深川怪談:怨霊、祟り

 昨年の富岡八幡宮宮司殺人事件は世間を驚かせた。いずれ深川怪談の一つとして後世に伝えられることになるのではないか。なにしろ怨霊や祟りという文字が元宮司の遺書に踊り、神社の境内で宮司が殺されたのだから。
 人が死ぬとその魂が霊として肉体を離れ、様々な災いを起こすことは古くから考えられていた。平安時代には、政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすということから、「御霊信仰」が流行した。政争や戦乱が頻発し、怨霊の存在は人々に強いインパクトを与えた。怨霊は恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。その霊を鎮め、神として祀れば、「御霊」としての霊は鎮護の神として平穏を与えるという御霊信仰が登場する。そして、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。
 日本が仏教の力を借りて国をまとめようとしたのは、怨霊に対する怖れが大きな理由だった。そこには日本最初の怨霊と呼ばれる人物が関わっている。その人物は、「長屋王」(684~729)。長屋王天武天皇の皇子と天智天皇の皇女の間に生まれた。重要ポストを歴任していたが、朝廷では藤原氏が台頭。藤原氏の四兄弟は天皇と姻戚関係を結ぶべく、妹の光明子聖武天皇の皇后にしようと働きかけた。だが、長屋王はこれに強く反対し、藤原氏と対立。729年、長屋王が密かに国家を転覆しようとしているという密告によって、藤原四兄弟が率いる軍勢は、長屋王の邸宅を包囲し、長屋王は自害に追い込まれた。
 長屋王の死後、異変が相次ぐ。『日本霊異記』によると、長屋王の遺骨を土佐の国に移して葬らせたところ、農民たちの変死が相次ぐようになり、このままでは「親王の怨霊で、国中の農民が死んでしまうので、埋葬場所を変えて欲しい」という嘆願書が役所に出された。これが日本最古の説話集に述べられた怨霊記録である。さらに、都には疫病が発生、大勢が死ぬ中、長屋王を抹殺した藤原四兄弟は、わずか四か月の間に次々と命を落とした。この祟りに対し、聖武天皇神道以上に頼ったのが仏教だった。疫病の流行が止むことを祈願して、各地に釈迦像を造り、大般若経の写経を命じた。741年にはすべての国に、巨大な寺院を二つ造るという国分寺創建を宣言、さらに743年には大仏建立を発表した。
 桓武天皇の即位時、皇太子となった兄弟の早良親王は、父である光仁天皇の死後、孤立。その後、陰謀に巻き込まれ36歳で憤死して怨霊に。794年、桓武天皇は、建設途中の長岡京を放棄し、平安京への遷都を発表したが、これが日本の仏教界の二人の巨人、最澄空海の運命を変えていく。桓武天皇が遷都した平安京の、魔が入ってくる「鬼門」の方角にある寺に籠っていたのが最澄だった。桓武天皇は、平安京を怨霊から守るため、最澄に興味を持ち、802年には国費留学生として唐に派遣した。最新の仏教を学び、怨霊がもたらす疫病や死から、親族や民を守ってもらうのがその目的だった。実際、最澄が唐から戻って最初にしたことは、病床の桓武天皇への祈祷だった。だが、その甲斐も虚しく桓武天皇は亡くなる。その後を継いだ息子の平城天皇は、弟の伊予親王を謀反の疑いで服毒自殺に追い込み、怨霊にしてしまう。自分も二年そこそこで身体の不調を訴え、弟に譲位、その後、弟の嵯峨天皇と対立して失脚。今度は自分自身や子供までもが怨霊になることに。
 空海密教パワーを信じた嵯峨天皇は、日本中に疫病が流行った際に彼に祈祷を命じる。すると今まではびこっていた病気はたちまち治り、人々は回復に向かったという。嵯峨天皇空海への信頼を深め、823年には京都の東寺を空海に与える。嵯峨天皇の次の淳和天皇も、空海に怨霊を鎮める法会を依頼している。神道の中心である天皇が、仏教の密教儀式を行っていたのである。
 明治維新廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で仏教を叩いた新政府、日本に仏教の霊力は必要とされなくなったのだろうか。実は、明治天皇は自らの即位の前日に、ある怨霊の鎮魂を丁重に行っていたという。その人物こそ、日本史上最大の怨霊と呼ばれる、讃岐の地で憤死した崇徳天皇。無実の罪に陥れられた崇徳天皇は、天皇家への呪いの言葉を残し、憤死。以後、鎌倉時代から江戸時代まで、武士の時代が続いたのは崇徳天皇の祟りだと信じられていた。武士の世を終わらせるため、明治天皇崇徳天皇を丁重に祀る必要があったのだ。

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富岡八幡宮

 菅原道真平将門崇徳上皇の三名が、これまで三大崇り神として祀られてきた。菅原道真は「天満宮(天神様)」、平将門は「御霊神社」、崇徳上皇は「白峯神社」の祭神として、永く人々の信仰を集めてきた。最高の地位に君臨した貴人が、理不尽な目に遭い、大きな恨みを抱いて死ぬと、強力な神と化して、相手を滅ぼす。それは落雷、流行り病、旱、水害といった形で現われる。時の権力者たちは、なんとかその怨霊を鎮め、自分たちへの崇りを免れようと、立派な神社を建て、礼拝することになる。一方、民衆は強力な霊力を持つ神を手厚く祀って祈れば、逆に守護と援助が期待できると考える。
 宗教には四つの要素をもつ。それらは「教祖」、「教義」、「教典」、「教団」である。ところが、四つともないのが日本の神道。そこに神様は八百万と多いが、教祖というべき特定人物は見当たらない。『古事記』や『日本書紀』は経典ではなく、神話も教典ではない。日本神道の神社は日本国中にあっても、統一された教団組織は明治政府の神仏分離令が出された後にできた。神道は「多神教」ではなく、「汎神教」。「何から何まで神になる」ということは、善き存在ばかりが神になるとは限らないということである。つまり、「尊」、「善」、「功」だけが神の本性ではなく、「悪」、「卑」、「奇」も本性に含まれる。異様なもの、強烈なもの、特異なもの、風変わりなものも神が生まれる契機になるのである。そして、「怨霊信仰」はその具体例なのである。