欲望:ヘーゲルまで戻ると…

 「欲望とは、他者の欲望である」というハイカラで気障な表現は、精神科医にして哲学者のジャック・ラカンのもの。欲望は自らの心の内にあるというステレオタイプ的な思い込みに対し、それを逆転したというのがこの文の意義。ラカンが説くには「他者の欲望行為が誘因となって、私自身の欲望が生み出される」。確かに私たちは、子供の時以来他人がもつもの、欲しがるものを欲しがってきた。だから、欲望は自らの内に自発的に生まれるのではなく(大袈裟に言えば、自由意志によって生まれるのではなく)、他者の欲望に刺激されて、(半ば因果的に、そして行動主義的に)自分の欲望が生み出されるのである。つまり、私の欲望は自発的なものではなく、受動的で、因果的で、強制的なのである。
 このようなことをより徹底して述べたのが昨日の「欲望や意思の存在とその存在理由:From a physicalistic point of view」だった。あの語り方は大抵不評で、嫌われる。案の定その通りだった。そこで少々異なる観点から見直してみよう。既に昨日のものを読まれた読者にはラカンの慧眼はむしろ当たり前のことでしかない。だが、人々は時代を先取りすると評価されてきた思想の中にラカンのような見方を見出し、感心してきたのである。それはさらに遡ることができ、誰が発案者かを探そうという歴史的な関心へと向かう。
 まずは、現代思想に絶大な影響を与えたコジェーヴのパリ高等研究院における講義録(1933〜39年)。コジェーヴは、それまで有神論的な形而上学だと見做されてきたヘーゲル哲学を、徹底した「人間」洞察の哲学として解釈し直した。そして、その際のキーワードが「欲望」だった。コジェーヴ現代思想に与えた最大の功績は、人間を「欲望存在」として規定した点にある。コジェーヴは言う。私たちは、ただ単純に対象に立ち向かっているだけの存在ではなく、私たちはまず何よりも自分自身を意識している「自己意識」である。そして、この自己意識は私のもつ「欲望」からすべてを対象化する。自己意識、つまり真に人間的な現存在の基礎にあるのは欲望である。この欲望は、それが人間的なものである限り「他者」へと向かう。それは、結局は他者に対する自己の優位をその他者に承認させるためである。これが、人間同士の間に「生死を賭けた闘い」を生むことになる。「主人と奴隷の出現に帰着した最初の闘争とともに、人間が生まれ、歴史が始まった」のだとコジェーヴは主張する。
 コジェーヴの主張が正しいならば、この主人と奴隷の闘いが終わる時、歴史は停止することになる。世界史、人間の間の相互交渉や人間と自然との相互交渉の歴史は、戦闘する主人と労働する奴隷との相互交渉の歴史である。そうであれば、歴史は主人と奴隷との相違や対立が消失するとき、歴史は停止することになる。国家において万人の承認が完成した時、主人と奴隷の闘いは終わり、そうして人間の歴史も停止する。コジェーヴはそう考えた。
 こうなると、ヘーゲル自身がどう考えていたか気になる。そこで、ヘーゲルが考えた「主人と奴隷」について確認してみよう。ヘーゲルは「自己意識」という言葉に二つの意味を付与した。対象を意識している主体が自らを意識するという意味が一つ。これは、デカルト以来の認識論での自己意識と同じ。もう一つは、同じ自己意識をもった他者との関わり合いにおける自己意識。この場合の自己意識は、同じように自己意識を持った他者を意識している自己についての意識で、最初の自己意識のように、たんなる対象に向き合っている意識ではない(自己意識が複数あり、互いに意識し合うことは今では当たり前のこと)。
 自己意識の二つの意味は、ヘーゲル以前の哲学者たちにはなかったようである。ヘーゲルはこのような自己意識を認めることで、人間の精神的な働きの場面を個人の心の中の意識に限定するだけでなく、他者との関わり合い、広い意味での社会的な相互作用の中で、人間の本質を捉えようとした。これは行動主義的な自己意識の社会という考えのスタートとも言える。
 ヘーゲルはこの自己意識を個人と同義に使っている。そして、この個人同士のせめぎ合いの中に人間性の本質があると考える。だから、ヘーゲルは個人と個人の関係に焦点を当てる(これも今では当たり前のこと)。
