宗教が変わる(6)

 日本へ仏教が伝わって来たのは6世紀。新羅に対抗しようと百済聖明王は日本の援軍派遣を願い、当時最先端の「仏像、仏典」を日本に贈ろうとしました。仏教受け入れに賛成の蘇我氏、反対の物部氏、それで最終的に勝ったのが蘇我氏。そして、本格的に仏教を研究し、政治に利用したのが聖徳太子です。
 奈良時代になるとインドや中国から仏教の輸入が盛んになります。その仏教は、倶舎(くしゃ)、成実(じょうじつ)、律(りつ)、法相(ほっそう:唯識)、三論(さんろん)、華厳(けごん)の六宗派で、「南都六宗」と呼ばれました。さらに、聖武天皇による大仏建立など、国の政策として仏教の普及が進みました。そして、平安遷都は従来の奈良仏教から政治を分離しようする一種の政治改革=宗教改革でした。
平安時代初めに、奈良仏教から抜け出し、仏教の改革のために最澄天台宗を輸入しました。最澄は平安遷都を進める上でのブレーンの役割を果たします。最澄天台宗はその後の新興仏教が興こるきっかけを与えることになります。さらに、最澄と一緒の遣唐使に便乗した空海密教を輸入します(まさに密輸です)。空海長安密教を受け継ぎ、日本に輸入し、密教を完成させました。密教では釈迦の悟りを追体験することを目指し、宇宙を信仰の対象にして様々な秘術を用いて修行しますが、空海は大乗、小乗どちらも包含する壮大なシステムを構築しようとしました。
 そこで、密教について考えてみましょう。釈迦の悟りを知るには二つの方法があります。一つは釈迦が残した言葉から学ぶこと、つまり、経典を注釈することによって悟りに達する方法です。これは古典テキストの学習ということです。もう一つは釈迦が悟りに達した状況を直接に追体験する方法です。
 釈迦が悟りの境地に達した時が仏教の始まりだとすれば、実は釈迦は自らの悟りについてすぐには話さず、沈黙の期間が21日ありました。21日経って初めて他の人に話し始め、それを聞いた弟子たちが釈迦から話を聞くという仕方で仏教がスタートしたのです。釈迦に心境の変化を起こさせたのは梵天ということになっています。これが「梵天勧請」で、上座部経典に述べられています。このように22日目以降に釈迦が話し始めた教説が「顕教」と呼ばれます。ですから、顕教では釈迦の言葉を通して教説を学ぶということになります。ところが、何も話さなかった最初の21日間に着目して、そのときの釈迦と同じ精神状態を追体験しようとする考え方があり、これが「密教」です。最初の21日間の釈迦、すなわち釈迦の口から出る言葉(サンスクリット語の「真言」)、姿勢、心情をそのまま全部追体験しようという試みです。具体的には真言を唱えながら印契を結び、いわゆる催眠状態を目指すわけで、超常体験としか言いようがありません。
 21日間とその後の間に大きな違いを見出そうというのですが、例えば画家が絵の構想を練り、仕上げるのに21日間かかったとして見ましょう。完成に至る21日間と完成した絵の間にどのような違いがあるのでしょうか。完成された作品からその価値を理解することと、作品が着想から完成までどのようにつくられたかの過程を追体験することとは明らかに違います。美術の場合、断片的な追体験は可能でも、作品全体を制作する追体験は不可能です(美術作品の場合、追体験の成功はコピー、贋作に過ぎません)。
 「悟り」と「悟りの告白」は違うでしょうが、「悟りの内容」に違いはない筈です。ですから、顕教密教の違いは根本的に異なるなどというものではなく、互いに補完し合うものであり、違いを強調するのは単なる屁理屈に過ぎないとも言えます。何かを知るために顕教密教の違いがあるかと言えば、それは否定的です。知識は言葉で表現されるものですから、意識体験が知識獲得に必要でも、獲得された知識は言語表現されなければなりません。実験や観察は言語ではなく、それがないと実証的な知識は手に入りません。実験や観察と同じように修行体験によって知識が手に入ることはあるかも知れません。でも、手に入った知識は言語で表現されなければ、そもそも知識とも呼べないのです。
