シナアブラギリの実

 シナアブラギリ(支那油桐)の別名はオオアブラギリで、トウダイグサ科アブラギリ属の落葉高木。中国原産で、アブラギリほど多くはなく、野生化している。高さは10~12m、樹皮は灰褐色でなめらか、枝は太くて無毛、はじめ緑色で、のちに暗褐色になる。

 果実は堅果で、直径3~4.5cmの球形で溝はなく、先端が急にとがり、10~11月に熟すが、裂開しない(画像)。中には種子が4~5個入る。

 種子から得られる油は「桐油」として広く利用される。優良な乾性油で、現在でも中国から輸入され、塗料など広汎に利用されている。

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知識、情報、そして文脈(2)

2物語とシナリオ(Global Story or Local Story?)
(知識、情報を物語化する:人間的な知識=物語としての知識)
 誰かが「東京ファースト」と言うと喝采を浴びるが、別の誰かが「アメリカファースト」と叫ぶと、ブーイングの嵐。この違いは一体何なのか。人々の評価はグローバルとローカルに関してかくも異なるもの。一体なぜこのような違いが生まれるのか。東京なら保護主義とは呼ばれず、アメリカだとモンロー主義と非難される。知識は普遍的であることが望ましいが、最近はそれがグローバルと混同される場合が増えた。同じように、特殊で専門的知識と局所的な知識も異なる。「普遍-特殊」という対と「グローバル-ローカル」という対は似て非なるもの。
 知識、情報について「普遍的=グローバル」というのが正しいという信念はこの数世紀揺るぎないもの。というより、その信念が真理だと暗黙に前提されてきた。その一方で、民族や地域に応じて異なる知識があったことが忘れられつつある。局所的で、孤立し、分断された概念が、伝統、文化、習慣、常識等には必ず含まれているのだという主張はもはや記憶にしか残っていない。だが、異なる歴史、文化をもつ地域が散在し、互いにわずかな交流しかないという状況がかつての世界のあり方だった。かつての地球には辺境が幾つも存在していた。それは時にはよいこともある筈なのに、いつの間にか一律に弱点、欠点だと見做されるようになり、世界中が同一の基準、製品、文化、暮らし向きをもつことがよいことであり、それを推進することが善だと誤解されている。
 では、知識や情報についての民主主義、自由主義グローバリズムは地域の振興や復興、活性化に対してどのような意味をもっているのか。異なった知恵、コツ、技、身のこなし、生き方などが伝統、文化として、歴史的にそれぞれの地方に独特の仕方で根づいてきた。それは外部の人たちから見れば、内在主義的な知恵、その地域だけに共通する閉鎖的な意識や制度であるから、地域の伝統を守ることは、見方によっては反グローバリズム反自由主義だと解釈されることになる。
 自己中心的な家族主義、民族主義は大概否定的に受け取られ、復興や振興は新知識、新技術を使ってダメージを受けた箇所を治療することだと見做され、知識をどのようにうまく地域に適用するかだけが高く評価され、そのために正確で効率的なコミュニケーションを図る必要があると考えられている。知識や技術の情報化とは地域や心身への知識の適用を最適化することだと信じられている。グローバルなものとローカルなものが相反する様相を呈する場合、世界基準か地域基準かの選択が求められ、疑いなくグローバルなものが優先される。そしてその優先理由は、グローバルなものは普遍的で正しいというとんでもない誤解に基づいているのである。まずは、知識を使うことが知識の物語化なのだという基本的なことをはっきりさせておこう。

