感じられる時間

 子供の頃の風景の中のものはみな大きかった。家も人も、道も川も大きかった。大人になり久し振りに帰省して見る風景の中のそれらに大した変わりはないのだが、みな小さかった。そして、こんな小さいものを昔は大きいと思っていたのだと感慨にふけったことが誰にもあるのではないか。小さな子供のサイズと大きな大人のサイズの違いは私たちが「感じる空間」をもつことの身近な例だろう。他の動植物を眺めれば、そのサイズの違いは実に様々で、それらのサイズが棲息する空間とその中のものの大きさを左右していることが容易に推量できる。
 こんな話は時間についてもほぼ同様。時を忘れて熱中していれば、感じられる時の流れは存在しない。空間に似て、子供の時間と大人の時間も異なっている。タイトルの「感じられる時間」など主観的な感じに過ぎない、いい加減なものだと思いたくなるのだが…意識の主観性と同じように、感覚される時間や空間は科学的な時間や空間とは違って主観的なものだと断定されて、それでおしまいにされてしまう。
 だが、感じられる時間や空間は生物種が固有にもつ時間や空間の一つであり、正に種に固有の性質なのであり、個体に主観的な時間ではない。感じられる時間や空間は物理的な時間、空間とは違って、当然相対的であり、種によって大きく異なっている。それでも、「感じられる時間」などという表現はヤクザな表現で色眼鏡で見られるのが常で、さらに加えて、主観的時間意識にまでつながると思われる場合が圧倒的に多いのである。
 子供の時間と大人の時間が違うなら、個体の時間はその個体の成長の時期に応じても異なる、また個体ごとに異なるということも当たり前に考えることができる。さらには、異なる生物種が異なる時間をもつことにも簡単に敷衍できる。そして、最後に普遍的な物理的時間に行き着くなら、その普遍的時間によって今度は逆向きに進んで、普遍的な時間を物差しにして、最後の「感じられる時間」まで相対的に位置づけることができるようになる。客観的な時間と主観的な時間の間に幾つもの生物的な時間、心理的な時間を挿入して時間を線形に並べることができるのである。
 生物個体の時間は寿命と置き換えても構わない。科学技術の変化のスピードは伝統・文化よりずっと速いことになっている。伝統や文化はなかなか変化せず、変化してもそのスピードは遅いと思われている。伝統芸は学習、習得に時間がかかり、一度習得するとそれを改変することは容易ではない。習得が必要でない科学技術の変化のスピードは速いが、習得が不可欠な科学技術はやはり文化とその速度は変わらない。
 そんな話で思い出されるのが『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄著、中公新書)。動物のサイズから動物のデザインが数理的に解説され、動物の時間やサイズに関する知見が巧みに紹介されている。例えば、ベルクマンの規則で、恒温動物では同じ種で比較すると寒い地方に住む個体ほど体が大きい。体積と表面積の関係は幾何学的に相似な図形の場合は表面積は体積(これは体重と比例する)の2/3乗になる。
 動物によって「時間」が異なる。例えば、心臓が1回打つ時間は心周期と呼ばれ、ヒトの場合は約1秒。ハツカネズミはすごく速くて1分間に600回から700回。1回のドキンに0.1秒しかかからない。ネズミ0.2秒、ネコ0.3秒、ウマ2秒、そしてゾウ3秒。大きな動物ほど周期が長くなる。体重との関係を考えると、どれも体重が重くなるにつれ、だいたいその4分の1(0.25)乗に比例して時間が長くなる。つまり、動物の時間は体長に比例する。つまり、体のサイズの大きい動物ほど、心周期も呼吸も筋肉の動きもゆっくりになっていく。この時間の違いは、ゾウやネズミ自身にとってはどうなのか。時間が体重の4分の1乗に比例するということは、体重が2倍になると時間が1.2倍長くゆっくりになること。体重が10倍になると時間は1.8倍になる。例えば、30gのハツカネズミと3tのゾウでは体重が10万倍違うから、時間は18倍違い、ゾウはネズミに比べ時間が18倍ゆっくりだということになる。
 時間が18倍違うとは、相当な違い。ネズミからゾウを見たら、ただ突っ立っているだけで動かない。ネズミにとってゾウはもはや動物ではない。逆にゾウからネズミを見たら、瞬時に動くわけだから、ゾウにとってネズミなんてこの世にいないようなもの。確かに彼らは同じ地球上に共存しているが、同じ生活世界を共有しているかとなれは大いに疑問である。
 ところで、動物の生きる時間、つまり寿命も体重の4分の1乗に比例する。哺乳類の場合、色んな動物の寿命を心周期で割ってみると、15億という数字が出る。つまり、哺乳類の心臓は一生の間に15億回打つということになる。ハツカネズミの寿命は2−3年、インドゾウは70年近く生きるから、ゾウはネズミよりずっと長生きなのだが、心拍数を時間の単位として考えるなら、ゾウもネズミもまったく同じ長さだけ生きて死ぬことになる。一生を生きたという感覚は、ゾウもネズミも同じ。
 では、人間の寿命はどれくらいか。計算すれば、26.3年。これは今の日本人の寿命とは大違い。縄文人の寿命が31年という推測値からすれば、本来の人間の寿命はそのくらいかも知れない。15、16歳で子供をつくり、子育てして次の世代に交代していくのと比較すると、子育てが終り、次世代を生産するわけでもない、生物学的には意味を持たない「おまけの人生」が私の今の人生。それがどのような「おまけの時間」なのか、時間をかけて考える必要がありそうである。それこそ生物学的宿命から自由になった(解放された)時間なのかも知れない。