マーガレットコスモス

 マーガレットコスモスはキク科ステイロディスカス属の多年草で、南アフリカ原産。一見すると、ユリオプスデージーに似ているが、開花期が異なり、葉は緑色である。ユリオプスデージーやマーガレットコスモスに似た黄色の花を、夏から冬にかけて咲かせる。寒さと暑さに強く丈夫。別名は「ガモレピス」、「イエローエンジェル」。

 マーガレットコスモスは、葉の切れ込みが深く、キク科植物としてはかなり珍しく、葉の表面に照りがあるのが最大の特徴です。一方、ユリオプスデージーのほうは小さな銀葉です。ユリオプスデージーはユリオプス属、マーガレットはキク属、コスモスはコスモス属で、みな違っています。

f:id:huukyou:20191108050200j:plain

f:id:huukyou:20191108050226j:plain

 

神々と人々の絆(9)

住吉明神や中国の神々

 既述のように、三人の男神と一人の女神が合体したのが住吉大神でした。神々の合体の過程はよくわかりませんが、合体によって守護の威力が増大することは確かです。

 ヒンズー教の三神、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァが同一の神であり、これらの神は同等の力をもち、それらは単一の神聖な存在から顕現する機能を異にする三つの様相に過ぎません。つまり、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三神は、それぞれ宇宙の創造、維持、破壊という三つの機能が三人組という形で神格化されたものでした。

 海の神であるソコツツノオ命(底筒之男命)、ナカツツノオ命(中筒之男命)、ウワツツノオ命(表筒之男命)の三神の総称が住吉の神。イザナギイザナミを死者の国(黄泉の国)へと追いかけて行き、死体となったイザナミを見て逃げ帰り、地上で死者の国の穢れを海水で洗い流した際に産まれたのが三神です。住吉三神は大坂の住江(住之江)の豪族の氏神でしたが、朝鮮や中国との貿易が盛んになると、この地域は貿易港として栄えます。それによって大和朝廷にとりたてられ、天皇家の航海の守護神として祀られました。仲哀天皇が九州の反乱を治めていたとき、神から神託がありました。「西に金銀財宝の豊かな国がある。そこを服属させて与えよう」と神託をしたのが住吉三神。神の子を宿した神功皇后住吉三神の導きのままに朝鮮半島に向かいます。朝鮮半島の王たちは神功皇后の力に驚き、貢物をする約束をしたのです。

 住吉大神は現実に姿を顕す「現人神」としても、信仰されています。長い白ひげを生やした老翁の姿で顕れ、既述のように和歌や俳句を嗜んだと言われています。和歌を用いて御神託を行ったことが、住吉大社の記録や『伊勢物語』などに記されていて、歌の神としても親しまれるようになりました。和歌だけではなく、『源氏物語』では明石の君にゆかりの深い地として、住吉が登場するシーンが描かれています。おとぎ話の「一寸法師」では、子供のいなかった老夫婦が住吉大神に祈願し、それによって一寸法師を授かることになります。能の「白楽天」での住吉明神の文学的な才能は既に述べました。

 最後に中国の神々に触れておきましょう。中国にも神という概念はあったのですが、歴史時代の前に神話時代があったとは考えられていません。 むしろ、人と神と仙人とが混然と交わってきました。儒教では最初はカオスの世界で、やがて清んだ陽気が天となり、濁った陰気が地となりました。ここに盤古という巨大な神が生まれ、吐息から風、涙から雨、またその遺体から山岳や草木等が生まれました。盤古の死と共に世界の創造は終わり、「三皇五帝」という神あるいは君主が世界を治めることになります。

 まずは三神です。伏羲は蛇身人首の神で、家畜の飼育や漁撈などを教えます。女媧は蛇身人首の神で、伏羲の妹とされ、人類を泥から作りました(あるいは産みました)。神農は人身牛首の神で、伏羲の子孫で農耕や医薬などの発明者とされます。でも、伏羲や神農が陳の街に都をおいて王に即位したり、後述の黄帝と戦った伝承があったりで、人間の王との区別が曖昧です。次に現れた五帝は、最初の王とも呼ばれる黄帝や善政の代名詞とされる堯舜など、もはやほぼ完全に人間の王になってしまいます。司馬遷によれば、黄帝は中国文化と文明の源泉の象徴です。黄帝は数多くの戦いに勝ちますが、侵略には何の喜びも見出さない偉大な英雄とされました。堯もまた理想的な帝でしたが、その子には帝としての器量が足りないことを危惧し、冷酷な継母に対しよく孝行していたことで評判の高い舜を登用しました。舜は堯の命を受けて教育を任されると、世に孝行を広め、官庁を任されれば綱紀を正し、遂に認められて帝となりました。

