、強い空腹を感じるものに「飢え(hunger)」がある。食物が見つからず、飢えが続くと、飢餓状態になり、動物は衰弱して死に至る。これら3つ、つまり食欲、飢え、飢餓は連続的な事象である。
 多くの動物は自由に食べられるようにしておくと、自然に食べるのをやめる。これが満腹状態である。私たちの場合、飢えや満腹感は胃のあたりにある主観的な感覚である。そのため、かつては胃が空になると飢えを、また、それが食物で満たされると満腹を感じると思われていたし、被験者に風船を飲ませた実験から、風船の収縮すなわち胃の筋肉の収縮が飢餓感をもたらすと考えられてもいた。だが、飢えや満腹感を認知するメカニズムはそれほど単純ではなく、カロリーホメオスタシスという視点でとらえるべきことが明らかにされつつある。飢えは食事によって生じた満腹感を抑制することによって起きてくる感覚だという。満腹感に関わるものには食物自身がもつ味や匂い・歯ごたえ・舌ざわり、胃の拡張状態、小腸における食物の消化産物、胃・腸・膵管系ホルモンなどがある。
 胃壁の筋肉には多くの伸展受容器があり,食物によって胃の体積が増えると、それに比例した電気信号を生ずる。迷走神経を通って、延髄の弧束核や最後野に伝えられたその信号はさらに視床下部や大脳皮質に達している。それに加えて、食事中に十二指腸から血中に放出された腸管ペプチドのコレシストキニン(CCK)が、胃の幽門部に分布する迷走神経のCCK受容体に作用し、胃の拡張状態についての増大された信号が脳幹に伝えられ、摂食が抑制される。十二指腸も摂食行動の制御に関わっているという。食事中に胃で消化された食物は小腸に送られてさらに消化、吸収される。十二指腸の消化物である栄養分が胃には関わりなく、摂食を抑制するというのである。小腸の壁には通常の小腸の細胞の他に、味受容体をもつ一方、血中にペプチドを分泌している腸管の内分泌細胞がある。そのうちのある細胞は腸管内の特定の栄養分、例えば脂肪酸を検出すると、CCKを血中に放出し、胆汁の分泌を促進する。また、別の細胞は炭水化物を検出してグルカゴン様ペプチドを放出し、インスリンの分泌を高める。こうして腸管の内分泌細胞から血中に放出されたさまざまなペプチドは、満腹感を高め、摂食の抑制に関わるという。なお、胃と視床下部で産生されているグーレリンというペプチドは多くの脊椎動物で、摂食を促進している。胃から血中に分泌されたグーレリンは視床下部のNPY/AgRPニューロンに作用するとされている。 摂食の体内でのメカニズムや働きはさらに追求されるだろうが、ここではこのくらいにしておこう。
 長い進化史を通じて、生物はつねに飢えにさらされてきた。そのため「摂食行動の制御システム」が進化してきた。生物にとっては飢えをしのぐことが、生存の最大のテーマだった(もう一つのテーマが生殖)。一方、現在人類は飽食の時代を迎えている。飢餓の時期にはうまく適応していた制御システムがうまく対応できず、肥満とそれに伴うメタボリックシンドロームの脅威が広がっている。また、生活スタイルや価値観の多様化のなか、拒食症をはじめとする摂食障害に苦しむ人も増加している。
 飢えを克服した人にとって、食欲はただ空腹を満たせばすむ生物的な欲求であるだけでなく、文化、伝統、習慣といった複雑な要因から生み出され、あるいは抑制されてしまうものへと変化してきた。このような人の食欲は、当然科学の対象となってきたが、上述のように今では人の食欲は脳の問題として扱われている。「食欲」は胃や腸ではなく、脳がつくり出している。脳が食欲を生み出し、私たちはそれを空腹として感じている。
 摂食行動のメカニズムは、マウスやラットを使った実験によって解明されてきた。だが、人はほかの動物とは違った食生活を営んでいる。まず、朝・昼・晩とほぼ規則正しく食事を摂る人がほとんどで、食事が習慣化している。また、空腹のためではなく「おいしいから食べる」、つまり、おいしさという報酬を得るために食べる場合が増えている。
 こうして、科学的には「食欲」は生存に不可欠の機能の一部であるが、人ではそれが生存を脅かすことも起こり始めている。だから、食欲は科学的にも煩悩になり得るのである。