(1)
 知識を整理していけば最終的に理論にまとめ上げることができる。その理論に文脈をつけてモデル化すると、物語ができる。そこで様々な理論を思い浮かべながら、理論がどのように物語性を獲得できるのか探ってみよう。医学の知識を使って治療することは、医学的知識の物語化の一例である。
 まずは、最も物語とは縁遠いと思われている数学。数学理論の例としてユークリッド幾何学を取り上げるなら、そこに登場するのは点や線、面や図形といった一群の対象である。ヒルベルト流の形式主義では数学的対象は単なる記号で構わないのだが、ギリシャ以来点、線、面といった対象として解釈されてきた。「点が集まると線になる」が、その線をつくり出す物理的過程は物語には登場しない。点をどのように並べると線になるのかという実際の細部にはこだわらず、「線を引く」という私たちの行為を信用して、「点から線が生まれる」ことが物語では前提されている。そもそも点とはどんな対象なのかさえ定かではないのである。プラトン的なイデアは極めて曖昧な存在ではあるが、数学的な世界の空想物語には十分な存在。
 次は物理学の物語。すべての科学に共通する実証的な実験や観測は因果的でなければ実行できず、それゆえ、実験や観測の手続きは本来因果的あるいは物語的になっている。つまり、実証的=手続き的=因果的=物語的なのである。さて、物理学の肝心の対象は「運動」。運動の原因や結果は運動の一般的な記述とは別に特定の状態(状況)として考えられる場合がほとんどである。そうでない場合は運動法則に言及するだけで説明や予測ができ、因果連関を持ち出す必要はない。どのような個別の状態(状況)として解釈されても、運動法則の一般的適用は同じようになされる。
 化学の物語に登場するのは元素。運動と並んで物質の構造の解明に人々は好奇心をもってきた。原子論はギリシャ以来の物質と運動についての優れた理論。原子という不変の粒子の組み合わせによる物質と運動の説明は実に見事な仮説である。だが、それが化学的な原子論仮説になるには18世紀まで待たねばならなかった。「XはYからできている」という謂い回しは「XはYの原因である」という謂い回しと並んで、常識科学(folk science)の基本中の基本にある「物語の核」になっている。
 生物学の物語となれば、生命。今は誰も信じていない「生気論」は、生命は他のどのようなものにも還元できない原理であると主張した。その生気論の基本文形となれば、「Xは生きている」という表現。
 これら物語に登場する主役たちはいずれも正体不明で、謎に満ちた対象。それらは私たちの知識を生み出し、好奇心を掻き立てるもので、永遠の謎、憧れである。知識はそれら謎の原理を主役とする物語によって生まれ、物語によって脚色され、物語によって修正、変更され、その過程そのものがまた物語になっている。物語の筋は因果的な過程の青写真。主人公と主な登場者がどのように因果変化をするかの叙述が物語になっている。例えば、デカルトの方法的懐疑のシナリオ、それぞれの人のもつ人生という物語は、私たちが何かを考えるだけでなく、疑い、信じ、恨み、苦しむという心理レベルの物語になっている。
 信念、そして知識、さらには感情や欲求の内容は本質的に因果的、それゆえ、物語的である。論理や言語は論理的、形式的な規則をもっているが、それは表現レベルの話であり、論理や言語を使って表現される内容は因果的、歴史的、それゆえ物語なのである。情報は物語的で、物語的でない情報は暗号化された情報で、そのままでは理解できない。
 これまでの話は科学知識についてのもので、その物語化は素直に行われればグローバルなものになる。だが、グローバルなものとローカルなものの違いは本質的ではなく、文脈づくりに応じて変わるものというのが私の見立てである。知識の理想は普遍性にあり、その特徴がそのままグローバルな物語の一方的な採用につながったというのがここまでの議論からの結論。