 これらの物語は儒教成立以前から伝えられてきたもので、『楚辞』、『淮南子』等にまとめられています。また、神と人との区別の曖昧さについては、当時の神話を文字に書き記した人々、すなわち孔子を始めとした春秋時代諸子百家の思想家たちの合理主義に原因があるという意見もあります。彼らは自説を例証する材料として、神秘的な神話を人間たちの歴史的故事に書き換えたというのです。儒教の神話は皇帝の祭祀権独占を保証する神話であり、民間には祖先祭祀ぐらいしか残らなかったのです。

 次が道教の成立と神話復興。公式の神話が皇帝の権利に集約されたのに対し、民衆の間に別の神話体系が生まれつつありました。これは三国志の時代です。この時代に活動した黄巾賊(太平道)と五斗米道はいわゆる草創期の道教教団です。太平道は黄巾賊の乱と呼ばれる反乱を起こし、後漢王朝によって滅ぼされてしまいます。でも、五斗米道の教団は存続しました。このような五斗米道に始まるのが、民衆から生まれた神話体系である道教とその神話です。道教の神話は皇帝を始めとした栄枯盛衰の激しい社会の上層にも影響を与えるようになります。創始者は人なのか、神なのか。道教創始者とされるのは、儒教孔子とほぼ同時代の人物である老子です。老子五斗米道によって天の最高神に祭り上げられました。人から最高神への大出世です。道教の教義上の至上倫理は「道」ですが、これを神格化したのが太上道君です。 

 関帝聖君も人気の高い神です。彼は三国志の英雄関羽のことです。歴代の王朝から武人の鏡として崇拝され、武神になりました。さらに、彼は算盤の発明者とされ、商売の神ともなります。関羽も人から神になった訳です。この頃中国に仏教が伝来します。道教と仏教は一応は別の教団ですが、時として混じり合います。その典型例が『西遊記』です。『西遊記』は釈迦の命で旅立つ仏教の説話ですが、そこには多くの道教の神々が登場し、道教神話にもなっています。主人公の孫悟空道教の神「斉天大聖」でもあります。

 死後の世界について儒教道教とでは神話がやや異なりますが、共通する大きな特徴の一つは、死後の世界がないことです。儒教では祖先霊として子孫を守ることになりますが、孔子の「怪力乱神を語らず」とあるように死後の世界の実態は曖昧なままです。また、道教の目的は、長命を得て仙人となり、自らが神となることです。それは上述の神話に人から仙人、仙人から神への出世があることからもわかります。でも、死後の幸福を求める神話や信仰はほとんどありません。歴代の道教を保護した皇帝は、仙薬を飲んで自ら不老不死の仙人になろうとしました。キリスト教をはじめとして死後の世界での幸福を信仰の中心とする宗教が多いのですが、以上のように、中国神話の世界では、信仰の中心はむしろ長命であり、不死の仙人となることです。そして、神とは人が仙人の修行の果てになる存在という側面が強いのです。かくして、神、人、仙人が入り混じった共同体という中国神話が存在することになります。

 

神々と人々の絆(8)

「白楽天」と神国

 既に「神々と人々の絆(3)、神道流行神」で、「流行神として多くの神社に分霊されている神には七つの主な系統があり、それらは八幡神、伊勢神、天神、稲荷神、熊野神、諏訪神、祇園神である」と述べました。この流行神ほどは流行らなかった神様の一つが住吉明神(大神)。三人の男の神様と一人の女の神様が合体したのが住吉明神です。ロボットの合体の遥か以前に神話の世界では既に神々の合体が普通にあったのです。

