物語:出来事の因果的な展開が物語の本性

(以前のエッセイを「因果的に」見直し、修正したものです。)
 物語は私たちが世界の出来事や現象の変化を知るための基本となる形式です。ギリシャ神話、聖書、千夜一夜物語古事記源氏物語平家物語等々、私たちは大昔から物語を通じて世界と社会、そして何より人間を学び、理解してきました。私たちが関心をもち、理解してきたのはほぼ例外なく物語のワクワクする内容であって、物語という形式ではありません。それは物語を生み出す作者が関心をもつことですが、叙事詩や小説、戯曲など異なるスタイルが次々と生み出され、それらスタイルが洗練されることによって「文学」は人々の心を掴み、市民権を得るようになってきました。今から見れば荒唐無稽な神話から、民族の歴史、さらには人間の数奇な運命や悲恋まで、実に様々な内容をもつ物語が飽くことなく創作され、波乱万丈の世界、謎と神秘に満ちた世界が様々な新しい表現媒体を通じて、縦横無尽に述べられ、描かれ、記されてきました。
 物語の形而上学と体裁をつけて呼ぶなら、「物語は因果関係の展開の叙述、描写から成り立っている」というのがその基本です。と言うより、因果的な物語以外に世界の変化を知る適切な手段、方法を私たちは昔もっていなかったというのが正直なところでしょう。因果関係と言えば、まず目につく代表格は「歴史」、そして「力学」で、それぞれ歴史変化、運動変化としてお馴染みのものです。因果関係を数学的に表現して物語形式を脱したのが物理学であるのに対し、歴史は因果関係の展開からなる物語。歴史に登場する因果関係の範囲は途方もなく広く、単なる時系列から原因と結果の系列まで、物理的な変化から心理的な変化まで、基本的に何でも含みます。私たちの経験はまずは知覚経験、そして因果的な経験が続き、それらを言葉を使って捉え直し、思い出すと、私たちにお馴染みの物語となるのです。その上、心身の二元論が前提されると、英雄や政治家の思惑が国の運命を決めるようなことが起こり、因果関係はあらゆる領域、あらゆる対象に対して成り立つことになります。因果応報は正に物語(そして歴史)の構造そのものなのです。
 ところで、「解釈(interpretation)」は量子力学の現場の研究者には敬遠される単語です。解釈は哲学者に任せておこう、触らぬ神に祟りなしというのが通常の物理学者の取る態度です。とはいえ、量子力学の解釈はアインシュタイン量子力学批判以来それなりに有名になりました。物理学で「解釈」と言えば、量子力学の解釈ということになっていますが、普通の古典物理学の理論も当然ながら解釈をもっています。特別に悩み、工夫しなくても、古典的な理論は普通に因果的に解釈すれば、私たちの(因果的な)世界に簡単に適用できるのです。つまり、解釈は自然に素直にできてしまい、理論は既に解釈されている、と言っても構わないほどなのです。物理世界での「因果関係」は形而上学的な関係で、そんなことに関わるのは厄介ということで、物理学はこれを関数関係に変えてしまいました。「因果関係とは何か」という形而上学的な問いに拘泥せずに、因果関係をそれを表現する数学的な関数関係によって捉えるというのは実にクレバーなやり方です。普通の人は殊更意識することもなく、ごく自然に関数関係を使って因果的な関係を解釈しています。
 数学的世界の関係は純粋に論理な関係です。普通の因果的な世界では見えにくくなっていても、しっかり存在しているのが論理的な関係で、自然法則とその関数的表現を巧みに使うことによって、因果関係と思われているものを数学的に表現することができ、形而上学的な因果関係を明晰・判明に考え、理解できるのです。つまり、論理的な条件法の関係が正しい場合、それを原因と結果の因果関係として解釈するのです。
 関数関係は言語表現の一つですが、数学言語でなく、自然言語を駆使して因果関係を表現するのが物語であり、私たちの日常生活が因果関係から成り立っていることを習慣的に定着させました。特に、「生活する」という概念は因果的であり、生活の中の喜び、悲しみ、苦しみ等はすべて時間的な変化、無常の事柄から成っています。私たちの生活は因果的に推移し、その様子を描くなら物語になるという訳です。
 純粋に物理的な時間変化ではないようなことが物語が入り込んできます。原因と結果は物語の基本構造ですが、関数的な因果関係の表現では「原因と結果」がなくても構いません。力学法則は関数的に表現され、システムの状態変化として力学的な変化が表現できます。原因と結果という二つの異なる出来事ではなく、システムの状態が時間的に変化することが因果関係の物理学的解釈だと考えても構いません。因果関係を物理学から追放したと言い放っても構わないのですが、それはやはり傲慢というものです。因果関係の物理学的な理解、解釈がシステムの時間的な状態変化としての関数表現なのです。