 本題に戻ります。空海密教には二つの重要な特徴があります。一つは「ご利益」です。病気が治るとか、河川の土木工事がうまくいくとかいった一般庶民に直接関係のある「ご利益」を実現してみせることによって仏教信仰を庶民生活の中に定着させました。これは、「理屈抜きで信じる」という点で宗教に効果的でしたが、それと同時に密教がいかがわしさを持ったことも否定できません。もう一つの特徴は「即身成仏」です。空海は死期を悟った後、高野山奥の院で成仏したと伝えられています。これによって、成仏と死というものが直結することになります。
 最澄天台宗の仏典を持ち帰っただけで、その研究自体は帰国後に持ち越されました。ところが、最澄が帰ってしばらく経つと、空海が脚光を浴びて登場することになり、密教ブ-ムが起こります。この時点で最澄は焦りを感じたと思われます。天台宗は『法華経』を重要視する宗派ですが、そこは禅や浄土などが含まれていて、基本的に何でも受け入れることができます。その結果、密教もそこに自然に入ってしまったわけです。天台宗密教のことを台密といいます。こうして天台宗は考え方の範囲が非常に広い宗派になり、天台宗自体の研究は最澄の帰国後の課題であったことから、研究しなければならないことがたくさん残り、宗教というよりは学術的な雰囲気の中で宗派が維持されてきました。
 最澄空海が以後の日本仏教の原型を作りました。庶民の信仰という観点からは「お大師様」空海の役割は絶大ですが、歴史的な意味では最澄天台宗がより重要です。なぜなら、これ以後ほとんどの僧侶は完成された高野山ではなく未完成の比叡山を目指し、比叡山は多くの逸材に修行、研究する場を提供したからです。そのような中で鎌倉時代に入ると、比叡山で勉強した数人の天才僧侶たちが、天台宗のやり方に不満や疑問をもつことによって、新しい仏教を生んでいくことになります(仏教でも組織的、継続的な研究の場があり、それが比叡山だったのです)。

 鎌倉仏教は比叡山で修行した天才僧侶たちが自らの考えを実験、実践する形で生み出されました。その結果、釈迦の主張がこれらの人々の考えを通じて改めて認識され、広められることになります。
 浄土経系の宗派(浄土宗、浄土真宗時宗など)は、いずれも浄土三部経(『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)に基づき、念仏を唱えることをその宗教活動の中心に据えています。中でも浄土宗を始めた法然浄土真宗親鸞が際立っています。法然阿弥陀如来を信仰し、平等という考えをもって、政治権力に反対し、僧侶が寺をもつ必要がないことを主張しました。浄土真宗の開祖は法然の弟子の親鸞ですが、彼は徹底的に他力本願とは何かを追求した人で、その結果として、阿弥陀如来を信じることを第一に考え、そのために念仏至上主義を主張しました。さらに、親鸞は仏教に「善悪」の考え方を導入しました。「善悪」は儒教の倫理的概念で、空を基本とする相対論的な仏教には本来存在しないものでした。
 次に、禅宗は座禅を修行の中心に据え、経典の言葉だけでは釈迦の教えは伝わらないと考えました。臨済宗では『般若経』と『法華経』を重要な経典と考えていますが、開祖の栄西(ようさい)によれば、教外別伝(きょうがいべつでん)、不立文字(ふりゅうもんじ)、以心伝心(いしんでんしん)と言われるように、言葉に頼らずにインスピレーションで悟りに至るということを重視します。座禅はそのためのものですが、栄西の座禅は出された問題を考えながら座禅をする公案禅(こうあんぜん)です。臨済宗栄西の後もしばらくの間は一休や夢窓疎石などの優れた禅師が続いて登場します。曹洞宗の開祖とされる道元も教外別伝、不立文字、以心伝心で特定の経典にこだわらず、座禅によって悟ることを目指すのですが、何も考えないでひたすら座禅をする黙照禅(もくしょうぜん)を生み出しました(公案禅は左脳を使い、黙照禅は徹底して右脳を使います)。
 これらとは別に、『法華経』を最も大切な経典として、権力に刃向かい、他の宗派をすべて否定する超過激な一派が日蓮の始めた日蓮宗です。