 そして、自己意識の本質は欲望である、とヘーゲルは言う。欲望とは生物的な存在として生き続けたいという衝動である。つまり、ヘーゲルにとって、人間は身体を持った生き物なのである。ヘーゲルは人間を生きようとする欲望をもった生物的な存在として捉えることで、より現代的な人間把握に近づいている。
 この「生物的な存在」をヘーゲルは「生命」と呼んでいる。この生命観も当時とすれば目新しい。人間は抽象的、観念的な存在ではなく、生命の躍動を伴った生き生きした存在なのだという、今の私たちには当たり前の主張である。
 さて、このような自己意識は自己の自立性についての確信を求めるのだが、その確信は(同じような自己意識をもつ)他者に承認されることによって可能になる。自己意識は自分一人では、自己自身であるという確信をもてない。そこには必ず他者の媒介が必要となる。人間は他者とのコミュニケーションを通じて存在する、本質的に社会的な存在なのである。これも今ではごく普通の人間理解である。
 この辺がヘーゲルの思想の核心となる部分で、西洋の哲学史上で画期的なのは、人間を類的存在としてとらえたところにある。生物種としての人間の特徴を「自己意識をもつ者の間の社会集団内の相互作用と捉えた」というのが今風のまとめである。
 この議論の中で有名になったのが、コジェーヴも注目した「主人と奴隷」の話。後にマルクスサルトルに多大な影響を及ぼすことになる。「主人と奴隷」とは、支配-被支配関係を表現している。人間は互いに戦い、支配-被支配という関係を築きあげる。戦いに勝った者は相手を支配することによって、自分が主人として自立しているという確信を持ち、負けたものは奴隷として相手の支配に服する。ヘーゲルはこれが人間の本性だと考え、人間の歴史の出発点をこの支配-被支配関係の奴隷制としたのである。強い者が弱い者を征服し、自分の奴隷にする。これが人間社会の歴史の出発点だとヘーゲルは主張する。
 主人と奴隷の関係は互いに相手を前提として成り立つ。奴隷が存在しなければ主人はありえないように、両者はペアとなって意味を獲得するようになる。そこでヘーゲルは、主人-奴隷関係の中に潜んでいる弁証法的な契機を明らかにしていく。まず、主人は死の威力をもって奴隷を支配する。奴隷は死の脅威に怯えて主人に服従する。つぎに主人は奴隷の労働を通して物を獲得する。奴隷は奴隷で、労働を通して直接物に関わり合う。しかし、この過程から次のような事態が生じる。
 主人は奴隷を支配することを通じて、自分の自立性を獲得できているように見えるが、このことは主人の自立性は奴隷との相対的な関係に依存していることを示している。主人は奴隷がいなくなれば主人であることをやめ、人間としての自立性を失う。もはや主人でなくなったものは、物との関わりも失うからである。ところが奴隷の方は、たとえ主人がいなくなっても、人間としての自立性を失うことはない。なぜなら、奴隷は労働を通じて直接物に関わっているので、そのことを通じて人間の本質に即した生き方ができているからである。人間は、労働を経験することによって、自己意識の本質を実現できる。
 人間の本質実現は労働を通じてもたらされる、という思想は、マルクスに多大な影響を与えた。マルクスもまた、労働こそが人間の本質を実現する過程だと考えた。そして資本主義社会においては、支配者たる資本家は他人の労働に依存している限り、ヘーゲルのいう「主人」と同じ立場にある。一方ヘーゲルのいう「奴隷」である労働者階級は、労働を通じて人間の本質を実現できる立場にある。それゆえ、資本主義社会が消滅して共産主義社会がやってくれば、労働するものは、労働を通じて自己の人間性を獲得できるのである。マルクスはそのように考えたが、その思想の発端はヘーゲルの「主人と奴隷」の関係の議論の中にあった。
 まとめれば、ヘーゲルの先見の明は欲望と生存の関わりの一端を示していたのだが、一方で「主人と奴隷」の話は今では明らかに通用しない。ヘーゲルの考えを心の片隅に置きながら、資本主義社会の中での欲望探求の途は続くのである。