第二性質は感覚的なのか、あるいは色は主観的か

 私たちが住む物理的世界は数学によって表現され、信頼できる仕方で説明や予測ができます。これが科学革命の目標で、その実現をスタートさせた一人がガリレオ・ガリレイでした。数学が嫌いな人は物理学も嫌いであり、その逆も成り立つのは二つが密接に結びつているからですが、そのような結びつきを生み出したのがガリレオだったのです。このようなガリレオの研究スタイルを嫌いな人が多いのは確かです。でも、科学に対する通念はこの1世紀の間に大きく変わり、言語が数学的であるゆえに、数学が使われる範囲はますます増え、ガリレオの方法では扱えないと思われていた事柄が続々と解明されてきました。そんな時期に、改めてガリレオ批判を見直してみましょう。
 17世紀前半に活躍したガリレオは、近代科学の実証主義的方法論や数学的自然観を生み出しました。数学的な理論と実証的な実験という二本立てを駆使して物体の落下法則を発見しました。数学の言葉で書かれる自然という表現は、彼の数学的自然観を見事に示し、物体の「第一性質」と「第二性質」の区別につながっています(「第二性質」という用語は哲学者ロックが後に使って有名になった用語です)。
 第一性質としては「大きさ、形、数、運動の速さ」などが挙げられます。これらは物質そのものがもっている実在的な性質であるのに対し、味、匂い、色彩などは物体がもっているのではなく、感覚する人間がもつ性質であり、客観的に実在していないとガリレオは考えました。ガリレオはこの区別の基準をはっきり語っていません。おそらくガリレオは、数学的に処理可能な性質を第一性質とし、そうでないものを第二性質としたのではないかと推測できます。ガリレオは数学的自然観をもとに、数学的に表現できない性質として感覚的なものを考えたのでしょう。
 味や匂いや色彩などは、17世紀のガリレオの時代では数学的に表現できる見通しが立っていませんでした。その際の典型的な謂い回しが、「量」的な性質と「質」的な性質の違いという表現です。ガリレオは自然界を「量」と「質」に分け、質的なものを主観的な領域に押しやり、自然界を探究するには数学的手法の適用で十分となると考えたのでしょう。
 ガリレオは二つの性質を峻別した上で、人間の視覚以外の感覚について、「四つの感覚が四つの元素と関連している」と主張しました。17世紀の科学革命の立役者ガリレオが感覚を論ずるのに古代ギリシア四元素説を持ち込んだのです。エンペドクレスやアリストテレスは、この世界の根源的元素として「火、空気、水、土」を挙げ、これらの四元素によってこの世界のすべてが構成されている、と考えました。その枠組がガリレオにも継承されていたのです。例えば、触覚については、その感覚が土の元素に関連しているとし、味覚と臭覚については、「味を生じさせるためには空気中を落下する液体が、匂いを生じさせるためには空気中を上昇する火が、ある類比をもって対応している」と言います。さらに、音には、空気元素が対応していると考えます。そして、それらの感覚を生じさせるために、それらの元素の微粒子の「大きさ、形、数、遅いもしくは速い運動といった以外のものは必要ない」と断言します。微粒子の形や運動によってさまざまな感覚が生じる、というのはデモクリトスの原子論に由来するもので、原子論がガリレオの数学的自然観に合致することを見抜いていたようにみえます。
 考えてみれば、物質の化学的理解は18世紀の後半から19世紀の初頭に急速に進展し、ラヴォアジェやドルトンらによって、化学分野の近代化が達成されたのですから、17世紀前半のガリレオアリストテレス四元素説を温存していたとしても不思議ではなく、それを原子論に結びつけたことは化学革命を先取りしていたとも言えます。
 物理学と天文学の研究者ガリレオに反対する陣営となれば、アリストテレス派の哲学者たちとアリストテレスの自然哲学でした。運動理論でも地動説でも、ガリレオアリストテレスに反対しました。ところが、感覚を考察する際に、他の道具立てが当時はなかったため、宿敵アリストテレスの手札を使うしかなかったと考えることができます。そのため、人間の感覚と密接な係わりのある「第二性質」については、重要性を認めたくない、という意識に上らない思考が働き、物体には実在しない性質、とみなしたくなったのではないでしょうか。
 ガリレオは、数学的に表現される世界こそ真の世界であるという強烈な自負心をもっていました。フッサールガリレオを隠蔽の天才、ガリレオの倒錯とさえ呼んでいます。感覚については、数量化の構想を仮想的には提示できるものの、基本となる概念をアリストテレスから借りてこざるを得ませんでした。これが思想史の一つの捉え方であり、ガリレオフッサールの対比が科学、数学、哲学の間の関係とドラマティックに理解される図式なのですが、私にはこれは一面的過ぎると思われて仕方ありません。
 少なくとも、ガリレオがかなり強引に、数学的自然観の方針を貫徹しようとしていたことは確かでしょう。彼の世界観と相性の悪いものは排除する。そのため、アリストテレスの臭いがし、数量化の見通しの立たない「第二性質」を客観的世界から放逐したかった、と考えると、対立構図がはっきりし、わかりやすく見えるのですが、それが私には納得がいかないのです。ガリレオが世界の姿を隠蔽したとすれば、その同じ知識や手法によって暴露したことはどうなるのでしょうか。
 そこで、再度ガリレオの仕事と思想を確認しておきましょう。ガリレオ・ガリレイGalileo Galiei, 1564-1642)はイタリアの数学者、物理学者、天文学者。パトヴァ大学数学教授の後、トスカーナ大公メディチ家)の宮廷数学者・哲学者となります。彼は物体の運動をその物体に内在する性質やその物体が世界のなかで占める場所から切り離して理解した最初の科学者です。物体は数と量によって表され、幾何学的な空間と時間の中で運動します。彼はそれを実験を通じて明らかにし、客観的な数学言語によって表現しました。また、当時発明されたばかりの望遠鏡を改良し、木星の衛星や太陽黒点を発見しました。