(2)
  因果性(causation)は人間が太古より変化を捉える際の暗黙の基本原理。神話や物語は因果連関に基づいて構成され、基本原理を具体化したもの。アリストテレスの4原因説は因果的世界観の骨格の要約だが、これは仏教世界でも同じことで、因果性は「縁起」、「空」、「因縁」などと様々に呼ばれてきた。私たちは自分の住む世界を因果的に理解するという習慣をずっと守り続けてきたのである。それは私たちの言葉遣いにも色濃く反映されていて、「ならば」という接続詞は論理的な「ならば」だけでなく、因果的な「ならば」も意味し、兼用されてきた。「因果性」概念を理論から追放した物理学でさえ、その理論を解釈する際には現象変化を因果的に解釈をせざるを得ない。というのも、そうしないことには私たち自身がその理論を使って現象変化を理解できないからである。
 因果性は「縁起」と呼ばれ、仏教の根幹を支えている。「縁起の法」は、釈迦の悟りの本質で、「すべては種々の因(直接の原因)や縁(間接の原因)によって生じる」と説く。つまり、すべての事物は、そのもの自体で独立して存在しておらず、原因や条件に依存して、他の事物との関係の中で生起している。世界のすべてのものは、相互依存によって存在し、自分だけで自立的に存在しているものはない。これは考えてみれば当たり前の話で、世界がバラバラで相互に何の関係もない事物からなっているとは誰も考えない。縁起の法は、過去の原因が未来の結果を生むといった時間的な因果関係だけでなく、時間、空間を含むあらゆる現象にかかわる法と解されている。
 大乗仏教では「空(くう)」「無自性(むじしょう)」「仮(け)」が強調される。縁起の法に基づいて、「すべてのものは、固定した実体がない=空である」、「すべては無自性で、実体として存在しているのではなく、仮に設定されたもの、現象したものである」という結論が導き出される。日常生活で「現実、現象」と呼んでいるもの、つまり出来事の集まりは縁起の法に基づいている。 私たちの日常世界は、私たちの感覚器官を通して入ってきた情報を脳で処理し、解釈したものにすぎない。それは五感と脳によって情報処理されたものであって、実際に外界に存在しているもの自体ではない。
 この意味で、生き物が経験している世界は、それをとらえる生き物の側の、様々な肉体的、精神的な条件によって、作り出される仮象に過ぎない。だから、「現実とは、生き物の数だけ存在する」。つまり、現実とは「観察する主体」と「観察される客体」との相互関係によって現れてくるものに他ならない。 縁起の法は、「すべての事物は相互に依存しあって存在し、独立した実体を有さない」と説き、「私たちが経験している世界の現実は、私たちの心の現れである」という仏教思想の基本になっている。つまり、仏教は正真正銘の観念論。
 観念論的世界観は感覚知覚により大きな役割を与え、情報を個人の心に生まれるものとする場合が圧倒的に多いのだが、仏教はそのわかりやすい例である。だが、観念論、唯心論が世界の構造や仕組みについてパラダイムシフトを何度も繰り返し、新たな知識を生み出す仕組みを供給できなかったように、仏教も他の宗教と同じように知識のパラダイムシフトを起こすことはできなかった。それは実証的な追及をしない宗教の限界で、シフトは解釈に限定されている。

