自然を感じ、味わう:「雪月花」

 雪の中の花は文字通り「雪中花」だが、それはスイセンのこと。「雪中梅」となれば、人は上越の酒だと即断するが、『雪中梅』は、末人鉄腸の有名な政治小説。この小説の初版は明治19年。酒の「雪中梅」は昭和初期にでき、雪の中に咲く梅の花のような穏やかな味わいの酒、という意味らしい。「花鳥風月」は自然の美しいものや風景を、「雪月花」は日本の四季折々に楽しめる美しい風景を意味している。微妙な意味の違いがあっても、beauty of natureのこと。

 そこで、「雪月花」とは何かと尋ねられれば、「えちごトキめき鉄道の列車の愛称」と答えるのが上越の人たちの今の常。その名称は、一般公募され、「えちごトキめきリゾート雪月花」に決定したとのこと。そして、その説明によれば「夜桜の春、山と海を体感できる夏、紅葉と収穫の秋、雪景色の冬など四季明瞭な沿線の折々の景色を愛で地元の旬の食材が堪能できる極上リゾート車両をイメージした名称」と褒め殺しの文句の羅列で、意味不明。とはいえ、「雪月花」はなかなかの名称で、乗ってみたくなるのは必定。だが、コロナ禍のために6月14日まで運行停止とのことで、悲しい限りである。

 「雪月花」は、「長恨歌」などで日本でも有名な白居易(白楽天)の詩「寄殷協律」の一句「雪月花時最憶君(雪月花の時、君を最も憶ふ)」の一部。白居易は江南にいたときの部下殷協律に長安からこの詩を贈った。この詩の「雪月花の時」は、四季折々を指す。そうした四季折々に、遠く江南にいる殷協律を憶うと詠っている。日本語の初出は『万葉集』巻18に残る大伴家持の歌。「宴席詠雪月梅花歌一首」と題して「雪の上に 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ 愛しき子もがも」(4134)の歌がある。明るい月夜に、雪と花をあわせて和歌の題材としたものである。

 このような能書きはそれとして、私が「雪月花」で想起するのは喜多川歌麿の「雪月花」三部作。喜多川歌麿は美人浮世絵の巨匠として有名だが、彼の肉筆画に「深川の雪」、「品川の月」、「吉原の花」があり、それが歌麿の「雪月花」。特に、「深川の雪」は長い間行方不明になっていたのが近年見つかり、大いに話題になった。
 えちごトキめき鉄道の「雪月花」を白居易歌麿の「雪月花」に殊更関連づける必要などないのだが、白居易喜多川歌麿がえちごを走るのも一興ではないか。ただうまいものを食い、飲み、車窓の景色を愛でるだけでは芸がない。えちごの「雪月花」で風景だけでなく、文学も芸術も存分に楽しむ方がよいに決まっている。

 とはいえ、えちごトキめき鉄道の「雪月花」はまだ暫くは運行停止。その間に、雪月花(そして、花鳥風月)によって端的に表現されている(中国由来の)古典的な自然観が、(国立公園の)環境保全と両立するのかどうか、考えてみるのもよいのではないか。

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「深川の雪」

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「品川の月」

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「吉原の花」

 

コバンソウとヒメコバンソウが群生する世界

 コバンソウ小判草)は地中海沿岸を原産とするイネ科の一年草です。明治時代に観賞用として渡来し、現在は野生化していて、道路の端や荒地・原野に生息しています。和名が示すように、まさしく小判によく似た花穂が特徴。春に柔らかくて細いみどり色の葉をだし、晩春ごろから初夏にかけて、茎の先に円錐形の花柄を出します。そして細い茎に数個ずつ、まばらに花穂をつけます。長さ1-2cm、幅1cmぐらいの大きさ。花びらは雄しべや雌しべの根元につく「りん皮」と呼ばれる小さな突起で、花びらが退化したもの。初めは緑色をしていますが、熟すると黄緑色を帯び、さらに次第に色づき、夏も遅くなる頃には、黄金色に輝きます。この時期の細い柄につり下がった姿は、まるで小判や昆虫の卵と間違われるような形で、長い柄に垂れ下がり、風に揺れる姿は風情があります。

 ヒメコバンソウもイネ科の一年性植物で、茎は直立し、無毛の細長い葉を持ちます。ヒメコバンソウの方が先に日本に来ていたようで、一説には江戸時代との記述がありますが詳細は不明。長崎の出島を通してオランダ人が持ち込んだようです。別名はスズガヤ。花は長さ5-15cmの円錐花序で、淡い緑色を帯びた5個内外の小さな花(小穂)をつけます。小穂を振ると、かすかな音をたてることからスズガヤとも呼ばれます。

