上杉の「義」

 「第一義」、「義」、「義理」はよく似ていて、意図的に混同される場合がよくあります。意図的ならいいのですが、無意識に混同されている場合も相当にあります。この無意識の混同は習慣として継承されてきたもので、それゆえその矯正は意外に厄介です。
 習慣的な混同の典型的な例を挙げると、次のようなものがあります。「山鳥毛を購入しようとする「第一義」はなにか。第一義は、義理人情に篤いという意味ではなく、根本的な意義、価値をいい、大義といってもよい。謙信は「その行為には大義はあるか」という意味で「第一義」と掲げていた。」この例の中では、謙信の第一義は大義のことであり、義理人情の義理ではないという使われ方をしています。冷静にならなくても、このような表現が誤っていることは自明なのですが、この誤りが習慣、伝統、常識になってしまい、(気障な表現ですが、特に越後高田では)共同幻想化しているようなのです。
 上杉謙信に関する記述の多くは、「義」について「儒教の「仁・義・礼・智・信」の「義」であり、それは「利」の対局にあるもの」としています。義は、人間の正しい行動について言われ、義の人とは正義を守る人のことです。大名にとっての「義」とは、「攻める正当な理由」という意味で、「大義名分」とも言えます。確かに、上杉謙信は「大義名分」にこだわる武将でした。
 謙信は信濃北部を確保する必要がありました。信濃の国境から彼の本拠地、春日山城まで十数kmしかないのです。本拠地を移せないのは、春日山城下の直江津が彼の大事な収入源だったからです。そこで本拠地を守るために信濃に攻め込む必要があったのですが、彼は武田家に追いやられて逃げてきた信濃の人々を使いました。地元の人々をもとの領地に戻す、というのは立派に「大義名分」になりますし、彼らは領地を取り戻すために必死に戦います。一方、敵の武田信玄は足利将軍の任命で「信濃守護」になり、信濃国内の敵を追い払う正当な権利、つまり「大義名分」をもちました。謙信の長尾家は単なる守護代の家柄で、武田家の守護の家柄の方が格上で、このまま戦っても「大義名分」がありません。謙信は上洛して直接足利将軍に会い、「信濃に口を出す権利」を認められ、さらに守護より格上の「関東管領」になったのです。
 信濃の大部分は武田家の領国として守りが堅く、謙信は関東管領という新たな「大義名分」をもとに関東に攻め込み、領土を増やしました。南関東の北条家も強く、今度は織田信長に虐げられている足利将軍を守るという「大義名分」を得て、北陸道を西に、領土を拡大し、今の石川県の半分くらいを手にしたところで謙信の寿命は尽きました。
 「義」とは「利が無くても正しい行いをする」ことであっても、大名にとっては義と利は行動の両輪で、片方だけでは行動できなかったのです。
 「義」という言葉は古代中国から使われてきました。孔子は「義を見てせざるは勇なきなり」と述べました。「人が道として当然しなければならないことを知りながら、それを実行しないのは勇気がない」という意味です。孟子は「仁は人の心、義は人の道」と説きました。江戸時代になって武士道が確立され、「義」が武士の行動規範にされると、さまざまな著述に「義」の定義が登場します。戦国時代は家臣が主君を追い落とす下克上や裏切りが当たり前の時代です。領地と領民、家臣の暮らしを守り、利益を与えられる強い大名、武将が、人心を集めていました。「義」の精神を掲げる武将などほとんどおらず、人々の心に「義」の大切さが積極的に伝えられるようになったのは江戸時代に入ってからなのです。
 弱肉強食の戦国時代、謙信は他の戦国大名と比べると、確かに変わり者でした。織田信長武田信玄は同盟を結んでいても、敵対すれば容赦なく攻めかかりました。暗殺やだまし討ちという手段を躊躇いなく取りました。でも、謙信はそのような手段を取りません。出兵は大義名分にこだわり、有利な状況というだけで敵に攻め込もうとはしませんでした。一度取り交わした約束事を決して破らない「義理堅さ」を持ち合わせていました。
 でも、関東や信濃への出兵はほとんど徒労に終わり、兵士の損出を重ねただけになります。関東と信濃は北条、武田の勢力範囲になっていき、徒労に終わる出兵が家臣に重い負担を強います。その結果、有力武将や越後の豪族の反乱に生涯、悩まされました。ライバルの信玄が人の心をつかむことを最優先し、家中の団結を維持したのとは好対照です。
 上杉家は関ケ原の合戦のあと、徳川家康に臣従し、会津120万石の領地を米沢30万石に減封されました。さらに、景勝から3代目に当たる上杉綱勝が1664(寛文4)年、後継ぎのないまま死亡すると、15万石に半減させられます。米沢転封以来、財政は逼迫します。これに対し、ライバル武田家は既に滅亡しているにもかかわらず、家康が野戦で敗れた唯一の相手として幕府から高く評価され、甲州流軍学がもてはやされていました。そんな折に、定着し始めたのが儒教に基づく「義」の思想でした。信玄との川中島での激闘は講談などで語られ、広く知られるようになっていきました。その中で、謙信の義理堅さが次第に評価を高めていき、上杉家も謙信の「義」を積極的に継承していきます。
(「義理人情」も江戸時代に広まる行動パターンですが、それが「義」と相俟って上杉藩の中で醸成されたように思われます。)
 その継承の結果の一つが藩校「興譲館」の教育方針に表れています。細井平洲と上杉鷹山は学問を興すことによって目指す基本が「譲るを興す」ことにあると考えました。細井平洲は人間にとって最も大切なことは「譲る」、つまり「相手を思いやる」ことであると説いています。人と人との交わりにあっては、この思い上がりの気持ちをなくして譲り合う気持ちをもてば、お互いの心が通じ合い、物事もうまく運ぶと考えたのです。
 高田高校と米沢興譲館高校の違いは謙信の思想の二つの側面を表現しているのかも知れませんが、「興譲の精神」を第一義としたのが興譲館高校と言ったのでは、越後高田の人々は「では、高田高校の第一義は何か」と改めて問い直すことになります。