 ところで、私たちには記憶があり、それによって過去がどのようなものかわかり、それが現在や未来の事柄ではないことも確認できます。では、記憶のない理論はどうするのでしょうか。理論がとる方法は4次元連続体、あるいはブロック宇宙(block universe)モデルの採用です。簡単に言えば、絵巻物やパノラマとして記憶された歴史を理解しようというのです。
 時間という次元が付加されることによって、私たちの経験は記憶としてではなく、連続的な世界変化として、永遠の相のもとに連続体として表現されます。記憶された過去の状態と知覚される現在の状態の両方が一挙に表現されれば、記憶は必要なく、因果性もいらないことになります。これは実に見事な発見でした。それがアリストテレスニュートンの違いと言っても過言ではありません。関数は軌跡として表現され、それがシステムの歴史、因果的変化の空間的な表現となっているのです。
 「人生」は私たちがそれぞれに解釈し、解釈された知識と自意識の融合として重要な意義をもっています。人生は徹底して因果的だと私たちは勝手に思い込んでいます。そう思い込まなければ仏教のような宗教は生まれませんでした。運命や生死は因果的世界の特徴で、4次元のブロック宇宙にはそれら因果的出来事はありません。ですから、私たちはブロック宇宙を一生懸命私たちの生活世界に翻訳して因果化する、つまり物語化するのです。
<知識:物語から理論へ>
 知識を整理していくと、それはまとめられて、最終的に行き着くのは理論ということになります。私たちの知識が物語の中に集約されているということは、理論が物語から始まっていることを示唆しています。物語がどのような仕方で理論に昇華されるかを示すことによって、物語と理論の関係が説明できます。そこで様々な理論を思い浮かべながら、理論がどのような物語から生まれてきたかを探ってみましょう。
 まずは、最も物語とは縁遠いと思われている数学。数学理論の例としてユークリッド幾何学を取り上げるなら、そこに登場するのは点や線、面や図形といった一群の対象です。形式主義では数学的対象は単なる記号で構わないのですが、ギリシャ以来点、線、面といった対象として解釈されてきました。「点が集まると線になる」のですが、その線をつくり出す物理的過程は物語には登場しません。点をどのように並べると線になるのかという実際の細部にはこだわらず、「線を引く」という私たちの行為を信用して、「点から線が生まれる」ことが物語では前提されています。そもそも点とはどんな対象なのかさえ定かではないのです。
 次は物理学の物語。すべての科学に共通する実証的な実験や観測は因果的でなければ実現できず、それゆえ、実験や観測の手続きは物語的になっています。つまり、大雑把に言えば、実証的=手続き的=因果的=物語的なのです。さて、物理学の肝心の対象は「運動」。運動の原因や結果は運動の一般的な記述とは別に特定の状況として考えられる場合がほとんどです。そうでない場合は運動法則に言及するだけで説明や予測ができ、因果連関を持ち出す必要はありません。どのように個別の状況として解釈されても、運動法則の一般的適用は同じようになされます。
 化学の物語に登場するのは元素。運動と並んで物質の構造の解明に人々は好奇心をもってきました。原子論はギリシャ以来の優れた物質と運動についての理論です。原子という不変の粒子の組み合わせによる物質と運動の説明は実に見事な仮説です。それが化学的な原子論仮説になるには18世紀まで待たねばなりませんでした。
 生物学の物語となれば、生命。今は誰も信じていない「生気論」は、生命は他のどのようなものにも還元できない原理であると主張しました。
 これら物語に登場する主役たちはいずれも正体不明で、謎に満ちた対象です。それらは私たちの知識を生み出し、好奇心を掻き立てるもので、永遠の謎、憧れです。知識はそれら謎の原理を主役とする物語によって生まれ、物語によって脚色され、物語によって修正、変更され、その過程そのものがまた物語になっています。物語の筋は因果的な過程の青写真。主人公と主な登場者がどのように因果変化をするかの叙述が物語になっています。例えば、デカルトの方法的懐疑のシナリオ、それぞれの人のもつ人生という物語は私たちが何かを考えるだけでなく、疑い、信じ、恨み、苦しむという心理レベルの物語になっています。
 信念、そして知識、さらには感情や欲求の内容は本質的に因果的、それゆえ、物語的なのです。論理や言語は論理的、形式的な規則をもっていますが、それは表現レベルの話であり、論理や言語を使って表現される内容は因果的、歴史的、それゆえ物語なのです。情報も本来物語的であり、物語的でない情報は暗号化された情報で、そのままではわからない情報なのです。