越後高田の「第一義」:流れ、淀むその意味(1)

(要約)
 高田高校の校是「第一義」の意味を探る旅は、「校是は第一義である」は言葉の誤用であることからスタートする。まず、なぜそのようなミスが生じたか、本当にミスなのかを見定めるために、『景徳傳燈録』と『碧巌録』に立ち戻る。そこでの「第一義」は特別な意味をもつものではなく、仏教の究極の原理を指す名辞に過ぎなかった。達磨不識の問答は上杉謙信と林泉寺の和尚益翁宗謙の間でも繰り返され、それに強く反応した謙信は「不識庵謙信」と名乗り、遂には真言宗の法体となる。
 江戸期に入り、謙信は義の人と賞賛され、儒学朱子学の普及の中で認められ、それが米沢藩の「義」を支えることになる。この「義」は「第一義」とは似て非なるものなのだが、字面の類似が校是の様々な恣意的解釈の泉源になってきた。
 肝心なことは、越後高田には会津、そして米沢に移った上杉家の遺品は春日山城跡と林泉寺くらいしか残っていなかったことである。上杉景勝豊臣秀吉の命を受けて会津120万石に加増移封されたが、この時秀吉は景勝に対し、上杉家中の侍は中間・小者に至るまで1人も残さず召し連れ、年貢を負担する百姓はすべて残せという朱印状を出している。その結果、唯一の遺品が林泉寺山門の謙信自筆の扁額だった。仏舎利、聖衣、さらには往年のスターの遺品と同じような意味で扁額は唯一の遺品として取り扱われることになった。鈴木卓苗(たくみょう)第9代校長が校是にした理由は謙信唯一の遺品で、しかもその扁額の文字が「第一義」で、彼の禅の素養、哲学の知識と偶然にも符合したからに違いない。もし山門の扁額の文字が「第一義」ではなく、「不識」だったとしたら、「唯一の宝物林泉寺山門の大額に跡をとどむる不識をそのまま採って以て本校の修養目標と定め」たに違いない。「不識」であれば、ソクラテスの「無知の知」と通じるところがあり、校是とすれば頗る好都合だったのではないか。だが、残念なことに扁額の文字は「第一義」だった。こうして、禅問答を下敷きにした校是が誕生するのだが、それは「もの」である扁額の文字の内容不定の理念化(反物象化)である。校是は意図的な言葉のレベルの踏み外しという禅問答の常套手段を使った頓智のようなものだったため、その被害を受け続けたのが生徒であり、市民だった。途方に暮れた人々は、多くの場合「義」の断片を「第一義」にすり替え、恣意的な解釈を生み出し、越後高田独自の方言とも言える名辞「第一義」に市民権を与え、それを操る文化を生み出したのである。

(論理・言語的議論)
 ギリシャデモクリトスの原子論と釈迦の仏教を例に論理・言語的な分析から始めよう。それぞれ世界の根本に関する哲学的、宗教的な主張である。基本的な主張は第一原理、基本法則、奥義など様々に呼ばれるが、「第一義」もそのような呼び名の一つである。端的にthe first principleと訳すことができるのが第一義である。だから、

原子論の第一義は「すべてのものは原子からできている」である。
仏教の第一義は「すべてのものは変化し、止まることがない」である。

「原子」をそのまま使った「原子論」はそれだけで何を主張しているかがわかり、仏教の第一義も「諸行無常」などと言い換えられてわかりやすい謂い回しで基本的な主張がまとめられている。
 さて、「第一義」と「諸行無常」を比べると、二つの名辞がレベルの異なるものを指していることがわかる。「仏教の第一義、すなわち諸行無常」という表現は、「校長の名前、すなわち鈴木卓苗」という表現と同じ形をしている。「第一義」と「名前」は違う単語だが、二つの句の中の役割は同じである。「第一義」や「名前」のような名詞は抽象度が高く、そのような名辞はそれだけでは何を指すかわからず、「何かの第一義」、「誰かの名前」という仕方で補足しないと何を指すか定まらないのである。だから、「校是の第一義」が、例えば善であるのは構わないのだが、「校是が第一義」は言葉の誤用でしかない。
 ここまでの話なら小賢しい小学生でもわかることで、流石にこのような単純な言葉の誤用が校是についてそのまま通用してきたことなどあり得ないというのが大人の常識的判断で、笑止千万ということになるだろう。慎重で小心な向きは、きっと隠された理由や原因、経緯が歴史の中に埋もれている筈だと推測するだろう。

