宗教集団:クリスマスイブに思うこと

 ユダヤ教が生まれたのは紀元前2000年頃、キリスト教は紀元後1年、イスラム教は紀元後700年頃になります。ユダヤ教の経典は旧約聖書キリスト教旧約聖書新約聖書イスラム教は旧約聖書新約聖書の4福音書コーランです。最初に旧約聖書ヘブライ語聖書)が作られ、ユダヤ教が誕生。その旧約聖書をキリストが改訂し、さらに新約聖書ができ、キリスト教が生まれます。そして、ムハンマドがそこから作ったのがコーラン。ですから、この三つは「姉妹宗教」で、信仰される神は同一。ユダヤ教のヤハウエ、ヤーヴェ、そしてイスラム教のアッラーも、呼び名は違っても「神」としては同じです。その上、三宗教すべての聖地がエルサレム
 クリスマスはキリスト生誕の日ですから、ユダヤ教イスラム教も25日は祝いの日ではありません。ユダヤ教ハヌカー、イスラム教はラマダンが特別の日々となります。
 三つの宗教は根は同じなのに仲はよくありません。でも、これは仏教でも似たり寄ったりで、宗派が異なるとやはり仲が良いとは言えません。その理由は簡単で、同じ宗教的信念を絆にして共同体をつくるのが宗教活動ですから、内と外を区別することが不可欠なのです。内も外もなく、誰にでも開かれている宗教があるかとなれば、そんな宗教はありません。ですから、それが宗教の限界なのだと言うことは簡単なのですが、それにもかかわらず、徒党を組むことによって有利な生活をするための紐帯が教義となり、共に神を信じることは自らの生活を安堵することとして、誰にも疑われずに信じられてきました。
 グループ、群れ、国、血縁集団、家族のどれを考えても、共通の絆で結ばれた人々の集まりです。互いに協力し、助け合って暮らすために大切な役割を果たすものと受け取られています。人はその集まりのメンバーとして仲間内では協力し合うのですが、同じような別の集まりのメンバーとは協力しないのが普通です。それどころか、競争し合います。ですから、生存闘争がくり広げられることになります。助け合うためのグループが競争し合うためのグループに変わるのです。集団で行われるスポーツやゲームも同じで、仲間内で一致団結して、敵を倒そうと頑張るのです。
 このような集団行動の特徴は宗教でも例外ではありません。同じ宗派では助け合いながら、他の宗派とはいがみ合う訳で、実に人間的なのです。宗教という聖的なものが宗教集団となるととても俗的なものに豹変するのです。この二面性にはさすがの神も手の施しようがありません。これこそ人間の人間たる所以なのであり、宗教が人間を救うとともに、その宗教集団が人間を不幸にする戦争を引き起こしてきたのです。
 では、どうすればいいのでしょうか。宗教集団、宗教組織をなくして、神と個人の1対1の関係だけを大切にすれば済むことなのですが、これはこれで弱い人間を救うことができなくなります。さらに、集団で生きるという人間の生物的な特徴に合致していませんから、宗教自体を不自然なものにしかねません。
 こんな次第で、国家、宗教団体、家族、どれも同根の問題を抱えた集団だということになり、神に何を祈ればいいのか憂鬱になります。聖堂で一緒に祈る人々の姿は聖的でもあり、俗的でもあり、アンビバレントな気持ちになり、ジレンマに陥るしかないのか、途方に暮れるばかりなのです。