(3)擬似科学概念:真偽が浮動する
 タイトルは「擬似科学」となっているが、「擬似概念」でも「擬似科学」でもなく、「擬似的な科学概念(pseudo scientific concept)」のこと。擬似科学概念は多岐にわたるが、「個性、種差、生物多様性外来生物地球温暖化」などがここで話題になる概念群である。
 生物多様性(bio-diversity)は環境省がずっと目玉にしてきた概念だが、その環境省地球温暖化(global warming)という概念に目標を鞍替えしようとしている。科学概念によく似ていて、一時は科学概念として扱われたことがあったり、今では科学概念としてピントがずれていたりで、科学概念に何かが加わった、あるいは欠けたものと考えるのがいいのだろう。要は、科学概念ではないが、科学概念であるかのように扱われ、使われてきた概念で、社会では純正の科学概念より親しみがあり、よく使われている科学的な装いをもった概念のことである。だから、腹黒く賢い行政はそれら擬似科学概念を使って政策を具体的に推し進めよう、仕切ろうと四苦八苦するのである。擬似的でない、いわば純粋の科学概念はとても地味で、融通の利かない形式的なものだが、擬似科学概念は解釈された、つまり、情報化された概念で、わかりやすい性格をもっている。
 擬似科学概念の正体はあやふやで、得体が知れないところがあるのだが、実はこの概念こそ私たちの生活世界を支えている最も重要な代物なのである。政治や経済、倫理や宗教、文化や芸術の領域では擬似科学概念こそが市民権をもった主要概念で、それら領域で議論する人たちはこの擬似科学概念がなければ飯が食えないようなものなのである。戦争も平和も、国家も民族もあらゆる概念は科学的には擬似的なものと言うと、科学概念が如何に幼稚で大人の権謀術策には向かないかの証拠になってしまうが、それが事実そのものなのである。科学世界と生活世界のインターフェイス擬似科学概念なしには存在しない。「因果性」はそのようなインターフェイスを支える擬似科学概念である。ここまで書いてくると、擬似科学概念は常識概念(folk concept)ではないかと思う人が多いのではないだろうか。重なる部分が多いのだが、二つは異なると考えられるゆえにあえて擬似科学概念という耳慣れない用語を使ったのである。
 ギリシャ以来の哲学概念、神学概念はこぞって擬似科学概念であり、大半は科学概念の先駆けとなるものだった。イギリス経験論哲学、ドイツのロマン主義哲学等の哲学理論に登場する概念も典型的な擬似科学概念である。そこから生まれる法学、政治学、そして経済学の概念も擬似科学概念に基づいている。ここで注意しておきたいのは「擬似」と「似非」の違いである。似非概念は誤っていますが擬似概念はそうではない。存在論や認識論の「存在」も「認識」も擬似科学概念である。理性、悟性、感性といった大雑把な区別も擬似的である。
 擬似概念は実は本家の科学内にも多い。肝心な点は、科学者が擬似概念がどのようなものか知っているか否かである。実際、職業的な科学者は知っている。だから、彼らは科学概念とメタ科学概念というような区別をしたり、実証的な裏付けがない場合には「仮説」であることを強調する。一方、社会科学者は擬似概念だけで育ってきた人が意外に多く、何が擬似的で何が真正かの区別をしないことがしばしば起こる。それは政治学者と政治家の違いというと分かりやすいだろう。両者とも擬似概念の海で泳いでいることに変わりはないが、政治学者は概念の脆弱性を知悉していて、専門的な議論と評論をしっかり分けるが、政治家は概念をどう使うかに執心し、議論してその勝敗にこだわる。
 「個性」は個体の性質だが、今では他の個体との違いが強調され、「自分らしさ」のことと考えられている。これを科学概念として定義する術を私たちは知らない。「生物多様性」も「外来生物」も、そして「地球温暖化」も最近よく聞く概念だが、これらも典型的な擬似科学概念。生物多様性は地域に棲息する生き物のにぎわいのことだが、大変に文脈依存的で「にぎわい」を定義する具体的な術はない。「外来生物」が一見生物学的に見えても、それが法的な概念であることを見抜くのは簡単である。大航海時代以前には外来生物の概念はなかった。だが、これら概念があることによって私たちは環境保全について個性的な議論を展開できるのである。
 擬似科学概念はこれまでの私たちの表現では特定の文脈で物語的に解釈された知識であり、明らかに情報として日常生活で活用されている概念である。擬似科学概念のお蔭で私たちは生活上の希望や不満を語ることができ、政治や経済について思う存分議論ができる。科学者は科学概念を巧みに使って記述・説明しようとするが、私たちは擬似科学概念を使って奔放に議論し批判し合うことができるのである。

タマスダレ

 タマスダレ(玉簾)は、ヒガンバナ科タマスダレ属の球根草。玉簾という和名の由来は、白い小さな花を「玉」に、葉が集まっている様子を「簾」に例えたことによる。南米が原産で、日本には明治時代初期に渡来。日本の風土にも良く適応し、半野生化した群落が見られる。画像も半ば野生化したもの。