 野原や道端で群生したコバンソウやヒメコバンソウに出会うと、立ち止まり、見入ってしまいます。初夏の風が小判のような穂を揺らし、音を出します。

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コバンソウ

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コバンソウ

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コバンソウ

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ヒメコバンソウ

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ヒメコバンソウ

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ヒメコバンソウ

 

悪い植物と善い植物

 ジギタリスゴマノハグサ科に属し、Digitalis(ジギタリス)はラテン語の「digitus(手袋の指)」が語源。和名の「狐の手袋」は、英名「Fox glove」の直訳。今満開の美しい花姿から広く愛されているが、実は全草にジギトキシンなどの強心作用のある毒性物質を含む危険な有毒植物。最悪の場合は心臓機能が停止して死に至るという恐ろしい猛毒をもつ。地中海沿岸を中心に中央アジアから北アフリカ、ヨーロッパに20種あまりが分布する。ヨーロッパでは不吉な植物としてのイメージがある。いけにえの儀式が行われる夏に花を咲かせることから、「魔女の指抜き」、「血の付いた男の指」などと呼ばれていた地域もある。

 スイカズラ(吸い葛)はスイカズラスイカズラ属の常緑つる性木本。別名はニンドウ(忍冬)やキンギンカ(金銀花)。名前の由来は、花に甘い蜜があり「蜜を吸うつる植物」だからスイカズラ(吸葛)だと言われている。実際に口に含むとさらっとした甘さの蜜を少しだけ味わうことができる。スイカズラの花はバラやクレマチスのような華やかさはないが、その香りは素晴らしい。ソメイヨシノの桜が終わった頃、どこからともなく甘く爽やかな香りが漂ってきたら、それがスイカズラ。花の色は、白から黄に変化していく。このことから中国では「金銀花」と呼ばれる。薬効もあり、解熱、神経痛、リウマチ、口内炎に使われてきた。

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目的:物語の重要な要素

 私たちの生活世界を私たちは物語として理解しながら生きています。物語は科学的な説明と違い、原因と結果、目的と達成の二つの原理から成り立っている説明です。人の一生も物語ですから、そこから歴史も物語であることが想像できます。「親子、家族、人生、目標、…」などはこれら二つの原理の下で意味をもつもので、生き物の世界の原理といっても言い過ぎではないでしょう。一方、科学的説明の原理は前提と結論の論理的な原理です。通常、原因と結果を使った説明は科学的と呼ばれていますが、この意味での因果的な説明は歴史まで含むものではありません。目的を使って行われる説明は生物や生命現象、人の行為に対する説明としてアリストテレス以来使われてきたものです。ギリシャ時代以来目的を使った説明を支える目的論(teleology)は世界のあらゆる現象、出来事に適用されてきました。科学革命までは目的論こそ世界の説明の基本原理だったのです。例えば、次のような植物の棘についての説明がその目的論的な説明の代表的なものなのです。

 サボテンは、雨が少なく、昼は暑く、夜は寒いといった砂漠のような厳しい環境の中で生きている植物です。サボテンの変わった体は、そのような悪条件で育つのに都合よくできています。皮が厚いために水分は蒸発しにくく、その皮の内側には水や栄養分を貯め込んでおくことができ、その棘のおかげで、動物に食べらずにすんでいるのです。

 バラにも棘がありますが、その理由は(1)外的防御説:香りのよい綺麗なバラは色んな獣や小動物たちに狙われます。そのための防御として、葉っぱの付け根に棘があるのは特に大切な芽を守るためです。(2)ピッケル説:薔薇は太陽の光が大好きで、そのため高いところに上るのが本能。周りの植物にピッケルの形をした棘でひっかけて上っていくためです。(3)ラジエーター説:暑さをしのぐためで、棘が枝の表面にいっぱいあり、風が吹くたびに枝の温度が下がり、暑さをしのげるのです。

 カラタチは中国北部あるいは中部を原産地とするミカンの仲間。柑橘類ではもっとも寒さと病気に強いことで知られています。枝には長さ5センチにも及ぶ鋭い棘があり、防犯を目的に垣根としてよく利用されます。かつては畑や農家の境界などに使われ、童謡(「カラタチの花」北原白秋作詞、山田耕作作曲)にも歌われましたが、棘の扱いが厄介なことや他にも棘のある樹種が知られるようになり、近年では見かけなくなりました。

 このように生物の体表に棘がある例は沢山あります。多少とも硬質化した素材によって作られていて、表面から突き出した棘はその体を保護することを目的とすると考えられます。生物の持つ棘は何かしら体の一部が変形した器官です。アメリカアザミやヒイラギの葉はそのような変形の代表例です。

 棘があることによって目的が達成できることから「棘の存在する目的」が見つかり、棘を使った説明ができ上ることになります。こんなところが棘の目的論です。そして、このような説明が棘物語であり、とりわけ生命現象についてはこのような説明が今でも行われています。その棘物語を科学化しようとしてできた進化生物学では物語をモデル化して説明しようとしています。ダーウィン以来、「適応した結果としての棘」が棘の目的の因果的な解釈として採用され、トゲの進化的(歴史的)説明となっています。