落体の法則:一様加速運動で落下する物体が任意の時間で通過する距離の比は時間の二乗の比となる。
慣性の法則の先駆け:「あらゆる障害が取り除かれたときに、ある動体が水平面の上に投げ出されたと想像する。この平面が無限に延びているなら,動体の運動はその上で際限なく均等に続くであろう。」(『論議』1638年)
「ある物質とか物体とかを考えるやいなや、次のようなことを思い浮かべる必要にかられます。すなわち、その物体がしかじかの形態によって境界づけられているかどうか、他の物体と比べて大きいか小さいかどうか、しかじかの場所と時間に存在しているかどうか、動いているか不動のままであるか、他の物体に接触しているかいないか、単独であるか数個であるか多数であるかなどのことです。いかなる想像力を働かせても、物体をこれらの条件から切り離すことはできません。しかし白いか赤いか、苦いか甘いか、音を出すか出さないか、芳香がするか悪臭がするかといった特性は、その物体に必ず伴うものと理解されなければならないとは思えません。それどころか、感覚がその特性に影響されなければ、理性や想像力では決してそれらはとらえられぬでしょう。それゆえ、これらの味や匂いや色彩などは、主体にとっては何ものでもなく、単なる名辞に過ぎず、感覚主体の内にしか存在せず、したがって動物(つまり感覚する人間)の方が取り除かれてしまうと、これらすべての性質は消滅・破壊されてしまうと考えられるのです。」(『偽金鑑識官』1623年)

ガリレオは数学への信頼を『偽金鑑識官』の中で次のように表明している。

哲学は、眼の前にたえず開かれている、この広大な本(私は,宇宙のことを言っている)に書かれているのです。しかし、その本は、もし人がまずその言語を理解し,そこに書かれている文字を解読することを学ばないのであれば、理解されることはありません。その本は数学の言語で書かれており、その文字は三角形、円、その他の幾何学図形であり、これらなしでは、その本のたった一つの語さえも、人間の力で理解されることはありません。(Opere, 6, p.232.)

 さて、このようなガリレオの考えを強烈に批判したのがフッサールです。そこで、「自然の数学化」についての現象学的な一般的批判をまとめてみましょう。
 学問が実証主義的になると、真理は客観的に確定できるものに限られ、そのため「生」が排除されてしまうことになります。生の意味や価値や意図といった内面的なものは、実験や観測では検出できないからです。生を排除してしまった学問は世界の中で生きる人間に対してその生の意味を与えることができなくなります。
 ガリレオは科学から私たちの生を取り去り、そこに新しい科学をつくりました。ガリレオ的科学とは、世界を物質的な事物の秩序に基づいて組み立てることに特色があり、近代科学は最初から私たちの生を排除していたのです。ガリレオによって生を排除された世界が現実の世界だと見做され、「幾何学的、数学的に規定された世界」と「私たちの主体的生が体験する生活世界」が取り違えられたのです。近代科学は生まれながらにして学問の「危機」を胚胎していたのであり、ここに近代科学の「原罪」的性格が指摘できます。
 ガリレオは自然を書物と見なし、「数学の言語」で書かれていると考えます。「書物」としての自然は、数学の言語で規定可能な数量的自然であり、単純に直接的に経験出来る世界とガリレオは考えています。ガリレオにとっての考察対象は「抽象的数学的諸規定に還元された自然」でした。「自然という書物」を数学的文法によって読み解いた成果が、近代科学の中核を占める力学(=機械学)です。そこで前提されているのは、自然界は数学的に提えることが可能であるということです。
 カリレオが数学的文法によって読み解こうしているのは数学の言語で捉えられる自然です。ガリレオは、感覚的に捉えられる世界の多様性は理性的分析によって統一的、総合的な把握が可能であると考えました。そこで前提されていたことは、自然を記述するための最も詳細な方法として、機械的な形、大きさをもった抽象的単位の運動に全てを還元するということであり、自然考察に際して、要素還元主義を採用するということでした。
 自然は,一定の秩序(文法としてのロゴス)に従って構成されており,私たちが数学という言語を片手に一歩一歩解読作業を進めていけば、やがては「真理の王国」に到達できるとされています。ガリレオは「自然は一様であり、 常に同じ仕方で振る舞う」と捉え、「因果性の支配する具体的な宇宙としての無限の自然全体」を「純粋幾何学」によって記述しようとしたのです。しかし、それは生き生きとして豊かで暖味な自然の内で「数学の言語」で扱うことのできる対象のみを研究の対象にするということであり、「自然の理念化された形式のみを抽出すること」に他ならないのです。そこには自然が如何に質的に多様性に富むものであろうとも、一般的な運動法則の形によって捉えられるもののみが、科学的に合理的であるとする理解が優先されているのです。
 自然は、測定され、計算され、全てのものがミクロの構成要素にまで還元されることによって、操作が容易な対象へと変えられたのです。それは自然に対する支配の増大であり、それが自然を感性や内的な繋がりのないものと見なすという傍観者的意識を育んだのです。
 自然を認識するには,自然そのものの的確な測定が不可欠です。そのためにガリレオは物体の性質が「第一性質」と「第二性質」とに区別しました(記述参照)。ガリレオにとっては、大きさ、形状、重さなどユークリッド幾何学によって数量化可能な「第一性質」のみが実在的な自然の構成要素でした。
 ガリレオにとって、自然を純粋幾何学によって捉えることは、自明の事柄でした。フッサールによれば、ガリレオによる「自然の数学化」は、「二重の理念化」によって行われます。第一は「完全性の理想」が理念的な「極限形態」の世界として構想され、量的操作が確立される段階です。測定術における経験的、実用的な客観化の機能が「理念化」され、「純粋幾何学的な思考作業」に転化されることによって幾何学が生まれたのです。第二は物体の感性的性質の「間接的数学化」の段階です。「理念化」を通して、「日常的な生活世界」が「数学的な基底を与えられた理念体の世界」にすり替えられたのです。数学的諸規定に還元された自然が現実に存在し、「厳密な意味で認識されうる普遍的妥当的な唯一のもの」と「取り違えられた」のです。ここで、「生活世界」とは、科学的営為の究極的基盤とされるものです。生活世界とは「あらゆる理念化に際して前提となる現実として直接に与えられているもの」、あるいは私たちの全生活が実際にそこで営まれているところの、現実に直観され、現実に経験され、又経験されうるこの世界のことです。