 タマスダレの花は20cmほど伸びた花茎の頂点に1つだけ上向きに咲く。純白の美しい花で一つだけでも美しいが、群がって咲く様子も絵になる。花は、日が当たる頃に開き、夕方になると閉じ、数日咲き続ける。

 タマスダレヒガンバナ科の植物なので植物全体に毒性がある。鱗茎や葉にリコリンというアルカロイド成分が含まれていて、誤食すると嘔吐、痙攣などを起こす。

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知識、情報、そして文脈(1)

1知識と情報
 「知識(knowledge)」という言葉は意味深で、実に曖昧。「知識」という名詞が使われるとき、「知る(know)内容」と「知り方」の両方を指しているようである。認識論では「知識とは正当化された真なる信念」と定義されてきた。では、誤った知識はないのか、という疑問がすぐに頭に浮かぶ。何かが不自然だと感じる向きは、きっとデカルト的な知識概念が残っているからだと推量する。認識という観点からは、「知る」とは「気づく」ことであり、「気づく」ことは「意識する」ことであると考えられてきた。知る内容は真なる信念であり、知り方は観念を駆使した何かの気づきである。信念が真であることは、デカルトの場合、明晰判明な観念によって保証されている。このデカルト路線は「知る」ことの基本と信じられてきた。
 この観念論的な特徴づけに経験主義的要素を加味すると、「正当化された」という言い回しが具体化されることになる。正当化するには経験的な手続きが必要であり、正当化が知識には必要だという主張は正に経験主義の主張となる。その経験主義的な知識論のエッセンスを具体的に実行するのに不可欠なものとして採用されたのが「情報」概念。経験主義的な知識を「情報」という用語で表現したと考えると、すべてはすっきり解決するかのように思えてしまう。情報とは具体的な正当化がなされた知識のこと、情報とは外在化された知識内容のこと。それゆえ、デカルト的ではないイギリス経験論での知識は実は情報のことだと考えると筋が通るように思われ、これで一件落着となりそうである。
 だが、話はそう簡単ではない。デカルト派が知識、反デカルト派が情報という単純な区別ですべてに決着がつく訳ではないのである。その辺の事情を少々丁寧に振り返ってみよう。
<知識と情報は同じ、それとも違う?>
 「知識とは何か」を知るには認識論を、「情報とは何か」を知るには情報理論を学ぶというのが定番のやり方。では、知識と情報はどのように重なり合い、どのように異なっているのか。わかっているようでありながら、考え出すといつの間にか迷路に入ってしまう問題である。だが、二つの用語の使い分けがある程度できているためか、それぞれの語の誤用については相当に敏感である。次のような文について考えてみよう。

・彼の物理学の知識は豊富なものだが、最近の物理学者の人間関係の情報は信用できない。
・ビジネスの成功には十分な情報が不可欠だが、経済学の知識は必ずしも必要ではない。
・試験で高い点数を取るには知識が不可欠だが、試験問題の作成者の情報は重要ではない。
・安全な漁には気象学の知識より、気象予報の情報が必要である。

これら例文を読めば、明瞭に基準を述べることができなくても、基準があることが仄見えてくるのではないか。各文の「知識」と「情報」を入れ替えてみると、何かがおかしいとすぐに感じるだろう。そのおかしさの感じは、「数学の情報と、新聞や週刊誌の知識」という表現にある。だが、この表現を「数学の情報」と「新聞や週刊誌の知識」との二つに分けると、そのおかしさは四散する。この不思議で微妙な違いを誰もが認めるだろうが、その違いを明示的にするにはどうしたらよいのか、それを探るのがここでの私の目的。
 ところで、知識には信念と真理が必要とされている。つまり、信念と真理は知識にとっての必要条件。では、それらは十分条件か。この問いに対して次のような説を考えてみよう。それは知識についての「正当化された真なる信念」説である。この説の主張を具体的に述べれば次のようになる。