 近くの佃の住吉神社の祭礼の話からスタートしたことを思い起こせば、「神国」日本を芸能として表現したのが謡曲の「白楽天」です。脇能に神が登場するのは能では当たり前のことですが、日本にスパイとしてやってきた白楽天を住吉の神が退散させるという物語は幽玄な能には相応しくないような内容です。でも、それも芸能のもつ意義の一つであることを見事に示しています。そこには神々と人々の混沌とした結びつきが垣間見えます。神と人を分けても、一緒にしても、神と人の断ち切ることのできない関係が語り継がれてきたのです。

 まずは、能「白楽天」の物語をまとめてみましょう。能は伝統芸能として幽玄な世界観、人間観を劇と音楽によって表現する総合芸術と位置付けられています。私は学生の頃の能の体験から、多くの曲は最後に大立ち回りがある曲芸的な要素が強い娯楽だと感じていて、幽玄の美など能の一部に過ぎないという印象をもっていました。そのためか、能が国威発揚の手段になったり、神国日本を謳い上げたりすることはないと断ずることは誤りで、実際は神、人、国の世俗の有り様が描かれ、日本神国観が主張されているということにも違和感はありませんでした。さて、肝心の「白楽天」はどんな筋立てなのでしょうか。

 日本がどの程度の知識や教養水準にあるかを知ろうとやって来た唐の詩人白楽天を、漁翁に身をやつした住吉明神が問答の末に追い返すというのがストーリーです。この能のシテは漁翁、実は住吉明神で、ワキは中国から来た大詩人白楽天、舞台は九州の筑紫の国。さて、始めにワキが、「半開口(はんかいこう)」と呼ばれる大変特殊な音楽によって登場。「音取置鼓(ねとりおきつづみ)」という笛と小鼓が交互に演奏する厳かな音楽で、白楽天の登場に風格を与えます。総じて、この能は、全曲にわたり音楽的な魅力が満載なのです。


尾形光琳「白楽天図屏風」(根津美術館蔵)は、謡曲「白楽天」を画題にしたもので、日本にやってきた唐の詩人白楽天が、漁師(実は和歌の神様である住吉明神の化身)と船の上で問答をし、和歌の偉大さを思い知らされて中国に帰っていく場面が描かれています。この構図や波をダイナミックに描いた表現は、葛飾北斎の有名な《神奈川沖浪裏》に似ています。

 

 ワキは、唐の高官白楽天であると名乗り、東の方に日本という国があるが、どの程度の知恵、教養をもつ国であるかを皇帝の命令により調べに行くと述べ、「舟こぎ出でて日の本の、そなたの国を尋ねん」と謡い、以下、海を渡る様子を謡い、日本に到着します。笛が吹いて、「真ノ一声(しんのいっせい)」という音楽となり、暫くはそれが続き、やがてツレを先立てて前シテの登場となります。

 シテ(老人)とツレ(男)は、共に釣り人の姿。このようにツレを伴って登場するのは、神を主人公とした脇能の定番です。シテとツレは、橋掛りで向き合って謡った後、舞台へ入って来て、さらに謡います。西側には山一つなく一面の海である筑紫の情景で、唐土は一夜泊まりといわれ、さほど遠くない、などと謡われます。シテは漁翁の姿ですが、実は神の化身なので、そのような厳かな雰囲気が描かれています。

 ワキが「小さな舟が見える」と言葉をかけます。シテは即座に「御身は唐の白楽天にてましますな」と、相手の正体を見抜くので、ワキは大いに不思議がります。シテとツレは、「白楽天が日本をスパイしに来るという噂は、日本中に知れていた」と述べ、地謡が「今や今やと松浦舟」と謡い出します。

 シテは、私は釣りに忙しいので、あなたにかまっている暇はない、という内容の地謡につれて、実際に釣り糸を垂れます。ワキは、「なおなお尋ぬべき事あり。舟を近づけ候へ」と言い、改めて、シテとワキの対話の場面となります。ワキが「中国では唐詩を作る」と言うと、シテは「日本では和歌を詠む」と答え、ワキ白楽天は眼前の景色を即興的に見事な詩に作り、「心得たるか漁翁」と聞かせます。その詩は「青苔(せいたい)衣を帯びて巌の肩にかかり、白雲(はくうん)帯に似て山の腰をめぐる」というもの。すると、シテは、「青い苔が巌の肩にかかっているのが衣に似ているとは面白い詩だ」と解釈して、今度は同じ景色を「苔衣(こけごろも) 着たる巌はさもなくて 衣(きぬ)着ぬ山の帯をするかな」と、和歌を返します。こちらも住吉明神(=和歌の神様)の化身で、上手なのは当然のことです。