(校是と校訓)
 校是は、学校設立の根本精神を表す短い言葉(標語)のことで、校訓とは違い、学校設立時のもの。これで校訓と校是の違いがわかる訳ではないが、建学の出発点が校是、教育目標が校訓と考えておけばよいのではないか。具体例として早稲田実業を考えてみよう。早実の校是は「去華就実」、校訓は「三敬主義」。「去華就実」とは、「華やかなものを去り、実に就く」こと。これは「実業」の精神を育てることであり、正に建学の精神そのもの。「三敬主義」は、天野為之(早稲田実業学校第二代校長・早稲田大学第二代学長)が唱えたもので、「他を敬し、己を敬し、事物を敬す」という主張。「敬の気持ちをもって他人に対すれば礼となって和の徳を生じ、己に対すれば自重自立となる。また机上の雑務から一国の政治まで、すべて敬をもって扱えば、事物はその性能を発揮して久しく耐え得る」という意味を持っていて、これが教育目標である。早実の校是、校訓はとてもわかりやすい。
 私学であればこそ校是や校訓が役に立ち、生徒を惹きつけるのだが、これが公立となるとどうだろうか。建学の精神も教育目標も独自のものではなく、国策に従ってつくられるのが公立であるから、自由に独自の校是や校訓がつくられることは滅多にない。高田高校は藩校「脩道館」を母胎にし、校是が「第一義」、校訓が「質実剛健堅忍不抜、自主自律」である。校是と校訓の間には何の関連もなく、校訓は戦前の決まり文句が並んでいる。公立校にとっての校是、校訓は私学と同じように比べることはできない。端折って結論すれば、大して重要ではなく、時代に合わせてスローガンを変えればいいのである。だから、今の校是や校訓とは別に教育目標を定めればよく、実際そのような目標が立てられている(学力の向上を図り、聡明な知性を陶冶する。気力と体力を鍛え、豊かな人間性や社会性を涵養する。高い志と品性を培い、国際社会に貢献する人材を育成する。)
 だが、「なぜこうも校是がわからないのか」という疑問は厳然と残ったままなのである。

(1)「第一義」の由来:達磨不識のテキスト
 「第一義」の由来となるテキストは以下の二つであり、そこに述べられた禅問答に「第一義」が登場する。
 『景徳傳燈録』(全30巻)は、北宋時代に道原によって編纂され、多くの禅僧の伝記を収録している。普通元(520)年、達磨は海を渡って中国へ布教に来る。当時中国は南北朝に分かれ、南朝は梁が治めていた。『景德傳燈録』第三巻には次のようにある。

帝問曰 朕即位已來 造寺寫經度僧不可勝紀 有何功德
師曰 並無功德
帝曰 何以無功德
師曰 此但人天小果有漏之因 如影隨形雖有非實
帝曰 如何是真功德
答曰 淨智妙圓體自空寂 如是功德不以世求
帝又問 如何是聖諦第一義
師曰 廓然無聖
帝曰 對朕者誰
師曰 不識
帝不領悟
師知機不契 

(梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た達磨に質問をする。)
帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れないほどである)。何の功徳有りや」
師曰く「並びに功徳無し」
帝曰く「何を以て功徳無しや」
師曰く「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如く有と雖も実には非ず」
帝曰く「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」
帝又問う「如何が是れ聖諦の第一義なるや」
師曰く「廓然(がらんとして)無聖なり」
帝曰く「朕に対する者は誰ぞ」
師曰く「識らず(認識できぬ…空だから)」
帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り