どのような個人S 、命題pについても、「S がpを知る」とは次のことと同じである。
・ Spを信じる。
・ pは真である。
・ Spを信じる正当な理由をもつ。

 さて、「正当化された真なる信念」説は正しいだろうか。この説が正しければ、正当化された信念と真理は知識の必要十分条件ということになり、私たちが常識的に考えている知識概念が得られる。知識が単に信念や思いつきでないのは、それが正当化されている、証拠をもっている、理由をもっているからであると言われてきた。この伝統的な見解はプラトンの『テアエテトス』やカントの『純粋理性批判』において述べられ、「知識とは正当化された真なる信念である」と要約されてきた。(この伝統的見解に対し、正当化された真なる信念であっても知識とは呼べない場合があり、したがって、知識の伝統的な分析は誤っていることを示したのがゲチア(Edmund Gettier, 1927-)。 (“Is Justified True Belief Knowledge?”, Analysis, 1963, Vol.23, pp.121-23) )
 以上で復習は終わり。次はデカルトの基礎付け主義(foundationalism)の話。アリストテレスに始まる基礎付け主義は知識全体を建物の基礎とその上の階層的な構造の比喩で捉える。あらゆる知識は疑い得ない基礎となる知識をもとに組織的に構成されていなければならない。知識が基礎付けられていなければ、それは疑い得ることになる。デカルトは「方法論的懐疑」で有名であるが、その目的は懐疑論の克服。彼は懐疑をすべての対象に適用し、懐疑テストにかけた。そのテストの結果、経験的な信念だけでなく、理性的なもの、例えば数学的命題も疑い得ることになり、いずれも懐疑テストをパスしないことがわかった。しかし、そのような懐疑テストをパスするものが一つだけあった。「私が考えていることを私が疑う」ことを私は疑うことができない。私は「私が考えている」という命題を信じ、しかしそれは誤っているという可能世界を考えることができない。だから、「私が考えている」という命題は懐疑テストをパスする。したがって、その命題を疑うという試みはそれが真であるに違いないことを証明する。これが有名な「われ思う、ゆえにわれあり」(Cogito ergo sum.)である。
 デカルトの論証を理解するために、心的なものの訂正不可能性のテーゼを次の推論を通じて考えてみよう。

私の前に黒板がある
私の前に黒板があると私は信じる
私がそれを信じるなら、私がその信念を持つことは正しいに違いない。

デカルトの知識の基礎についての目論見には、「私が考える」、「私が存在する」を含む「私」に見える世界についての一人称の報告が含まれている。主体の経験内容は主体の心の外にある世界の有様については何も語らない。主体が表象する経験内容についての一人称の報告をデカルトは疑うことのできないものと見なした。「私は痛い」と私が信じれば、私は痛いのだというのがデカルトの見解である。
 さて、この訂正不可能なものを使ったデカルトの論証はどのようになっているのか。

(1)私は今私の前にあるのが黒板であると信じる。
(2)私の現在の信念は明晰にして判明である。
(3)明晰にして判明な観念は真である。
したがって、私の前には黒板がある。