 ワキは賎しい姿の老人が妙なる歌を詠んだので仰天しますが、シテはさらに、「日本では、人間だけでなく、生きている者は誰でも和歌を詠む」と語り、地謡が「花に鳴く鴬、水に住める蛙まで、唐土は知らず日本には、皆歌を詠み候ぞ」と謡い出します。この後、シテは舞台中央に座り、地謡がシテの言葉を代弁する形で進行します。ここに日本人の自然観、世界観を見出す人もいますが、これを知って驚くのは中国人より西洋人でしょう。このように謡われたら、デカルトもカントもビックリ仰天です。

 さらに、色々の舞楽を見せよう、と言って、シテは静かに立ち上がり、太鼓が、「来序」という音楽を打ち出すのに乗って、ツレとともに退場します(中入り)。入れ替わり、間狂言(あいきょうげん)が登場しますが、現在の演出では、住吉明神末社の者が一人で登場して物語ります。後シテは住吉明神の本体を現します。舞台に入り、「神ノ序ノ舞」という神々しい舞を舞い、この能の音楽的、舞踊的クライマックスとなります。これは、老体の神の舞う舞で、閑かな中に強くサラリとした要素のある独特なもの。この舞の間は、謡は一切無く、笛を中心に四人の囃子方の演奏により舞います。
 舞が終わると、シテは、住吉の神であると宣言し、「日本を従えることは出来ないから、早く帰りなさい」とワキに向かい、地謡の文句により各地の神々が結集したことが謡われ、シテの舞い遊ぶ衣の袖から神風が起こり、白楽天の乗った船は唐土まで吹き戻されたと表現されます。そして、「げに有難や神と君が代の、動かぬ国ぞ久しき」と全曲が締めくくられます。上演に約2時間ですから、普通の能の二倍かかります。

 

 白楽天は人間の詩人ですが、それに対して戦う住吉明神は神々の合体。神風で外敵を追い返したように、神が勝つのは確かにめでたいことです。でも、人対人、神対神であればどちらが勝ったかということに意味があるかも知れませんが、人と神が戦って神が勝つのはむしろ当たり前のこと。日本は神が守ってくれるということは、日本人としてはもちろん嬉しいし、めでたいことではあるのですが、人と神が歌を詠み競べて勝ったという話を素直に見れば、それはそうだろう、でも、その勝負は果たしてフェアなのかという考えが頭をよぎります。

 蒙古襲来などたびたび脅かされた九州の海岸線。外敵に対する穏やかならざる状況がこのような能を生んだ背景にあったのでしょう。国を外敵の侵攻から守るということであれば、神、神風によって守られていることはありがたいことです。でも、この能ではそれを詩歌の遣り取りに変えてきています。ですから、神も武の八幡神ではなく、文の住吉神だったのです。歴史的、政治的な状況が能の背景にあります。文永の役弘安の役といった元寇の時代、また世阿弥の生きていた時代の応永の外寇が人々の記憶に残っています。それが「白楽天」を生み出した遠因になっています。詩歌で白楽天に勝つということが、文芸的に昇華された神国日本の姿だったのでしょう。

 

*「筑前一之宮住吉神社」は日本で最も古い住吉三神を祀る神社で、博多湾に面し、航海・海上の守護神です。一方、「住吉大社」の祭神は底筒男命中筒男命表筒男命の三神と神功皇后。王朝時代には和歌・文学の神として仰がれていました。深川にある地名「住吉」は住吉神社とは関係なく、縁起の良い「吉」の字を使っただけです。

萩三種

 ヤマハギ(山萩)はマメ科ハギ属の顕花植物。アジア原産で、観賞植物として広く栽培されている。北海道から九州までの日当たりのよい山地に多い。高さ2mに達する。秋に花をつけるが、小さいのでそれほど目立たない。秋の七草の一つで、昔から日本人に愛されてきた。

 シロバナハギはミヤギノハギの変種で、文字通り花が白い。清楚な感じで、最近はよく植えられている。全体に絹状の伏毛があり、枝垂れる枝の葉腋から長い総状花序をだして、白い蝶形花をいっぱいに咲かせる。 

