自力と他力

 自然界での生き物の生活は基本的に自力的であり、血縁内で他力的、つまり助け合うことがあるとしても、個体の運命は最終的にその個体が握っている。少々型破りなことことだが、利他的、利己的な行動に関する議論が宗教における自力、他力の議論に応用されると、どのような話になるのか、それをスケッチしてみよう。宗教関係者の間では、自力と他力の形而上学が煩悩との関わりを通じて議論され、時には自由意志が加わり、仏教だけでなく、キリスト教イスラム教などを通じて議論されてきた。だが、明晰判明な結論が出ず、埒が明かないことに業を煮やし、視点を変えて損得という非宗教的な立場から捉え直してみようと思った次第で、下衆の悪あがきなのだろう。
 浄土真宗では他力的な行動こそが人間が救われる信仰形態であると考えられている(他力本願)。動物の本性が自力的であり、利己的であるという考えは、人のもつ(利他性のような)人間性がもつ特別な価値を際立たせる効果を持っていた。適者生存に基づく自然選択説ダーウィンの進化理論であり、自力的な行動をとる個体がそうでない個体より一層多くの子孫を残すことが自然の掟であると理解されてきた。そのため、進化論は(利己的で)自力的な個体こそが生存に有利であると考える理論だと受け取られた。だから、他力的に振る舞う人間は宗教的、倫理的な規範に従うものであって、科学的な進化論はその人間特有の事柄を扱うことができない、ということになる。実際、この判断は生物的な原理から宗教性や倫理性が得られないことを適者生存が図らずも物語っている、証明してくれているという(最もらしい)結論を誘導する。そして、事実と当為の問題はこれで一件落着ということになる。というのも、人間は適者生存に宗教性や倫理性を加えた次元で生活しているのであり、したがって、進化論では説明し切れない人間の尊厳が存在すると結論することによって、進化論は宗教的、倫理的な考察の範囲外にあることの説明に成功したと考えることができるからである。
 多くの伝統的な宗教的振舞いに関する議論では、上座部仏教では自力性こそが人間の宗教活動の本性とみなされ、他力性は方便に過ぎないという立場が、大乗仏教ではその反対の立場がとられてきた。信仰活動という観点に立つと、私たちの信仰の多くは自力的とも他力的とも分類できない振舞いを多く含んでいる。真理や美の追求という動機はそれだけでは自力的とも他力的とも言うことができない。真理の追求が生物的な本性であると考える人はまずいない。
 進化論の説明の仕方を思い出そう。自然選択は変異(variation)の存在を前提にしている。変異があるところに選択が働き、集団全体の遺伝的な分布が変化する。変異は説明されるのではなく、説明するための前提である。他力的な行動についても同じで、他力的あるいは自力的な行動が既に存在し、それらがどのように集団の中に保持されていくか(あるいは、消滅していくか)を選択のメカニズムから考えようとするのが進化論である。他力主義そのものがどのように生じたか、生じるかというのではなく、それがどのように進化するかが主題である。それでは他力性や自力性が事前に想定されているという反論がすぐに考えられる。適応的な説明はこの反論に一部答えてくれる。しかし、いつでも説明のもとになる変異の存在が保証されているわけではない。また、私は人間の行動が宗教性をもつことと、それが歴史的に進化することとは立派に両立できると考えている。
 私たちが日常生活の場面で遭遇する自力性や他力性は普通心理学的なものであり、進化論の対象ではない。私たちの経験する範囲内での他力性、自力性は、進化論によって考えられてきた他力性、自力性ではない。進化論の対象は集団の進化であり、他力性や自力性も集団的な特徴として理解されなければならない。それに対して、浄土真宗の他力性や上座部仏教の自力性は解脱を求める人の信仰についての性質である。したがって、進化論的な他力性、自力性と宗教的な他力性、自力性を同一視することはできない。そうではあるが、その進化論的な他力性、自力性の絡み合いを眺めてみよう。
 100人ずつの二つの群(例えば、サンガ)があり、そこには自力的な信仰をもつ個体と他力的な信仰をもつ個体が存在している。自力的な個体が集団内に1しかない場合、適応度4をもつとする。その場合、残りの99は他力的な個体である。この集団に自力的な個体が増えるに連れ、その適応度は次第に減少していく。なぜなら、一人なら集団内で自由に行動できたのが、同じ行動をする自力的な個体が増えるにしたがって、その自由は制限されていくからである。一方、他力的な個体の適応度は自力的な個体が増えるに連れ、やはり次第に減少する。また、この集団全体の平均適応度は自力的な個体が増えるに連れ、集団の統一が次第になくなっていくということから減少していく。これはまた、進化はいつも集団の平均適応度(average fitness)を高めるように働くのではないという恰好の例である。このような仮定の下で、群の集まりが存在するならば、自力的な信仰のほうが他力的な信仰よりは適応度が高くなる場合があり、したがって、他力性が集団内に保持され、選択的に有利であることが可能であることになる。これが他力性の存在についての基本的な考え方である。これを表にしてみると以下のようになる。

グループ1     グループ2     総計
  1S; W = 4 99S; W = 2 100S; W = 2.02
99A; W = 3 1A; W = 1 100A; W = 2.98 
(Sは自力的、Aは他力的、Wは適応度)

 このような結果を別の仕方でまとめてみると、次のようになる。どのような部分集団においても、他力主義は自力主義よりも適応度が高く、適応度の高くない性質はその頻度が低下する、と仮定してみる。ここから、他力主義はその頻度が低下する、と結論することはできない。上の表の総計の数値(W = 2.02, W = 2.98)がこの推論の結論の反例になっているからである。どのような部分集団においても頻度が低下する他力主義者は、全体ではその頻度が高くなることがあり得る。
 ここまでの議論を他力と自力の用語をすべて置き換えて展開しても、まったく同じような結論を得ることができる。これは何を意味しているのか。宗教の教説に関して、自力や他力がその根幹に関わる場合、教説を変更、修正することは滅多に起こらない。これが科学と大きく異なる点である。科学的には他力も自力も環境次第で変わり得ることになるのだが、それを防ぐための方策が「絶対的な真理」という前提で、それによって、上記のような進化が起こらないようにしているのである。どの宗教も「絶対不変の真理」を説いているという謂い方は、その真理が変わり得ることを許すなら、自力が他力に、あるいは他力が自力に歴史的に変化することが可能であることになってしまい、それを防ぐためなのだという(つまらない)理由が見つかるのである。