デカルトの基礎付け主義は、この論証の前提が疑うことができないものであること、この論証の結論が私たちの知る命題であること、の二つからなっている。前提は訂正不可能なもので疑うことができない。したがって、その結論も疑うことができず、私たちは結論を知ることができる。
 しかし、(3)が正しいとしたとき、(2)も正しいだろうか。つまり、私の現在の信念は明晰にして判明であるだろうか。逆に(2)が疑い得ないとしたら、(3)も疑い得ないのだろうか。「明晰にして判明」は純粋に主観的な信念だろうか。そうならば、その信念が真であることはどのように得られるのか。また、「明晰にして判明」が真であるための必然的な特徴であるなら、信念が明晰にして判明であることはどのようにわかるのか。このような疑問がデカルトの論証について噴き出してくる。
 そこで、デカルトとは違う、知識の信頼可能性理論を取り上げてみよう。デカルトの論証によれば、知識は「内的に」保証可能である。前の論証は主観的な前提、客観的な結論、そして結合前提(主観的前提を客観的結論に必然的に結びつけるもの)からなっていた。デカルトの知識についての理論の特徴は次のように言える。もし主体が結論の真であることを知るなら、そのとき主体は結合前提が真であることを知らなければならないし、また、そのことを感覚経験とは独立に知っていなければならない。つまり、知識は内的に保証可能である。これがデカルトの内在主義(internalism)である。
 このデカルトの知識論とは異なり、結合前提は内観やアプリオリな推論によって知られる必要はないというのが知識の信頼可能性理論(reliable theory of knowledge)である。例として、温度と温度計、そして温度表示を考えてみよう。温度計は部屋の温度を計り、それを表示する。部屋にある温度計が信頼できる温度計であれば、そこに表示される温度を正しい室温と考えるだろう。この過程と同じように知識を考えたらどうなるか。次の比較を参考にすると、知識の信頼可能性理論の意図が見えてくる。

温度計の目盛りの値が外界の温度を表示する ⇔ 君の信念が心の外の世界を表示(=表象)する
温度計の目盛りの値が正確(不正確)である ⇔ 君の信念が真(偽)である

では、信頼できる温度計とはどのようなものか。それは偶然に目盛りの値と温度が一致するものではなく、いつも一致するものでなければならないだろう。では、信頼できる温度計は存在するか?当然そのような温度計は存在する。それは次のような信頼性の条件を満たせばよいだろう。

温度計は正しい環境で使用されなければならない。
温度計の内部の構成は正しくなければならない。

このような信頼できる温度計がそれの計る正しい温度を通じて外界に関係しているように、個人が真なる命題を通じて外界に関係しているなら、その人はその命題を知ると言えるだろう。これが知識の信頼可能性理論の主張である。デカルトと対照的に比べてみると次のようになる。

信頼可能性理論では、S がp を知るとは次のことである。
(1) S はpを信じる。
(2) p は真である。
 Sがいる環境において、Spを信じるなら、pは真でなければならない。
 それゆえ、pである。

一方、デカルトでは、S がp を知るとは次のことである。
(1)Spを信じる。
(2)Spについての信念は明晰にして判明である。
  明晰にして判明な観念は真である。
  それゆえ、pである。

デカルトと信頼可能性理論との知識の特徴付けの違いは内在主義と外在主義(externalism) の違いである。「真」なる知識の保証はデカルトでは精神に内在的なものによって与えられるが、信頼可能性理論では環境によって外在的に与えられる。
 このような区別を信じるなら、デカルト風の内在主義が伝統的な知識像に対応していて、外在主義的な立場が情報概念の根本にあると推察できそうである。内在的な知識の外在化が情報という訳である。知識を経験的な装置や方法によって保証しようという考えは情報を考える基本枠組だと捉えることができる。とてもわかりやすく、最初に述べた知識と情報の不思議で微妙な違いが見事に説明でき、それだけでも納得できそうに思える。まずは、その美酒に酔うのも一興だが、真実は違う。その真相は後に考えよう。

タイタンビカスの夏

 アオイ科フヨウ属のタイタンビカスは、アメリカフヨウとモミジアオイの交配により誕生した宿根草。ですから、タイタンビカスはフヨウやハイビスカスに似た花を咲かせます。高さは2mほどになり、花も20㎝ほどと大きく、花は蕾が多く毎日のように花を咲かせ、夏の間、楽しむことができます。