 釈迦の基本思想という点からこれら開祖を比べてみましょう。まず、生命の尊重、平等主義、個人主義の三つは程度の差こそあれ、すべての開祖に共通している考え方です。特に平等主義のうち権力に迎合しない姿勢はこれら開祖すべてに共通しています。偶像崇拝の禁止については、禅宗の二人は基本的に仏像はいらないと思っていますから、仏像を拝むということは考えていません。浄土教系においては、念仏を唱えるのが最も重要であり、これは拝む行為ではなくて一種の修行方法と考えられますから、偶像崇拝の考えとは本質的に異なっています。いずれにせよ、これら鎌倉時代の天才僧侶たちは知ってか知らずか、釈迦の考えに近い思想を共有していたことになります。
 では、鎌倉新興仏教の天才開祖たちは仏教をどのように変えたのでしょうか。一つは、開祖の個性が前面に出てきて、大乗仏教でわかりにくくなっていた仏教本来の姿がもっとわからなくなったということです。親鸞道元などの開祖の姿や主張がまず見え、釈迦の考え自体はその後ろに隠れてしまいました。つまり、浄土真宗は、釈迦の教えというよりも親鸞の宗教、曹洞宗道元の宗教と考えられるようなったのです。二人とも正に新宗教の開祖なのです。
 もう一つは、開祖たちが天才だったためにその開祖の教えをもっと良くすることを後を継いだ人たちが考えなくてもよかったことです。したがって、日本の仏教諸宗派はスタートが最高点で、その後は次第に衰えていくことになります。それは仏教史を見れば明らかで、鎌倉時代以後に新しい思想や哲学が諸宗派から出てくることはなく、大した進展のないことがわかります。これは科学研究の展開とは大きく異なる点です。
 人々を掌握するために仏教をうまく利用したのは江戸幕府徳川家康は二人の僧侶を巧みに使いました。一人は天台宗の天海、もう一人は臨済宗の崇伝です。天海は最澄を真似て江戸の鬼門にあたる上野に寛永寺を建立し、金地院崇伝は紫衣事件を起こしました。彼らは檀家制度を考案して総本山-大本山-末寺の体制を作り出します。幕府はキリスト教を禁止しましたが、その際、人々はいずれかの寺院の檀家にならなければならないとして、宗門人別帳という全員の名簿を寺院に作らせて、戸籍と宗教の管理という役割を寺院に任せたのです。それと同時に、本山末寺体制によって仏教教団の集金システムが完備されました。この二人の僧によって、仏教は本来の仏教思想から離れ、管理組織に変身していったのです。江戸幕府は実に巧みで、政治の指導原理を儒教とし、統治手法に仏教寺院を利用したのです。
 明治維新は仏教をやめようという廃仏棄釈運動や西洋文化を採り入れる欧化政策を取りました。これによって仏教教団は危機的状況に陥ります。江戸時代に檀家制度によって築き上げた経済力も版籍奉還によって所領の没収という形で壊滅的な打撃を受けました。ただし、浄土真宗は資産運用に所領の拡張という方法をとりませんでしたので、経済力の壊滅をうまく逃れました。
 明治以降、西洋との交流が始まり西欧の科学が入ってきました。実はこれが仏教にとって思想的復活の最後のチャンスでした。でも、この時点で復活できなかったために太平洋戦争時に各宗派こぞって戦争を肯定しました。その結果が今日の葬式仏教です。
 イギリスの言語学ジョーンズは、仏教経典の言語であるサンスクリット語インド・ヨーロッパ語族に属することを発見しました。サンスクリット語パーリ語というインドの古い言語の研究を出発点にして、19世紀には既に仏教経典の文献学的研究が相当に進んでいました。上座部仏教の経典が主な研究対象で、パ-リ語の阿含経典群などが含まれていました。これらの研究内容が日本に入ってくると、釈迦の考え方を比較的忠実に反映しているのは上座部仏教であって、それから大きく逸脱している大乗仏教は、実は仏教ではないのではないかという疑問から、「大乗非仏説論争」が起こります。その結果、大乗も釈迦の教説を正しく継承したものであること、またその大乗への変形は発展の必然的形態であるという肯定的な内容で決着しました。でも、この時点で既存宗派に自らの教義を再評価するような動きがあれば、現在とは異なる姿が見られたのかも知れません。