 キハギは黄萩ではなく、木萩である。ヤマハギミヤギノハギなどと違い、乳白色に紫色の斑が入った花が特徴。また、枝が他のハギより茶色く木質化していることから、この名前がついた。日本が原産で本州から九州や中国にかけて分布し、日当たりのよい山野に自生している。

 ヤマハギのグループだけでも、ヤマハギ、キハギ、ツクシハギ、マルバハギなどがあり、ハギ属は色んな種類を含んでいて、見分けるのが厄介である。

f:id:huukyou:20191107052542j:plain

ヤマハギ

f:id:huukyou:20191107052607j:plain

シロバナハギ

f:id:huukyou:20191107052626j:plain

キハギ

 

神々と人々の絆(7)

神の国」と「神国」

 アウグスティヌストマス・アクィナスと並んで、中世最大の教父と言われているのですが、若い時分は恋愛三昧の生活だったようです。でも、勉強はしっかりしていて、16歳の時カルタゴに行き、そこで学んだようで、哲学やマニ教に没頭していました。そして、最終的にキリスト教に回心し、多くの著作をなしたのです。そんな彼が自らの人生を書いたのが『告白』、そして自分の考えたことをまとめたのが『神の国』でした。

 キリスト教の時代が始まり、アウグスティヌスが活躍するのは300年代です。キリスト教が誕生してからは、キリスト教が哲学や倫理も支配するようになりました。313年のミラノ勅令で、強大なローマ帝国キリスト教が公認され、4世紀末にはキリスト教が国教となります。でも、宗教はどこか哲学と似ているところがあり、キリスト教の考え方について違いが生まれてきました。そこで、ニケーア公会議が開かれ、どの宗派が正統なのかという議論がされ、アリウス派は異端となりました。さらに、グノーシス主義のような、様々に異なる信条も登場し、「神は存在できない、それゆえ、私は信じる」などといった主張も生まれ、争いが起こり始めます。このように、当時は様々な教義が生まれ、キリスト教の中での正しい教義とは何かが問題になり出した時代だったのです。アウグスティヌスが生きた時代は、キリスト教内部において整合的な教義がまだ存在せず、諸説入り乱れていましたた。キリスト教側も手をこまねいて傍観していた訳ではなく、「教父」を設置しました。教父は弁護士みたいなもので、キリスト教が正当で、正統な宗教であることを証明し、説明する役割を担っていました。アウグスティヌスは、その中で最大の教父、つまり、キリスト教を体系化した一人なのです。

  アウグスティヌスはまず「神の存在」を考えます。神が存在することを証明することは本当に難しい問題です(同じように神が存在しないことの証明も厄介なのですが、それはグノーシス派が問いかけた問題)。彼は「神は存在する。君たちはなぜ「神」という概念を知っているのか。本物の神を見たことがないのに、神という存在を知っているではないか。それは神を認識しているということではないのか」と述べます。これはプラトンイデア論での主張と同じ議論です。「本物の善というものをみんなは知らないはずなのに、それを普通に会話に使って、それで互いに認識を共有している。だから、それは善が存在するということではないのか」という議論そのままです。

 「知る=存在する」という図式について少し述べておきましょう。当時はまだ認識論的に概念がどのように生み出されるかが問題になっていませんでした。例えば、善や真といったものは人間が勝手に作り出した概念ではなく、実在するものであり、人間がそれを見つける、気づくと考えていました(存在論)。ですから、人間が知っている概念は存在しているものだったのです。 そこで、神が存在するとします。すると、次のような反論ができます。神が完全なら、どうして悪の性質を持つ人がいるのか。それは神が完全な存在ではないからではないのか。この問いに対するアウグスティヌスの答えが「自由意志」。アウグスティヌスは次のように答えます。神は人に自由意志を与えた。私たちが善をなすのか、悪をなすのか、それは私たちの自由な意志による。神は人が自分の意志に基づいて、善をなすことを期待している。

