妙高市の住みよさと浄土真宗

 「あなたは幸福ですか」と聞かれて、平穏に生活するほとんどの人は「その通り」と答えるだろうが、ひょっとするとそれは錯覚に過ぎないのかも知れないと不安になる人もいることだろう。「自分は幸福か」と自問する場合は尚更で、幸福がまやかしなのか、不幸が偽りなのかわからないと、ついそんな問いを発したくなるものである。自分がこうだと思っていることが実はそうではないことが度々あると、次第に人は自らの判断に自信が持てなくなっていく。そんなこともあって、私たちが住む世界には白黒のはっきりしない事柄がふんだんに溢れることになる。
 ところで、「住みよさランキング」は、東洋経済新報社が公的な統計データをもとに、現在の日本の各市が持つ「都市力」を「安心度」、「利便度」、「快適度」、「富裕度」、「住居水準充実度」の五つの観点に分類し、15の指標について、それぞれ平均値を50とする偏差値を算出し、その単純平均を総合評価としてランキングしたもので、数値化された日本各市の住みよさの順位として発表されてきた。このところ3年ほどのランキングを見ていると、妙高市は着実に順位を上げてきた。そして、2017年発表の「住みよさランキング2017」では全国18位とさらに順位を上げて、新潟県では断然トップなのである。妙高市の場合、「安心度」と「住居水準充実度」の数値が高く、そのために高順位になっている。
 では、この数値に基づく順位は妙高に住む人たちの意識の中の住みやすさ順位とどれだけの相関があるだろうか。新潟県の市の中で断然トップであると実際に住民の人たちは感じているのだろうか。残念ながら、その調査はなされていないようである。私が推測するに、妙高市が日本の中、新潟県の中で格段に住みやすいと実感している人は半数に満たないのではないか。私自身はずっと妙高に住んでいないので、妙高が住みやすいかどうか皆目わからない。だが、住人からこんな快適な町はないといった高評価を聞いたことがなく、普通の小さな町だと思われているのではないか。今でも耳にするのは、日本有数の豪雪地帯であり、冬が厳しいという愚痴である。
 数値が正しいにもかかわらず、誰もそれを感じていないとなれば、錯覚のように誤っているのはいずれなのだろうか。誰もこんなことを真面目に考えないが、この認知上の錯誤が何であり、どうして生まれるかは今のところよくわかっていない。数値を盲信するか、自らの生活実感を信じるか、それによっていずれが錯誤か変わってくる。
 さて、妙高には浄土真宗のメッカとして遥か昔から日本の中で断然トップだったというもう一つ誇れることがある。妙高市に特定の宗教色などないとほとんどの市民が断じる。街を歩いても宗教的な看板やスローガンなどに出会うことはまずない。宗教的なモニュメントも見当たらない。陣場霊園の広告など見ても、他の日本の都市と何ら変わらない。宗教的なスキャンダルの話も聞いていない。越前、越中のようにかつて激しい一揆があったとも伝わっておらず、今の新井別院の場所にあった願生寺が異安心(いあんじん)事件でつぶされたことくらいがせいぜいの事件だった(今では市民の多くが「願正寺」が存在したことさえ知らない)。
 だが、ちょっと調べるだけで妙高市の寺院の9割以上が浄土真宗であり、これは新潟県だけでなく、真宗の中心と言われる福井、石川、富山の3県の割合(多くて8割強)を大きく離して断然トップなのである。旧新井市、旧妙高村、旧妙高高原町の何れでも真宗寺院が9割を超え、妙高はどの地域も真宗独占状態で、これが少なくても江戸時代から変わらないのである。この数字を信用するなら妙高市浄土真宗一色の地域で、人々は押し並べて信心深い門徒だということになる。
 「住みよさランキング」と同じように、数字の上では妙高市浄土真宗のメッカそのものなのだが、そこに暮らす多くの住民はそれを実感していない。だが、数値は断トツで、それゆえ市民は誤った実感をもっている。これは認知上の錯覚なのだと結論したくなる。「住みよさランキング」の場合と同じで、数値と実感のズレがあることになる。

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 さて、図は典型的な錯視図形である。図形としては同心円なのに、視覚的にはどうしても同心円には見えず、歪んだ輪のようなものが幾つも描かれているとしか見えない(図参照)。だから、私たちの視覚像が錯覚なのだというのが常識的な捉え方である。これをそのまま今の話に当てはめるなら、数値が示すものが実像で、意識される実感は虚像だと思いたくなる。
 だが、このように結論する人はいないのではないか。むしろ、寺院の数は他の地域と同じであり、たまたま真宗の寺院が多いだけに過ぎないのだと考える方が常識的なのではないか。また、「住みよさランキング」も住居が充実していて、安心だという点でトップにきているだけで、ランキングの計算の仕方を変えれば順位は変わるのだと冷静に判断する人が多いのではないか。
 真宗寺院が支配してきた妙高の過去に思いを馳せてみよう。北欧の都市に教会がよく見られ、教会の数が多いと気づくと、そこからキリスト教への信仰が根付いていると考えたくなるが、実情はまるで違っている。教会を取り壊すことができず、教会内部を本屋やバーに変えることが行われ、見かけの教会数と信仰は関係がなくなっている。これと似たことが妙高市にも言えるだろう。いや、それどころか妙高市の寺院も他の日本の寺院と同じく、遥か前から信仰の場ではなくなり、葬儀や法事の場に変わっていたのであるから、何の不思議もないのである。
 何とも夢のない、悲観的な結論である。だが、真宗独占の環境の中で信仰をもち続けた私たちの先祖は浄土真宗こそが正真正銘の仏教で、念仏を唱えることによって往生できると信じて疑わなかった。そして、信仰の上で対立する宗派がない環境で、念仏を唱え続けることができた。これは、一途な門徒にとって無上の幸せだったに違いない。矛盾するようなのだが、決して信心深いとは思えなかった明治生まれの祖父母が一心不乱に念仏を唱えていた姿が今でも時々思い出される。念仏を唱えることが生活習慣になっていて、日常生活の一つだったのである。
 妙高は本当に住みよいのか、浄土真宗のメッカなのか、数字と実感のずれからいずれが錯覚で、いずれが本物か、その答えを知りたくなる。知覚の錯視であれば、事は簡単で、本物と偽物の間は歴然と区別がつき、的確な判定ができる。だが、認知や意識のレベルのこととなるとそう簡単に本物と偽物の明確な区別、線引きはできなくなる。事実、妙高が住みやすいのかどうかは微妙な問題で、実際に住んでいない人には判定しかねるのである。その点、浄土真宗の方は妙高が特段に信心深い人たちばかりだとは住民自身が思っていない。信仰がもっぱら真宗に偏っている事実は確かに微妙だが、教育や他地域との交流によって仏教の現状や妙高の寺院分布を知り、妙高真宗を知る人が増えることによって、公平な判断が可能である。
 こうして、データと実感のいずれが錯覚なのかは妙高の人たち次第ということになる。

*調査対象の「住みよさ」と「住みやすさ」はいずれが適切な語彙だろうか。「歩きよさ」、「食べよさ」、「生きよさ」と言うだろうか。「歩きやすさ」、「食べやすさ」、「生きやすさ」ではないだろうか。