時間の変化(2)

時空の哲学的議論-これまでの要約
 日常生活での時空概念は多くの常識からなっている。時間や空間の常識には次のようなものが挙げられる。

空間は実は何もなく、ものが占めている部分しかない(void, pneuma)。
時間は流れる(flow)。
過去、現在、未来がある(past, present, future)。
空間と時間は別のものである(space and time, space-time, spacetime)。
「いま」や「ここ」はいつでもどこでも同じ「いま」、「ここ」である(now, here)。
瞬間や区間がある(instant, interval)。

 このような常識的表現は際限なく列挙できる。これらの言明の中でどれが信頼できるもので、どれが信頼できないものなのか。そして、その区別の根拠は何なのか。
 常識はかつて新しい考えとして登場してきたものだった。だから、多くの常識は歴史をもち、古い常識、新しい常識といった区別が背後にある。特に、私たちが日常生活で必要とするような概念は常識をつくり上げる要素として長い歴史的変遷を経てきたものばかりである。そして、時間や空間はそのような概念の代表である。
 このような常識に取り囲まれた時間や空間を考え直す常套手段は、ギリシャ哲学に始まる知的な探求の中での時間、空間の捉え方から話を始めることである。ギリシャの哲学的探求はプラトンアリストテレスによって集大成されるが、その集大成は過去の遺産を正しくまとめたものとは言えない。彼らが隠してしまった問題、解決したと考えた問題はその適切な処理を今でも待っている。また、自然科学では、変化をどのように理解し、表象するかが追求され続けてきた。自然科学はつまるところ変化の表象と理解なのである。

(問)プラトンアリストテレスの誤った理論を挙げ、それまでの理論、その後の理論と比較してみよ。特に、変化、時間、空間、原子論について考えてみよ。

 まず、次のような論証を考えてみよう。それは「保存性」から変化の否定を導出する論証である。

A. 変化があれば、以前になかった、新しいものが存在するようになる。
B. あるものが以前に存在しなかったなら、それは無である。
C. だから、変化があれば、新しいものが無から存在するようになる。
D. だが、無から新しいものが存在するようになることはない。
E. それゆえ、変化はない。

 保存性からの変化の問題が重要なのは、保存性という概念を明らかにし、変化の本性に隠された「新しい-古い」の間の緊張をさらけ出すからである。類似の論証が矛盾概念を使ってできる。

A. ものがある性質からそれと矛盾する性質へと変化するなら、そのものはいずれか一つの性質、または両方の性質をもつか、あるいはいずれの性質ももたないかである。
B. そのような変化するものは正確に一つの性質をもたない。というのも、その性質をもてば変化の前にもっていたか、変化の後でもつかだからである。
C. そのような変化するものは両方の性質をもたない。というのも、それらは対立する性質だからである。
D. そのような変化するものはいずれの性質ももたないことはない。というのも、それら性質は矛盾し、相互に余すところのないものだからである。
E. それゆえ、ものがある性質からそれと矛盾する性質へと変化することはない。

 哲学者が変化や生成の過程についての精密な理論をつくろうとすると、どの性質も適用できないときの「溝」、いずれの性質も適用できるときの「重複」に直面する。上の論証は溝も重複も不可能であることを主張している。このような変化に関するパラドクスはどのように回避できるのだろうか。ここで原子論の形而上学を思い出してみよう。その特徴は次のようなものだった。

1. 原子と真空:変化しない原子と変化しない真空が存在する。両方とも永遠で、それらだけが存在する。
2. 運動:変化は真空中の原子の運動であり、原子の再配列である。
3. 結合:原子は互いに結びつくことができ、凝集して安定したマクロな物体をつくる。

 原子論は変化のパラドクスを別のパラドクスに巧みに置き換える。変化の問題を解く代わりに、変化するものがないと主張する。では、アリストテレスの場合はどうだったろうか。その形而上学の特徴は次のようなものだった。

1. 実体と性質:基本的事物は具体的な物体であり、それらは日常生活で目にするものである。それらは「合理的」とか「4本足である」といった性質をもっている。
2. 現実態と可能態:現実の性質に加えて、実体はその「内側に」可能的な性質をもっている。この可能的な性質が現実的になるとき変化が起こる。緑の葉は赤色を可能性としてもっており、それが秋に現実的になったとき紅葉する。
3. 充満:すべての実体は他の実体によって取り囲まれ、間隙はない。何も含まない空間はない。すべては実体によって満たされている。
(実体:事物の性質を担うもの)

 アリストテレスは変化が起こることは自明なことだと考え、そこから何が得られるかを考察した。だから、変化が起こる時の矛盾を避けるために可能的な性質が存在しなければならないと考えた。アリストテレスは実体が私たちの周辺にある常識的なものだと述べたが、実体という概念は現実態と可能態を統合するものとして、常識的なものではない。実体概念は変化の問題を解決するために導入されている。それと同様の工夫をゼノンの二分法のパラドクスを例に見てみよう。

A. 走者がある距離の最終点に到達するなら、その中間の点を通らなければならない。
B. 走者が中間点を通るなら、その中間点のさらに中間点を通らなければならない。
C. だから、走者が最終点に到達するなら、走者は無限に多くの点を通過しなければならない。
D. だが、無限に多くの点を通過することは不可能である。
E. それゆえ、走者はその距離の最終点に到達することはできない。

 ゼノンの結論が誤っていることが問題なのではなく、その結論がなぜ誤っているかについての一致した見解がないことが問題なのである。アリストテレスによる標準的な対処法は無限の存在を否定することだった。彼は変化の問題を可能態と現実態の区別で回避したが、同じように無限の問題もその存在を否定することで回避した。(変化は明らかに存在するが、無限は存在しないという形で回避した。)実無限はない。だから、パラドクスもない。だが、可無限はある。(以後の無限の扱いを注意して調べてみよう。)
 このアリストテレスの対処法はますますゼノンのパラドクスを謎深いものにする。一と多の問題は、一つのものであり、かつ多くのものであることは矛盾している、という問題である。最初の答えは、ある点で一つのものであり、他の点で多のものであるというものである。この単純な答えは問題を掘り下げただけである。一つのものが多くの点を含み、なお一つであるのはどのようにしてなのか。ゼノンのパラドクスは一と多の問題の例示と解釈できる。多くのものが一つに統合されるなら、そこには関係が働いている。
 実在的な関係を受け入れることは一と多の問題を関係の構造についての問題と見ることであり、ゼノンの多数性についての追求の意味を明らかにしてくれる。彼のパラドクスが一と多の緊張を顕にする方法なら、関係についての新しい実在論につながっている。そこで空間的、時間的関係についての理論が重要となってくる。

(問)原子論とアリストテレス形而上学を比較し、変化の扱いの違いを述べよ。