『碧巌録』
 日本で最もよく読まれる禅の公案集は『碧巌録」と『無門関』。『碧巌録』の著者は雪竇重顕と圜悟克勤の二人の禅僧。雲門派の禅僧雪竇重顕は上記の『景徳伝灯録』などから、 古来の禅者の言行録100種を抜き出し『雪竇頌古百則』を作り、『碧巌録』はそれをもとに12世紀の初めに現在の形に成った。室町時代には日本の五山の禅僧達は『碧巌録』を禅の最良の教科書として愛読したと言われる。
第一則 達磨廓然無聖
本則
梁の武帝達磨大師に問う、「如何なるかこれ聖諦第一義」
磨云く、「廓然無聖(かくねんむしょう)」
帝云く、「朕に対する者は誰ぞ?」
磨云く、「識らず」
帝、契わず、達磨ついに江を渡って魏に至る。
(以下略)
梁の武帝達磨大師に聞いた、「仏法の第一義はどのようなものですか?」
達磨は言った、「からりと晴れ渡った青空のように「聖」も何も無いわい」
武帝は言った、「朕に向かいそのようなことを言っているお前は一体何者だ?」
達磨は言った、「そんなことは識(し)らん」
武帝は達磨の心を理解できなかった。達磨はついに江を渡って魏に去った。
(以下略)
 二つのテキストほぼ同じ内容であり、いずれでも「第一義」はなんら特別の語彙ではなく、仏教の基本原理、根本原理のことである。「不識」も二つのテキストで同じである。

(2)上杉謙信と林泉寺の和尚益翁宗謙の達磨不識の問答
 時代は下り、上杉謙信と林泉寺の和尚益翁宗謙が上述の「不識」という表現について問答を行う。和尚は、「達磨が「不識」といった意味は何か」と謙信に尋ねる。だが、謙信はこの難問に答えられず、それ以来、謙信は「不識」の意味を考え続け、あるときはたと気づき、直ちに和尚のもとに参じた。だが、何をどのように気づいたかは定かではない。
 梁の武帝は仏を利用して自分の存在をアピールしたが、謙信に武帝のような権力者になってほしくない、民あっての為政者であることを肝に銘じて、謙虚な心を忘れてほしくない、と和尚は考えたと言われている。この和尚の考えが不識とどのように関連しているのか、私にはわからない。とはいえ、その和尚の心を知った謙信は、林泉寺に山門を建立した際、「第一義」と大書して刻んだ大額を掲げた。
 禅問答を茶化す気は毛頭ないが、クイズと紙一重のところがあり、しかも言葉による説明が少なく、現代から見ればそれが魅力的な欠点。「海にいるシカは何か」と問われ、「アシカ」と答えるようなところがある。確かに戦国武将の嗜みの一つが禅で、謙信はとても熱心だった。
 「第一義」と呼ばれる釈迦の万物の真理は「世界は諸行無常、万物流転である」ことである。この原理は、どのように無常、流転なのかを説明しないで、問答無用に無常、流転を主張するだけで、現在の科学的な原理とはまるで違い、ヘラクレイトスの哲学に似ていないこともない。要はこの原理の下で人生を正しく考えるということなのだろうが、「人は死ぬ」と言っても誰もそれを原理、法則とは言わない。人は死ぬ原因や寿命についての原理を追求するのであって、人が死ぬのは単なる事実に過ぎない。
 さて、謙信が考え抜いてわかったことを推測すれば、「第一義」が問われた状況での達磨の「為政者はどうあるべきか」に対する考えだったのではないか。彼は「第一義」の使われた状況全体の意義、「第一義」のプラグマティックスを理解したのではないか。したがって、彼が問答から悟ったのは「第一義=根本原理」の内容ではなく、それを聞いた武帝の態度に対する達磨の反応だった。そして、為政者としての心構えが和尚の問いへの答えだった。随分と都合よく脚色された解釈だが、幾つもの保留をつけなければ、納得できるものとは程遠い。
 その後、熱心な仏教徒として謙信は世界の根本原理という意味での第一義を釈迦の教えと理解し、そのもとで為政者、武将として生きることになった。禅問答で「第一義」に出会い、その語が使われた状況で達磨が言わんとしたこと(為政者の心得)、「第一義」の仏教におけるセマンティックス、これら二つが混在する中で、謙信は二つを自らの内でまとめたのではないか。そこから、真摯な為政者=仏教徒として生きることが謙信にとっての第一義の実践となったと推測できる。だが、これもあくまで都合のよい推測に過ぎない。