水を切る:繰り言

 「水切り」には色んな意味があります。水面にに向かって石を投げて、水面で石を跳ねさせる遊びを子供なら最初に思い起こすでしょう。主婦なら、食べ物や食器についた水分を落とすことだと言う筈です。また、切花が長持ちするように植物の茎や根を水中で切ることも水切りです。さらに、果実を栽培していれば、糖度を高めるために収穫前に灌水を行なわないことが水切りです。そんな意味の中で、最も単純なのが「水の切断」そのものです。
 水はものを切断するのにとても適していて、途方もない切断能力をもっています。でも、水は自らを切断することは旨くできるのでしょうか。こんな問いを出すと、禅問答のようだと反応するのが日本人です。デデキントの「切断」による実数の定義とは途轍もない落差を感じてしまうのですが、この落差は一体何なのでしょうか。
 禅宗の「公案」の起源は不明ですが、「公案」は一種の問題であり、これを修行者に解かせ、禅の真理に導くための方便です。夏目漱石は神経衰弱のため円覚寺の釈宗演老師に参じましたが、それは彼の作品『門』に詳細に描かれています。その中で漱石に与えられた公案が「本来の面目」というもので、「父母未生以前、本来の面目とは何か」。つまり、両親が生まれる前の自分の「本来の自己」を見つけろという公案でした。これを契機に、漱石は「則天去私」という思想に到達します。
 さて、水について、次のような老子の有名な文章があります。

上善は水の若(ごと)し。水は善(よ)く万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る、故に道に幾(ちか)し。
(最高の善は水のようなものである。水は、あらゆるものに恵みを与え、争うことがなく、誰もが厭だと思う低いところに落ち着く。だから人の道に近いのである。)

非常にわかりやすい喩えになっていると多くの人が感じます。水は様々な利益を私たちに与えてくれます。さらに、川を流れる水はしなやかに流れていきます。そして、人の嫌がる低い場所(低地や湿地)に流れ込みます。水のこのような振舞いを人間に当てはめるなら、争いを好まない謙虚で善良な聖人の姿に重なります。
 孔子も「水(川)から学べ」と言っていますが、老子孔子とでは川のとらえ方が異なります。儒家は、川の流れがとうとうとして尽きることがないことから、水(川)を「絶えざる努力の象徴」と捉えました。
 「水」は馴染の単語ですが、「水は何か」と改めて(気取って)問うと、ターレス以来答えにくいものです。でも、これまで述べてきたように、知恵や頓智は随分と重宝されてきたものです。知恵や頓智は具体的な道具、装置をつくり出せないにもかかわらず、有難いと感じる人が多かったのです。尊敬されるのは聖職者で、技術者ではありませんでした。そして、そのような知恵や頓智の最たるものが哲学や宗教だと多くの人が思っています。それが少し向きを変えると、比喩、喩え、レトリック、物語、教訓などとなるものですから、人生には大いに役立つのだと思う人が今でも多いのです。「水を知る」ことと「水を使う」ことの間の差は意味深で、味わい深いものです。禅の公案も、孔子老子の教えも「水を使う」点で優れているのであって、水を知る役には立ちません。それで水が何かがわかる訳ではないので、何かをつくることにはつながりません。喩えれば、知恵や頓智で病気は治らないのですが、病気への心構えや対処はできるのです。
 人生不可解と大抵の人が思っても、大抵の人はそれでも生きるものです。ミクロな世界が不可解でも、人は世界を知ることができると確信して疑いません。料理と食材の違いは何か考えてみると、料理を作る、楽しむ知識は明らかに食材についての知識とは違うものをもっています。ですから、食材と料理の間を埋めるインターフェイスが必要だと考えられ、それが科学と文化のインターフェイスの具体例だなどと言われるのです。なんだか辻褄合わせの嘘にしか響きません。
 こんな繰り言をまとめれば、私たちは多様な知識に取り囲まれ、知識を使って知識を解釈し、「わからない」ことに敏感に反応しながら、ひとつづつ克服していくしかないのでしょう。