 このようなガリレオ批判は20世紀中葉までならある程度わかるのですが、現在ではそのままでは通用しません。社会科学、心理学、脳科学などの領域ではコンピューターと数学言語によって飛躍的に知見が増え、心の内側が次第に明らかにされつつあります。感覚、信念、欲求、意識などは着実にわかり出しています。それらを挙げるまでもなく、手元にある「紫」という色感覚とその表現についてみてみれば、第一性質や第二性質という区別が便宜的、暫定的なものであることが誰にもすぐわかる筈です。

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京紫

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江戸紫

 万葉集の時代から古今集時代にかけて紫が染料名から色彩語へと転化していく過程がありました。紫が色彩語としての地歩を確立する上で和歌が果たした役割は予想以上に大きく、『古今集』では色彩語としてまだまだ発展途上の段階にあった紫ですが、次第に藤や菊などとの結びつきを深め、色彩語として次第に確立されていきました。
 ヨーロッパでの天然染料は貝紫が主でしたが、日本では紫草の根が染料となっており、『紫』という名もこれが語源です。その名前も群生植物であったことから『群(むら)』と『咲き』の二つが合わさったものです。
 日本では平安時代にもっとも人々から愛され、色の濃さによって「藤」、「桔梗」、「菖蒲」など、花の名前から多くの色名が生まれました。自然界では生命とかかわる紫との原初体験は、やはり肉体の色の変化です。打ち身の際に現れる紫斑や死体に現れる死斑。どちらも同じ色で、同じ音です。いかにも不安定で、両義的な意義のある紫ですが、もともと紫は赤と青の中間あたりの色であり、死や寒色である青の意味と再生や暖色である赤の意味と、両方を持つ不思議な得体のしれない曖昧な色でした。
 歴史的には冠位十二階以外にはさほど重要そうな歴史を感じない色ですが、その昔紫は珍重され、古代中国と律令時代の日本、さらには地中海のフェニキアなどでは高位を示す色とされていました。さらに中世ではローマ教皇枢機卿の衣服の色でした。
 古代紫(こだいむらさき)は僅かに赤みを帯びた、くすんだ紫色のことです。紫草という多年草の根による紫根染めで染められていて、江戸時代に流行した青みを帯びた派手な紫が「今紫」と呼ばれたのに対して付けられた色名です。「京紫」と同じとする説もありますが、一般的に京紫はもう少し鮮やかな色になります。東京の武蔵野に自生していた紫草で染められた紫が「江戸紫」で、紫の本場と考えられるようになり、江戸っ子の自慢の色になりました。江戸紫は青色の強い紫で力強い活気を表してます。京紫は実用性を暗示する青色を避けて優雅さを尊ぶ、紅みの強い紫色です。
 この紫草は日本の絶滅危惧植物50種の中に入るほど貴重な植物です。ちなみに紫草は白い花を咲かせます。こんな「紫」は第一性質と第二性質とを共に含んだ色です。