欲望や意思の存在とその存在理由:From a physicalist point of view

自然主義や物理主義は心、意思、欲望、霊魂等を一切否定する。そのことに人は大抵猛反発するのですが、その否定の仕方には無頓着な人がほとんどです。以下に述べるのは否定の仕方についての話です。「人には意思や欲望があり、それが行動の原因になる」という伝統的な考えが誤りであるという主張を以下に述べてみましょう。)

 デカルト主義と行動主義が如何に異なるかを他人の心に関する次の文で比較したことがありました。今でも常識的なのがデカルト主義で普通の人はデカルト主義者と言っていいでしょう。一方、人が社会で働く際には行動主義を採用している場合が多い筈です。そこで、次の三つの文を花子が述べたとして見ましょう。

太郎は自民党の経済政策では日本の将来はよくならないと信じている。
次郎は激しい痛みを感じている。
私の心以外に他人の心が存在する。

 デカルト主義を使って考えると、花子は他人の意識のなかで進行している事柄について主張しています。したがって、彼女の言うことが正しいためには、彼女の主張することが実際にそれぞれの意識のなかで起こっていなければなりません。文の真理条件 (truth condition) を使ってデカルト主義者のこの主張を述べ直すと次のようになります。

最初の主張が真である ⇔ 花子が自民党の経済政策では日本の将来はよくならないと信じていたら、その花子の意識の中にあることに完全に類似したことが太郎の意識の中にもある
二番目の主張が真である ⇔ 花子が彼女自身の意識の中で直接にわかる、彼女が「激しい痛み」と呼ぶものに類似したものが次郎の意識の中にある
三番目の主張が真である ⇔ 何かが起こっている(花子の意識以外の)意識が存在する

 実際、大半の人はデカルト主義者の解釈に不自然さを感じない筈です。一方、行動主義的な見解では花子は他人の行動について上の主張をしていることになります。したがって、行動主義的にそれら主張の真理条件を考えると次のようになるでしょう。

最初の主張が真である ⇔ 太郎の行動は自民党の経済政策に否定的に反応する行動性向として解釈できるような行動である
二番目の主張が真である ⇔ 次郎が激しい痛みの典型的な行動を示す
三番目の主張が真である ⇔ 心をもった人に典型的に認められるような行動がある

以上のことから、他人の心の知識についてのデカルト主義と行動主義の違いは明らかでしょう。実際の私たちはいずれかの見解の基づいて首尾一貫した見方をしているわけではありません。でも、心や魂、意識や欲望、感情や意思といった用語が多用され、それらが意味をもって使われていることは、それらが指示するもの、つまり心や欲望が実在することを暗黙の裡に認めています。これは容易ならざることで、考えてみる必要がありそうです。そこで、もっぱら行動主義的、物理主義的な観点から心的なものが錯覚に過ぎないという説明をしてみましょう。恐らくほとんどの人はびっくり仰天で、そんなことは詭弁だと感じるでしょう。まずは、それが私の意図であり、目的なのです。