 アウグスティヌスは尺度を作りました。イデア論に対して、「汚物」は、「醜い」のイデアがあるからなのか、それとも「美しい」のイデアがないだけなのか、どちらなのかという批判がありました。アウグスティヌスは次のように解釈します。世の中には尺度のイデアがたくさんあるに過ぎない。醜いイデアというのは存在しない。醜いとは単に美しいイデアがないだけなのだ。そしてそのイデアが強くなれば強くなるほど、それはより美しくなる。つまり、イデアを単に「あるか、ないか」の二者択一で考えるのではなく、度合いで捉えるようにしたのです。すると、善悪について次のように主張できることになります。この世に悪は存在しない。悪は単に善が欠けている状態に過ぎない。神が万能であれば、この世界に「悪」があってはならないという主張に対し、アウグスティヌスによれば、「悪」は単に善を成し得なかったがために生まれたものという説明になるのです。

 こうして、アウグスティヌスによれば、神は永遠の知性を持った存在であり、真理は神であり、悪とは善(真理)が欠如した状態で、神への信仰によって満たされるとき、消滅するということになります。さらに、これを「時間」にも適用すれば、時間は個人の心の中のもので、神による救済という目的に向かって流れるとき、「最後の審判」の日に満たされるとなります。また、「神」は「言葉を出す父」であり、「キリスト」はその「言葉」であり、「聖霊」は「言葉によって伝えられる愛」と捉えたのがアウグスティヌスの「三位一体説」。そして、この世界はイエスが唱えた「愛の共同体」としての「神の国」と、「世俗世界」である「地の国」の二つの世界からなるが、「神の国」は純粋に精神的な世界なので目で見ることはできません。「神の国」が絶対的で永遠なるが故に歴史的に超越しているのに対し、「地の国」とその政治秩序はあくまで時間的(限定的)で非本質的なものに過ぎません。また「地の国」にある教会にも世俗の要素が混入していますが、「地の国」において唯一信仰を代表し、現実世界に共通善を実現するための神の摂理が存在する場であるため、国家に対する優位性を持っているとアウグスティヌスは考えました。

 

 「神国」という言葉が最初に現れるのは『日本書紀』の神功皇后の「三韓征伐」の際、新羅王が皇后の軍勢を見て、神国の兵に戦わずに降伏したという記載です。大和政権は、本来、各々の有力豪族の連合政権でした。各々の豪族は、独自の神話をもち、独自の神を祭っていました。ところが、大和政権が大化の改新を通じて天皇中心の中央集権国家へと移行すると、天皇家の神格化を図るために、天皇家の祖先神である天照大神天皇家の神社である伊勢神宮を頂点とした、神々及び神社のヒエラルキーが確立し、これを基本にしたのが古代の神国思想です。
 10世紀以降、律令体制から王朝国家体制に移行すると、貴族や寺社が荘園を拡大し始めます。有力な寺社は、自分たちが祭る神々を日本の神の中の頂点であることを宣言し、不輸・不入の権を行使し、自分たちの荘園を「神領」や「仏領」としました。その結果、天皇家を中心とした神々と神社の組織は衰退していきます。また、平安時代前期から神仏習合思想が普及し、仏が日本の国土において、人々を救うために神々の姿をとった、という本地垂迹説が説かれました。このような社会・思想の変動によって、天皇の権威を頂点にした神国思想は、本地垂迹説を基にした中世的神国思想へと移行・変化していきます。
 平安時代末期より鎌倉時代にかけて末法思想や鎌倉新仏教の広がりによって現世を否定する思想が広がり、貴族社会を中心に皇室とそれを支える貴族社会の由来を神国思想に求める考え方が出現しました。さらに、これに一大変革を与えた事件が二度にわたる元寇です。いずれも後世「神風」によって撃退されたと解釈されますが、この嵐が伊勢神宮をはじめとする諸神社によって盛んに喧伝され、実際に戦闘を行った武士たちが元軍の集団戦法に苦戦して神への加護を求めていたという事実と共に、日本を神国とする認識を国内各層に浸透させることになりました。
 このため、浄土思想・鎌倉新仏教側もこれを取り入れて、日本の仏教は神々の加護によって初めて成立していて、末法の世を救う教えも日本が神国であるからこそ成立したという主張に転換していきます。これを「大日本は神国である」という言明で言い切ったのが『神皇正統記』の北畠親房です。親房は天照大神の末裔の天皇によって日本国家が維持されていると主張したのです。