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バラの棘

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カラタチの棘

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アメリオニアザミの棘

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ヒイラギの棘

 

宗教(と)美術

 ブッダの仏教に美術はないが、それが大乗仏教にシフトすると、仏像、仏画、仏具、そして寺院がつくられ、豊かな仏教美術が花開くことになる。「美のための美」ではない宗教美術をどのように理解するかは未だに私には難題でしかない。子供の頃によく聞いた「仏像がありがたい」という祖父母の言葉が何を意味していたのか、今の無神論者の私にはその意味は不明のまま。ルネッサンスの絵画や彫刻を楽しみ、味わう際にキリスト教の知識を使うが、キリスト教徒として祭壇画やマリア像を拝む訳ではない。聖人像も仏像も美的な観点を第一にして観てしまう。だが、仏の世界を信じていた頃の私(小学生時代)はどうだったかと問われると自信がない。仏壇の仏像や仏画をどんな風に観ていたか、それらをどのように拝んでいたか、認知症になったかのように記憶が曖昧で、明確に答えることができない。薄暗い教会で一心不乱に聖人像を拝む老人の姿に心打たれても、それを自らの行為として実践することができないのである。
 宗教的に仏像を拝むという習慣がなくなった私には、仏像は礼拝の対象ではなく、美的な鑑賞の対象である。むろん、本堂の中の如来像や菩薩像は信仰の対象としての威厳や優美さを十分に備えていることをわかっているつもりでも、それら仏像が彫刻として素晴らしいかどうか、それをもっぱら考えてしまう。実際、美の極致は宗教が関わる美術に数多く表現されてきた。ルネッサンスの絵画や彫刻の鑑賞には美の基準だけでほぼ問題はない。ダ・ビンチもミケランジェロキリスト教とは独立にその価値が評価されてきた。ミケランジェルの「ピエタ」も「ダビデ像」も私たちは同じ基準で捉え、称えてきた。ダ・ビンチやミケランジェロ曼荼羅図、阿修羅像、弥勒菩薩像、さらには五重塔を観たら、一体どんな評価をするだろうか。ゴッホが広重の浮世絵に惹かれたように、彼らは仏教美術に惹かれるだろうか。
 故郷に見事な仏像や仏画があれば、誰もそれを誇りに思う。国宝が国の誇りであるように、自らの故郷の文化遺産は故郷の誇りの一つ。寺院の仏像は信仰のきっかけや象徴に過ぎず、信仰者にとっては美術品である必要などないのだが、拝む仏像が信仰を助長するためには美術品として優れている方がよいに決まっている。過去の多様な宗教が生み出した遺産を理解しようとすれば、信仰だけでは多様な宗教文化を理解できない。それを理解しようとすれば、その基準の一つは「美」。人の心を魅了する美を使って、人は宗教の歴史を知るのである。
 宗教は芸術を生む。私たちはその芸術を通じて宗教に近づくのである。さらに、自ら信仰する宗教とは異なる宗教を知るのも芸術(や儀礼)を通じてであり、宗教美術は宗教教義、信仰体験の表現という役割をも担っている。

人工的に見える、自然的に見える

 今のところ、人が作り出した生命体はない。自然の所産に人が部分的に手を加えたに過ぎない。犬も馬も、そして園芸品種も私たちがつくったものだが、どれも部分的な改変に過ぎない。とはいえ、私たちは見かけの姿に手を加えて、自然とは違う形態を生み出してきた。それが、いわゆる「人為選択」であり、自然選択を人が真似たものから始まり、今では遺伝情報をもつDNAを直接に弄っている(ワクチンも然りである)。

 「人工」という幻想、「自然」という幻想が20世紀までは通用してきたが、それらが幻想であるという考え自体が淘汰されてきた。「人工的」なものから「自然的」なものへと、まずはこれまで載せたものの中で視覚的に見比べてみよう。

トケイソウ

ストレチア・レギナエ

ヤグルマギク

ジャーマン・アイリス

バラ

ヒナキキョウソウ

 例えば、最初のトケイソウ(時計草、パッションフラワー、passion flower)はトケイソウトケイソウ属の植物の総称。名前のように壁掛けの時計盤のような花をもつ。英名は「情熱の花」ではなく、「キリストの受難の花」。イエズス会の宣教師らが flos passionis と呼んだものの英訳。16世紀、原産地の中南米に派遣された彼らは、この花をアッシジの聖フランチェスコが夢に見た「十字架上の花」と信じ、キリスト教の布教に利用した。彼らによれば、花の子房柱は十字架、3つに分裂した雌しべが釘、副冠は茨の冠、巻きひげはムチ、葉は槍などと解釈された。今の私たちとは随分違う。

