同じ二つのボールがあるときに、なぜそれら二つを見分けることができるのか

 タイトルの問いは禅問答のような問いですが、二つの同じものを見分けることができる理由は何なのでしょうか。哲学史に詳しい人ならライプニッツの「不可識別者同一の原理」を思い起こすかも知れません。不可識別者同一の原理とは「任意のxとyについて、xのもつ全ての性質をyがもち、かつyのもつ全ての性質をxがもつならば、xとyは同一である」という原理です。
 かつてM.ブラックがこの原理に対する反例を出したことがあります。それは、全ての性質において同じであるにも関わらず、数的に異なる二つのものがあるという反例でした。二つのボールのみがある宇宙を想定してみます。この二つは、色、形、大きさなど全ての内的な性質が同じです。さらに、自分以外のものに対する関係的、外的な性質も同じです。二つのものしか存在しない対称的な宇宙の中では、一方が他方の1km先にあるという関係が成り立つとしたら、その逆も成り立ちます。
 素直に成程と思ってはなりません。奇妙なことに、「識別できる」ことを確認する作業は、ブラックの反例のどこにもありません。二つのボールしかない世界で一体どのように識別を実行できるのでしょうか。ブラックの反例が反例であるためには、二つのボールを識別する第三者がいて、識別が不可能でも二つのボールがあると判定できなければなりません。すると、例えば「二つの同じ性質をもつボールが(ニュートンの)空間にあって(それを外から見るなら)二つに見分けられる」ということになり、反例ではなくなります。
 また、「区別のできないものは同一のものである」という原理の主張は、
・識別できないものは全く同じ作用を他に及ぼす、
・識別できないものは同一である、
のいずれかという問題もあります。ライプニッツは上の両方の意味でこの同一性の原理を主張したのでしょうか。光子や電子やニュートリノなど、いわゆるレプトン族には未だその個性の違いは見出されておらず、Aの光子(電子)もBの光子(電子)も識別できず、全く「同じもの」の複数存在は否定されておらず、原理は前者の意味だと捉えておくのが無難なようです。
 これらの話から不可識別者同一の原理がどのような原理かおよそわかったのではないかと思います。上の例では原理への反例、原理の適用制限となっていますが、原理の「識別可能性」をより具体的な内容に変えてみましょう。ライプニッツの原理では「識別」の定義は明示的ではなく、常識的に理解されています。識別は知覚だけでなく知識を使うことによっても可能です。ライプニッツの原理ではどのように識別するかが曖昧なままなのです。そこで、「識別可能である」を「見分けることができる」と経験主義的な謂い回しに変えてみましょう。つまり、識別を知覚レベルの識別に限ってみようという訳です。
 すると、ライプニッツの原理は「見分けることができないものは一つのものである」となり、その対偶を変形すると、「二つのものは見分けることができる」となります。これはなんだかとても当たり前の表現で、知覚レベルでは原理と呼ぶにふさわしい自明の主張なのです。ブラックの二つの同じボールしかない宇宙にこの原理を適用してみましょう。「見る」ことができない宇宙ではこの原理は適用できませんから、それを可能にするために私が見るとします。二つのボールを私が目を離したすきに置き換えると、私はそれがわからず、ボールは自己同一性をもっていない(つまり、置き換えを私が識別できない)ことになります。このような状態が量子的な状態で、二個のボールがあることはわかっても、ボールが自己同一性をもたないという表現になるのです。一方、古典的な場合にはこのようなことはなく、私は最初に名札をつけて区別できるようにしておけるため、ボールは自己同一性を保つことができるのです。このように考えたのがかの朝永振一郎です。
 こうして、「素粒子は数えることができるが、自己同一性はもたない」と言うことになり、古典的な粒子とは違うことが主張されることになるのですが、本当にそうでしょうか。識別を見分けるに変えたことを徹底してみましょう。目を離したのでボールの置き換えがわからなくなったのでしたが、目を離さず、見続けたらどうでしょうか。目を離さないのですから、ボールを置き換えるなら、それはわかってしまいます。ですから、ボールの置き換えはなく、ボールの自己同一性は保たれることになります。つまり、私たちの原理「二つのものは見分けることができる」は見続けることによって常に見分けることができ、結果として「自己同一性が保たれる」と表現しても構わないということになります。自己同一性とは「二つのものは見分けられる」ことの形而上学的なファンシー表現なのです。
 さて、私たちの古典的な世界では「見続ける、見分ける」ことが原理上可能なのだという前提のもとで現象が理解されていて、それで不都合は起こっていません。ところが量子的な世界では「見分ける」ことができても、「見続ける」ことは儘なりません。見るためには観測装置が不可欠で、現在の装置では連続的な観測ではなく断片的な観測しかできません(例えば、不確定性原理)。ですから、正確に見続けることはできないのです。見続けることができないと自己同一性は保持できなくなります。
 こうして、目を離さず、見続けることができれば、二つのものは見分けられることになります。