 江戸時代には儒教や仏教などの外来思想に批判的な立場から古典や神道を研究する国学が盛んになり、復古神道が主張されると、従来の神仏習合的な神国思想から仏教・儒教的要素を廃し、古代へ回帰した神国思想が広く受け入れられるようになりました。でも、それが幕末の外的圧力の増大とともに攘夷論へと発展し、やがて江戸幕府を亡ぼす原因となりました。明治維新により天皇が政権を奪還すると、国家神道が国教とされ、国家神道を支える理念的思想となるとともに、欧化・近代化路線に対抗する国粋主義と結びつきました。日本の帝国主義軍国主義路線の膨張、植民地の拡大とともに、国内外の民衆を抑圧する思想へと転化して行ったのです。日露戦争勝利以後、日中戦争・太平洋戦争でその動きは最高潮に達し、「神州不滅」思想が横行し、多くの生命が失われました。
 「神国」の通常の使い方によれば、日本を神の国と考えることです。これには、神々の加護の下にある国という意味と、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神孫である天皇の統治する国という意味があります。イザナギイザナミの二神による国土の生成、日神天照大神をはじめとする神々の生誕、日神の神孫による日本の支配を骨子とする『日本書記』と『古事記』の神話のなかにその芽を見出せるのですが、古代には「神国」ということばはあまり用いられませんでした。「神国」という思想が歴史の表面に登場してくるのは中世以降のことです。それは、何より蒙古襲来という国家的危機が民族意識を覚醒させたことによるのです。

 近世に入ると、神国思想は儒教思想と結びつき、国粋主義思想を生み出します。その一方で、新たに登場した国学思想によって活性化され、幕末維新期の尊王攘夷運動に精神的基盤を提供しました。これらの神国思想では、単に統治者たる天皇のみならず臣民自体も神々の後裔であるとの考え方が強調されます。こうして神国思想は民俗としての祖先崇拝と結びつき、明治以後の敬神崇祖、忠孝一致という家制国家を支える道徳思想として生き続けます。

 

 「神の国」と「神国」は似て非なる概念ですが、そこに一神教多神教の違いの実例を見ることができます。神が絶対で唯一の神であることは、神が政治や経済から超越、独立したものであることを強調するのですが、神々が人と交わるような状況では、神々は政治や経済に強くコミットすることになります。人々の運命を左右するのはいずれの神も同じなのですが、その具体的方法は随分と異なることがわかります。ただ、直接に私たちの生活にコミットする際の神の力は、一神教であれ多神教であれ、自然を超える力によることはよく似ています。奇跡が私たちに及ぼす効果や結果は、いずれの神であっても変わりありません。

ネズミモチ

 モクセイ科イボタノキ属のネズミモチ(鼠黐)の名前は、その熟した実がネズミの糞に、葉がモチノキに似ていることからついた。暖地に自生するとともに、公園や庭の植栽に使われている。堅強な性質を持ち、都市部の劣悪な環境でも耐えることから、垣根や緑地の「植えつぶし」として使われる。「タマツバキ」とも呼ばれる。画像の実は液果(果皮が肉質で液汁が多い実)で、まだ青いが、やがて黒紫色に熟す。実は長さ7ミリ程度の楕円形、熟した実は日干しして漢方薬に使われる。

f:id:huukyou:20191106035828j:plain

f:id:huukyou:20191106035844j:plain

 

神々と人々の絆(6)

三位一体

 ユダヤ教イスラム教が一神教であるようにキリスト教一神教なのですが、キリスト教は唯一の神だけを信じるという形態をとらないのです。それを端的に示すのが、父、子(イエス・キリスト)、聖霊によって表される三位一体です。「父と子と聖霊のみ名において(in the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit)」というよく聞く謂い回しを思い出して下さい。さらに、イエス・キリストは、真の神であり、真の人であるという神人としての特別の地位を与えられています。神学では、人間の救済はイエス・キリストに従うことによってのみ可能だと考えます。三位一体論とキリスト論がキリスト教神学の核心なのですが、いずれも理屈ではわからず、キリスト教神学に内在する独特の考え方を体得しなければなりません。「神は存在するか」という哲学的な問い自体が成立せず、哲学的方法によって神を捉えることはできないというのが神学の基本的立場です。

 でも、これでは三位一体がこれまで述べてきた三神一体や住吉大神、さらには神仏習合などと何が異なるのか何もわかりません。そこで、三位一体なる概念がどのようなものか基本から考え直してみましょう。アウグスティヌスは次のような7つの言明で、三位一体の考えをまとめています。

