花を愛でることと花を知ること:ABCモデルとその活用

 花を愛でることが人の生活に何を与えてきたか、それを解明することはきっと壮大な文化史の構築に寄与することになるだろう。花を愛でることから、花を観察することへシフトし、そこからさらに愛でることに再シフトする、そのことの繰り返しによって、膨大な花の博物学が編まれ続け、私もそのわずかな一部を利用して記事を書いている。その一方、「花は何か」についての知識に関心をもつ人は決して多くない。酒を楽しむ人は多くても、酒の本性を研究する人が少ないのと同じである。だが、それは気に病むほどのことではない。花を愛で、花を知り、また愛で直し、さらに深く知る、その飽くことなき繰り返しが花と私たちの文化進化なのである。
 美しい花をバラバラにしてしまうのは残酷この上ないが、そこは泣く泣く腑分けしてみると、花の種類によって花弁(花びら)、雄しべ、 雌しべの数や形が様々であることに驚く筈である。だが、一見多様に見える花の形には一つの決まった基本構造が存在している。それは、花の外側から内側に向かって、がく、花弁、雄しべ、 雌しべがあるという順序である。この順序の構造は、 A、B、Cという3種類の遺伝子によって決められていて、その仕組みは「ABCモデル」と呼ばれている。花の外側から順に、A遺伝子だけが働く場所にはがくが、A遺伝子とB遺伝子が働く場所には花弁が、B遺伝子とC遺伝子が働く場所には雄しべが、そして、C遺伝子だけが働く場所には雌しべができる。物事の基本を表す言葉として「いろは」とか「ABC」とか言うが、このモデルは、正に「花の形のABC」である。
 では、八重の花はどうやってできるのか。突然変異によってC遺伝子の働きが弱くなると、それを補うようにA遺伝子が雄しべのできる場所まで働くようになる。すると、雄しべが花弁になって八重の花ができる。このように、ABCモデルは花の構造のなりたちを説明する優れた説だが、それでも人の手によって長年品種改良されてきた園芸植物には、ABCモデルだけでは説明が困難な形の花がたくさんある。
 花の人工的な改良には色々な方法がある。一つは従来の品種に特殊な方法で染色液を吸わせ、今までになかった色の花を作るという方法である。もう一つは、後づけの着色でなく、色と柄などを遺伝子操作して新しい種を作る方法。バイオ操作のときに決め手となるのは酵素酵素の働きは遺伝子によってコントロールされているので、遺伝子の働きをコントロールすることにより花の色を変えることができる。たくさんある花の色の中でも濃いブルーは珍重されていた。一般的に流通しているバラもカーネーションも自然の青色は存在しないし、ガーベラや菊もそうである。最近の品種改良の中で注目されているのがトルコキキョウ。現在トルコキキョウの8割以上は八重咲き種である。一重咲きのトルコキキョウは花が開くと、そのまま萎れる傾向が強い。トルコキキョウを切り花で長持ちさせたいという願いから生まれたのが八重咲き種である。
 遺伝子がこれまでと異なった働きをしたり、機能不全になると変異型と呼ばれる。遺伝子の働きの研究は、ある遺伝子が機能不全に陥ってできた変異体から始めるので、遺伝子の名前と働きは逆の意味になることがよくある。例えば、目を作る遺伝子の名前はアイレス遺伝子。キンギョソウの花を咲かせる遺伝子の名前はリーフィ(葉)。リーフィ遺伝子が働かないと花は葉のようになってしまう。量で表すものは遺伝子の数に関係するが、花ができるかできないなどの性質に関わるものは一つの遺伝子であることがある。花の遺伝子もその一つ。一つの遺伝子のはたらきが欠けただけで、ある性質や形がまったく違ってしまうこともある。花の形を決める遺伝子の研究は1990年ごろから始まった。まず、1970年頃から、シロイヌナズナの研究が盛んに行われ、モデル植物(ショウジョウバエ大腸菌はモデル動物)となった。シロイヌナズナのようなモデル植物の研究をしていると情報を共有して研究できる利点がある。イネはシロイヌナズナの次に人気のモデル植物である。
 花は植物にとって子孫を残すための生殖器官。「花」というと花びらが連想されるのだが、一般的な植物では、ガク片、花弁(花びら)、雄しべ、雌しべからなる構造を指している。雄しべや雌しべの中で減数分裂が起き、配偶子が形成される。動物の精子と卵に対応しているのが、花粉に形成される精核と胚珠内の胚のうに形成される卵細胞である。シダやコケ植物なども、次代に遺伝情報を伝えるために配偶子を形成する。だが、花という生殖器官を発達させたのは、裸子植物被子植物だけである。これらの植物では配偶子同士が効率よく出会い、確実に受精を行うために、花という特別な構造を進化させた。裸子植物では花弁のない地味な花であったが、被子植物の花は花粉を媒介する昆虫とともに多様に共進化してきた。
 ところで、花は進化の過程で新たに突然出現した器官ではない。花の各器官は葉が変形したものなのである。この考え方を最初に提唱したのは、詩人であり文学者であり、何より(アマチュア)科学研究者だったゲーテである。自然科学にも造詣の深かったゲーテは,1790年『植物変態論』を著し,この考えを述べている。植物学における花の形態進化の研究の根底にはゲーテのこの考えが流れている。1990年代に入り、植物の分野でも遺伝子の働きから形態形成を解明する分子発生遺伝学が発展してきた。その中で、花の発生を説明するABCモデルが遺伝学的に提案され、分子生物学的研究によりそれが確証されてきた。このモデルは既に説明したように、A、B、Cの3つのクラスに分類される遺伝子の組み合わせによって、ガク片、花弁、雄しべ、雌しべが決定されるというもの。簡潔で美しいモデルとして、植物発生学の中では際だっている。さて,このA、B、Cの3つの遺伝子を同時に機能喪失させると、どうなるか。すべての花器官がほぼ葉に変わってしまった。これら3種の遺伝子がなければ、花は葉へと先祖返りしてしまう。ゲーテからほぼ200年経って、彼の提唱したアイデアがこのモデルを使って証明されたことになる。