 開花時期は6月中下旬ごろより9月末までで、一シーズンで1株あたり200輪以上咲きます。梅雨が明けない今でも、この花は夏を強烈に感じさせてくれます。花色も種類があり、色のバリエーションを楽しめる。ネオン、プレアデス、ピーチホワイト、エルフと、赤から白までの変化は見事です。

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錯知

 知覚を理解するうえで錯視、錯聴は重要な役割を演じています。それと同じような役割をもつのが、知識を理解する上での錯知あるいは錯識です。「錯知」は耳慣れない言葉ですが、その中身をまず知っておきましょう。
 錯視が「見る」ときの錯覚、それに対応するのが、「知る」ときの錯覚で、それが「錯知」です。錯視は誤った知覚ではありません。見ている対象をそのまま正しく知覚してはいないのですが、誰もがそのように見てしまい、その見えが正しいと思ってしまいます。平行線が正しい数学的対象であるにも関わらず、見えている線は平行には見えないのです。つまり、視覚装置を正しく使用することによって、視覚の対象は正しくないように知覚されるのです。

 さて、知覚ではなく知識について考えてみると、「思い違い」など始終起こります。「勘違い」や「記憶違い」といったことが起こり、それは視覚や聴覚の錯視、錯聴によく似ています。
 知識について錯知を考えてみましょう。アリストテレスの自然学は私たちの目的的な世界像が知覚される世界に合致する仕方でつくられていて、常識的な知覚像を説明する理論になっています。重いものは知覚でき(感じることができ)、その重さを本性として持つものは、思いゆえに下に向かって落ちていきます。その落下運動は私たちが眼で見て確かめることができます。これを疑うデータは知覚レベルには何もありません。ですから、アリストテレスのこの考えが誤りだということは錯視の場合に似ていて、「落ちる」という知覚は正しいものではないにもかかわらず、私たちには「落ちる」ようにしか見えないのです。
 これはニュートンのリンゴの落下の説明で正され、重力を使った説明に代わることになります。これでアリストテレス自然学の錯知は是正されるのですが、ところが、ニュートン力学は別の錯知をもっているのです。それが古典的な世界像を生み出すいくつかの仮説で、後に相対性理論量子力学によって是正されるものです。いずれ、丁寧にどのような意味で錯知なのか考えてみたいと思います。また、錯視と錯知の間の関係も明らかにする必要があります。感覚レベルの錯覚と知識のレベルの誤りはもっとずっと複雑な筈です。
 次に、理論の解釈が二つ以上あり、いずれも誤ってはいないと考えられる場合、それら解釈は錯知でしょうか。一つの理論に対して解釈が複数あり、しかもそれら解釈が異なっているのですから、どれかが正しく、どれかが誤っている筈です。そのような理論の代表例が量子力学で、複数の異なる解釈が存在し、錯知と結びついているように見えます。
 無神論者から見れば、宗教的な信念や教説は錯知そのもので、思い違いの最たるものということになります。科学哲学者にとっては伝説や神話も同類の誤りだと考えることができます。普通の人でも伝承や言い伝えは錯知の塊だと思う筈です。錯視と同じように錯知が溢れているのなら、人々はどうしてそのことを議論し、語らないのでしょうか。真偽の議論をする上で錯知は重要な役割を演じています。真偽の決定に必要な経験的なデータは知覚と知識の微妙なバランスのもとで判断されている場合が多いからです。

コザクラノボタン(小桜野牡丹)

 コザクラノボタン(Centradenia 'Pink Pearl')はノボタン科ケントラデニア属で、原産は中央アメリカ。淡いピンクの花が、茎頂付近に集散花序で多数咲く。花は小さく可憐だが、花数が多いので、見応えがある。草丈はあまり高くならず、よく分枝して、横に拡がる。葉はやや赤味を帯びる。コザクラノボタンという名前で流通するが、ノボタンとは属が異なる。開花時期は7月中旬で、まだ咲いている(画像)。

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