欲望の社会と地球環境の保全

NPOの活動は何のため?)
 「環境保全」を前面に出して小さな地方都市で活動しているNPO団体にとっては、具体的な個々の活動が注目され、自分たちの活動がどのような意味をもつかは二の次になる場合が多い。だから、活動の意義を問われても、環境省や市役所の説明書きを読んで鸚鵡返しに答えるしかない。何とも心許ない限りなのだが、環境保全の意味を垣間見ておこう。
 資本主義万能の社会が21世紀に入っても相変わらず続いていて、人々の活動は破壊のために絶え間ない創造を繰り返すばかりである。豊かな生活のために破壊を続けなければならないことが嵩じて、破壊の蓄積が未来を脅かすまでになっていることが単なる可能性ではなく、確実だということになっている。20世紀にあった社会主義体制が消えた現在、資本主義の独占状態はその予言をさらに倍増している。
 経済活動がもたらす自然環境の破壊が進み、地球自体がそれを回復できないまでになっている。地球は人間によって大きな痛手を受け、今や自力でそれを直せない状態なのである。そして、その典型が地球温暖化温室効果ガスの増加によって気温が上がり、気候変動がもたらされ、食糧生産を不安定にしている。
 資本主義世界での労働、教育、文化、科学などはいずれも破壊のための手段と化している。「破壊のための労働」、「破壊のための教育」等々という訳である。人間が生きることはそもそも破壊なくしては不可能なのだが、では、その破壊から私たちを守る理論はあるのか。これは「破壊する私たちが私たちを破壊から守る」というパラドクシカルな仕事であり、「私たちを守る」とは「私たちの住む地球(地域)を守る」ことだと理解されている。だが、そんなアクロバティックな理論など簡単には見つけることができず、今のところ自然保護のための理論として考えられているのは、単に「昔の(良き)ものを守る」という至極素朴なお題目である。つまり、文化遺産を守るのと同じように自然を遺産として守るということであり、それはとても理論と呼べるものではない。だから、保全の哲学はなく、幾つかの手段についての知識しかないのである。
 新しい商品の絶え間ない開発は、古いものを容赦なく破壊することである。消費とは破壊することで、どれだけあがいても壊すことによってしか欲望を満たすことはできない。それでも、古典芸能(能や歌舞伎など)は守られなければならない、保存されるべきだということになっている。遺跡、美術品、民芸品等は、かつてはそれらと異なる古いものを破壊することで登場したものだった。単に古いから守るのではなく、優れているから守るのだが、何が優れているかとなると、その最低限の理由さえなかなか見つからないのである。だから、伝統的なものは保存することにしているのだが、保存されるべき理由は過去の記録を保存するためと言う以外になかなか見つからないのである。
 私たちの活動であるいもり池とその周辺の環境保全にも確たる思想がある訳ではなく、私たちの資本主義的な活動による環境破壊を修復することでしかない。修復目標はかつてのいもり池の環境に近いもの。環境保全はこうして消極的な過去の復元に帰着するのである。何とも歯痒い話である。そして、実際の細やかな保全活動の隣には次のような近未来が控えている。
 人間の活動が環境の破壊を伴うことへの責任として環境保全があるだけではなく、環境を保全をしないと地球そのものが破壊され、死んでしまうという危険が確実に迫っている。