宗教組織と争い

 中東での争いの多くにはイスラム教が関わっている。かつての宗教戦争の原因となれば宗教そのものだった。歴史を辿れば、どうも宗教は戦争が好きらしいと誰もが思いたくなる。宗教の存在を悪と思う人は少なく、宗教は人を救い、世界を平和にするものだと信じられているのだが、何とも不思議なことに、世界の平和が実現し、戦いがなくなったということはこれまで聞いたことがない。
 宗教はとても好戦的で、そのためか未だに宗教間での争いが後を絶たない。当然のことだが、争いを起こし、闘うのは宗教教義ではなく、同じ信仰でつながった宗教団体のメンバーである。そして、異なる宗教団体の間の闘いは熾烈で、この上なく残酷である。
 聖書を見てみよう。かつて人々は生贄の動物を祭壇上で焼き、神にささげた。アブラハムに率いられて約束の地カナンにしばらく留まっていたユダヤ人は、その後飢饉が続いたため当時豊かであった隣の国エジプトに移住した。エジプトには数奇な運命を背負ったユダヤ人ヨセフが支配者として君臨していた。初めの内はよかったが、やがて隣国から流れ着いたユダヤ人に対してエジプト人は差別を始める。ピラミッド建設や大規模治水工事などの大変な仕事を、外国人労働者であるユダヤ人に押しつけてきた。とうとう耐えきれなくなったユダヤ人たちは、モーセをリーダーにエジプト脱出を試みる。今から3,000年以上前の話で、出エジプト(Exodus)と言われるものである。
 アブラハムによるイサクの燔祭、その後の予言者たち、モーセ、キリスト、ムハンマドらによって一神教の宗教がつくられ、それらの間での戦いが世界の歴史をつくってきた。ユダヤ教キリスト教イスラム教と違って、仏教は平和的な宗教だが、それでも宗教であることに変わりはなく、人間にとって教義を信じること、つまり信念のシステムからなっている。
 さて、宗教は人を幸せにするのか、それとも不幸にするのか。どの宗教も平和を訴える点で大きな違いはないが、宗教の目的は平和ではなく、信仰であり、それゆえ、自らの教義を何より優先する。そこには「信じる」と「知る」の違いが鮮やかに反映されている。「あることを心底信じると、それとは違うことを絶対に信じない」というのが私たちの一般的な信念構造である。一方、「あることを知ることと、それとは違うことを知ること」は両立し、ごく普通のことで、何ら不思議はない。この二つの違いは決定的な違いである。教義のような信念体系を変更するには強大なエネルギーが必要だが、新しいことを知ることに抵抗は少なく、知りたい好奇心の方が遥かに強い。
 「心底信じる」ことは保守的で変えにくいが、「新しく知る」ことは革新的で変わりやすいのである。ここに信念と知識の基本的な違いがある。「知る」を「信じる」に優先させることが宗教とは違う主知主義である。一方、信念は知識を力に変える。知識を活用して力にする、エネルギーにするのが信念である。
 世界とその知識は抵抗があっても変わっていくが、宗教は頑として変わらない。変わる世界や知識と変わらない宗教教義は様々な問題を引き起こしてきた。妥協する信念、宗教をコントロールする信念、信じない自由は、人が愚かでない証なのだが、宗教的な信念についてはいずれも認められていない。
 信仰はそれをもつ人にはかけがえのないもの。「信じる」ことの特別のタイプは「神を信じる」であり、真理そのものと信じられている。だが、そのことと宗教とは分けて考えるべきである。宗教がこの世界で存続するための様々な手立ては争いを生み出すだけだった。宗教組織のこの世での振舞いは問題児としか言いようがない。
 人は群れると碌なことをしない。国も町も、組織も集団も、みな自らの欲望のために躊躇なく戦う。集団にはしっかりした自我がない。個人ならいつも自我がしつこく付き纏う。だが、集団は時には自我があるかのように振る舞う一方、その自我が消失し、複数の対立する自我が併存する。単一の自我ではなく、多重人格者の如く、複数の自我が競い合うのが集団である。集団はメンバーが決めたリーダーの自我が集団を代表しているのだが、始終見張っていることはできず、しばしば自我非在に陥るのである。
 宗教は一人では成立しない。それは事実なのだが、釈迦の悟りは一人でも一向に構わない。だが、他の宗教は一人では駄目で、その結果、宗教団体が不可避的にでき、共同体などが組織され、教会や寺院がつくられることになる。世俗の組織は別の組織と縄張り争いを始めるのが普通である。宗教や信仰は聖なるものでも、宗教組織や宗教集団は世俗的なものであり、普通の集団と何ら変わるところはない。となると、争いは当たり前のことになる。