 概念的に人為選択を自然選択の一つだと考えれば、人工的、自然的の区別は消失し、どれもが自然の中での作品ということになる。私たち自体が自然の所産であるから、自然の所産が作り出したものも自然の所産だと考えることに不自然さはない。

 これらの中で野生の植物はヒナキキョウソウだけだが、私たちはそれぞれの花に人工的な印象、自然的な印象をその由来とは別に持つのではないか。「人工的」、「自然的」の感覚的印象はそれらの概念的違いとは連動していない。自然を数学化して捉える代表例は幾何学的な図形化だが、図形の組み合わせで花の形態を捉えるのとは別に、感覚印象によって捉えることが考えられるが、上記の花々を私たちはどのように人工的、自然的と捉えたのか、それぞれの花の造形美を楽しみながら、自問自答してみてほしい。

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トケイソウ

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ストレチア・レギナエ

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ヤグルマギク

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ジャーマン・アイリス

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バラ

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キキョウソウ

 

ターレスの幾何学と論証による説明

 現在はトルコ領内のミレトスで生まれたターレス(624-546 BC)は、気候や天体の変化は神ではなくて哲学者や科学者が説明すべきだと考えました。ターレスは物質がすべて水からできていると誤解しましたが、どんなものも同じ一つの基本的なものからできているという考え自体は誤っていません。それが証拠に、すべては素粒子からできていると今の私たちは信じています。ターレスは地球が丸く、月は太陽の光を反射して輝くと説き、日食を最初に予言したとヘロドトスは述べています。ターレスは数学、特に幾何学を生み出し、実際に幾つもの定理を証明しています。
 アリストテレスターレスの金儲けの話を伝えています。哲学は役に立たないと批判されたターレスは気象学の知識を使って翌年の夏のオリーブの収穫は豊作だと予測し、オリーブの圧搾機を事前に借り上げ、大儲けしてみせました。知識を上手く利用して金儲けをするときのプラグマティックで因果的な文脈と、幾何学の定理を数学的に証明するときの論理的な文脈を見比べると、因果的な文脈では「利用される知識」が主人公になり、論理的な文脈では主役が「探求される知識」であることが見事に浮かび上がってきます。プラグマティックな知識の利用とアカデミックな知識の探求の違いは既にターレスの時代から始まっていました。勿論、哲学者としてのターレスの関心はアカデミックな知識の探求にありました。現在の私たちは知識を利用し、情報を享受して生活しています。
 ターレスの合理的精神は、エジプトから持ち帰った測量技術を鵜呑みにせず、徹底的に吟味して論理的に再構成し、知識のシステムをつくり上げました。これがギリシャ数学を生みだす源泉になっています。エジプトでは「円の直径はその円を二等分する」、「二等辺三角形の底角は等しい」、「対頂角は互いに等しい」ことなどが経験的に知られていましたが、それらを最初に証明してみせたのがターレスだと伝えられています。既に知られている事実を単に受け入れるのではなく,より基本的な一般原理にまで還元し,そこから証明するという態度は神話、物語、伝承による説明と際立って違っており、この点においてターレスはギリシャの論証数学の第一歩を踏み出したのです。
 ターレスの定理と呼ばれる幾何学の定理を紹介しながら、論証がどのように展開されるかの一例を実際に見てみましょう。「二等辺三角形の底角は等しい」という命題が証明する必要のない自明の命題なのか、それとも証明する必要がある命題なのかはさておき、次のターレスの定理はこの命題を前提することによって証明できることがわかります。

 

ターレスの定理
ACが円の直径で、BがAやCとは異なる円周上の点なら、角ABCは直角である。

 

証明: ターレスの証明を想い出してみよう。三角形の頂点から円の中心に線を引くことによって、二つの三角形ができる。いずれも円の半径を斜辺とすることから、二等辺三角形であり、それゆえ、それぞれの底角は等しい(前の命題)。それぞれの等しい底角をa、bとすると、a + a + b+ b = 180なので、 a + b = 90となる(これは算術の定理)。

 

 このような証明は経験的、直観的にわかることと論証によってわかることの違いを示すだけでなく、論証が因果的な変化を使ったものではなく、論理的な規則を使ったものであることを示しています。物語の因果的展開とは異なる、証明の論理的展開が幾何学の本質であり、それをターレスが最初に具体的に表現してみせたのです。論証は前提と結論の間の論理的な展開であり、それゆえ、何を前提にするかが大切な事柄になってきます。誰が見ても疑うことができない、自明の前提から論証がスタートし、そこから結論が得られるなら、論証は大変優れた知識の獲得方法ということになります。でも、何が前提として相応しいかは最初から決まっている訳ではありません。事実として与えられる因果的な原因とは違って、論理的な前提は論証する私たちが選ばれなければならないのです。