 眼前の人が欲望をもっているかどうか、欲望をもっているならどんな欲望か、見るだけではわかりません。その人が役者なら、外見からはまるでわからないように演技するでしょう。要するに欲望はあるのかどうか直接に知覚できないのです。
 欲望や意思が私たちの行動の原因と言われてきました。でも、他人の欲望は目に見えず、防犯カメラにも映りません。ですから、動作や表情、目つきや言動から推測するしかありません。ですから、推測によってしかわからない他人の欲望や意思は、それを観察する私の側の錯覚かも知れません。欲望や意思の存在は観察によってわからないなら、そもそもそれらは存在しないかも知れません。欲望や意思がこの物理世界に存在しないなら、なぜ私たちはそれらが存在すると信じ込むのでしょうか。
 他人の行動を見ると、その人がある目的で行動しているとしか思えない場合がよくあります。例えば、誰かが一心に食事しているのを見ると、その人には強い食欲があるように思えます。でも、わざわざ食欲という概念を使わなくても、「食べる」という運動の仕組みは説明できます。地球は公転する欲望を持っているから太陽の周りを運動するとは小学生でさえ言いません。人が食事する場合も動物が餌を食べる場合も、その運動の仕組みは似たり寄ったりの筈です。
 この運動の仕組みで自動的に運動が起こることを、「食欲を感じる」の定義とすれば、「このロボットは食欲を感じたので食べた」という表現になる訳です。私たちが実証的に動物の採餌行動を観察するときは、行動主義的な出来事として扱います。上述の花子の文の行動主義的な解釈を思い出してください。ロボットの運動と同じように昆虫は動くのです。では、コンピューターは自らの欲望で行動しているでしょうか。コンピューターが計算したいという欲望をもって計算していると考えると、何かとても奇妙な感じがします。それが正しいなら、地球は公転したいという欲望を持って周回運動していることになるからです。
 これでは、私たちと地球はそれほど違わないことになります。物質の世界には欲望や意思などない、と言う方ががずっと端的でわかりやすいでしょう。一方、学習途上の子供なら、昆虫も人と同じように欲望や意思を持って動いていると思うでしょう。「カブトムシが怒っている」、「虫が泣いている」と言う筈です。昆虫の神経系を知っている生物学者は、その動きを精巧な機械仕掛けとみます。でも、その観察対象が人の場合、冷静な科学者でも人を観察する場合はその行動を機械的なものだとみなすのはなかなか難しく、人がおいしそうに料理を食べるのを見ると、その人は食欲を持っていると思いたくなるのです。 
 では、他人を観察する場合でなく、自分の行動の場合はどうでしょうか。なぜ自分には欲望や意思があると思うのでしょうか。腹が減ったと思い、蕎麦屋に行くとします。普通は食欲を感じてから蕎麦屋に行くと考えます。さて、それは本当でしょうか。「食べるという運動」を起こす脳内の神経回路と無関係に、「食欲という感覚」を起こす神経回路が脳の中にあるのでしょうか。むしろ、食べるという運動を起こすプログラムの一部が活動し始めたときに、それを事後的に食欲として記憶するような脳の仕組みがあるだけなのかも知れません。「腹が減った」と感じるのは、食べる運動プログラムが記憶された食欲を頭の中で引き起こしているから、そう感じるのではないのでしょうか。
 私は「私は腹が空いたから、蕎麦を食べようと思い、蕎麦屋に行って食べた」と日頃思っています。でも、実際は私の身体状態が自動的に食べるという無意識の運動プログラムを引き起こし、それの運動神経信号が、蕎麦屋に行って蕎麦を食べる、という慣れ親しんだ習慣を思い出させ、それを実行させたということではないのでしょうか。蕎麦屋にに行って蕎麦を食べることを思い浮かべると、身体が蕎麦屋に行く準備を始めるのです。
 「私は…したい」という欲望や意思を表す表現は、人に自分の行動を説明したり、自分が記憶したりするには便利ですが、欲望や意思は人間行動の原因などではないのです。むしろ、自分の行動を日記に書かない動物たちと共通の機械的な反射運動の連鎖が、人間行動の原型になっているのです。動物は、何かしたいという欲望や意思をもったので、それをするのではありません。動物はロボットと同じで、欲望や意思をもっていません。欲望や意思をもっていなくても、匂いやフェロモンなどの物質的な働きで神経回路が働き自動的に連鎖運動が起こるのです。
 欲望や意思に基づいて人の行動を叙述していくのが物語の手法。それはもともと他人の行動を予想するために発達した脳の機能なのです。「欲望や意思」を持って何かを実現していくという人の行動モデルはとてもわかりやすいものです。「Aが起こると、Bが起こる」という形で、人は経験を学習し、記憶していきます。このモデルを使って他人の行動を記憶して、その後の行動を予想すると役に立つのです。「あの人はこんな欲望をもってこうしたのだ。だから次は、こんな意思をもってこうするはずだ」という形で他人の行動を記憶し、予想します。これを自分自身の行動の理解にも応用すると、「自分の欲望、自分の意思」という概念ができ上がるのです。上記の行動主義者の花子さんはその簡単な具体例なのです。
 自分の運動の結果予想を脳内でシミュレーションすることによって運動の計画が可能になります。過去の経験の記憶を参照して、類推し、想像し、いろいろな行動のシミュレーションを行って、行動の結果が想像されまる。他人の目に見える客観的な自分の行動の結果を予想できるのです。私たちは、想定の運動を実行した場合の自分の身体の状態変化から社会的立場の変化まで、さまざまな観点から結果を予想しています。その場合の自分の感情の変化も想像します。その行動をしたくなる衝動の予測、幸福感、勝利感、不幸感、敗北感などの想像を比較して、様々なシミュレーションを評価するのです。なりたい自分、というシミュレーションが選ばれ、それが自分の「欲望、意思」であり、自分の目的になるわけです。これが正に目的を追求する計画行動です。自分の欲望、期待、目的、という錯覚を作り出して、それを達成するために行動する自分というシミュレーションを脳の報酬回路に結びつけ、学習されたシミュレーションに沿って連鎖的、自動的に運動が進行するのです。
 こうして、欲望、意思、さらには意図など、常識では人間の行動の原因とされているものが人の脳の中にあると思い込むのは錯覚だということがわかります。動物は、感覚刺激が変化することに応じて反射的に運動しています。人はそれに加えて、脳内の記憶からシミュレーションを映し出して仮想運動を生み出し、それに対応して反射的に運動します。人がある行動をするのは、欲望や意思があるからだと私たちは常識的に考えますが、これは間違っているのです。私たちの心の奥から湧き起こる欲望、意思、あるいは意図などという不思議な何かが身体の運動を起こすわけではなく、それらは錯覚なのです。人が、他人と自分の行動を上手に予測し、互いに言葉で説明し合って共感、協力し、また長く記憶して経験として役立てるために便利だったから、行動を記述するために錯覚が作られ、「欲望」、「意思」という言葉で語られてきたのです。欲望や意思がなぜあるのか、これがその解答です。
 この物語的な見方に慣れると、自分の内部にその欲望が実在すると実感するようになります。それが、私たちの感じる自分の欲望や意思です。それは錯覚なのですが、言葉を使って、それについて人と話せます。「欲望」、「意思」という単語、「私はそれをしたい」という文などを使えば、誰と話してもそれでうまく通じる便利なものです。独り言を言って自分で自分の行動を確かめ、目的を思い出し、最初の目標にたどり着くことができるのです。その上、私たちはそれをうまく表現する言語システムまでもっているのです。

 欲望や意思は錯覚だと言ってきましたが、少々言い過ぎで、実際は適応的錯覚、学習された習慣、共有知識と言った方が適切でしょう。ですから、その錯覚は進化上とても有意義で、適応度の高い錯覚です。進化生物学的には私たちの欲望や意思という錯覚はヒトの有用な適応であることになります。ヒトは欲望や意思を錯覚として心の中にもつことによって、そうではない他の動物たちより優位な地位を占めるようになったのです。でも、その欲望や意思が真に有意な錯覚かどうかは今のところ誰にもわかりません。