1.父は神です。
2.子は神です。
3.聖霊は神です。
4.子は父ではありません。
5.子は聖霊ではありません。
6.聖霊は父ではありません。
7.唯一の神が存在します。

 

これら七つの文はすべて聖書に従った教えです。それらを用いることで、三位一体について簡単な理解を得られます。唯一の神には三つのペルソナがあります。神は大いなる奥義であり、それについて私たち人間が理解できることは、聖書を通して知らされているほんの僅かなことだけです。上の7つの言明は「三位一体の盾」と呼ばれる図式で表現されてきました。

f:id:huukyou:20191105055558p:plain

            (Wikipediaより)

 もう少し詳しく見てみましょう。「父、子、聖霊」が合わさって、一つの「神」ですが、「父」、「子」、「聖霊」は、それぞれ別のもの。「父、子、聖霊」は同列のもので、「父」、「子」、「聖霊」がそれぞれ三つの神ではありません。三つが合わさって、一つの「神」となり、その神は唯一。でも、「父である神」も「イエス」も「聖霊」も神性をもっています。ですから、神=「父である神」、神=「イエス」、神=「聖霊」であり、一つ一つが完全な神。でも、「父である神」=「イエス」=「聖霊」ではありません。つまり、三つの一つ一つが完全な神でも、神が三人いるのではなく、神は一つです。このように7つの言明と「三位一体の盾」の主張を言い換えることができますが、これでわかったと納得できる人はいないでしょう。納得できなければ、キリスト教一神教なのか否かだけでなく、三つのいずれを信じるのが適切なのかもわからないことになってしまいます。

 そこで、三位一体とは何であるかを確認し直してみましょう。神の三位一体の教えは、神の奥義に関する事柄です。人間の知性で完全に理解することは困難でも、明らかに聖書が教えていることであって、「信ずべき真理」であると言われてきました。
 三位一体とは、唯一の神の内に、父・子・聖霊の三位格の永遠の区別があり、これら三位の神は、存在と本質において一体とされます。基本的な信仰告白である「アタナシウス信条」には、次のように記されています。
 「われらは唯一の神を、三位において、三位を一体において礼拝する。しかも位格を混同することなく、本質を分割することなく。」

 はじめに父、すなわち父なる神から見てみましょう。父は、天地万物の創造主であり、「第一原因」です。父は、子キリストの父であり、万物の父です。子イエスもこの父より生まれたのであり、聖霊もこの父より出たのです。
 次は子イエス・キリスト。子は、父なる神から生まれ出ました。キリストは、永遠において父なる神から生まれ出た、神の子です。私たちも、神を信じる者はみな「神の子」と呼ばれますが、私たち人間の場合は神の被造物です。これに対し、キリストは神の被造物ではなく、直接父なる神から生まれ出たのです。キリストは、万物の創造される以前に、神から生まれました。その意味で、キリストは「神のひとり子」とも呼ばれます。キリストは私たちが「神の子」と呼ばれるのとは違った意味で、「神の子」であり「神のひとり子」なのです。父なる神から出たキリストは、子なる神とも呼ばれます。人間の子が人間であるように、神の子キリストは、「(子なる)神」です。したがって、キリストは永遠から永遠にいたるまで存在しているのです。子なる神キリストは、永遠に父なる神と共にいます。では、父なる神と子なる神は二つの独立した神々なのかというと、そうではないのです。キリストは存在と本質において、父なる神と一体です。でも、新約聖書の原語であるギリシャ語をみると、これは単に、父なる神とキリストが目標や意思において一つになって行動する、という意味ではありません。「一つ」という言葉は、原語では「同一の本質」、「同質」という意味なのです。つまり、キリストは、父なる神と同じく神性を持ち、父なる神と存在を一つにしています。
 最後に、聖霊について見てみましょう。聖霊は、「神の霊」とも「イエスの霊」とも呼ばれます。聖霊は、父なる神から子キリストを通して信者に注がれた神の霊です。聖霊は、父なる神から出た神の霊であって、子キリストを通して信者に注がれました。聖霊は、父と子から発します。子キリストは、十字架の死と、復活を経たから、聖霊がキリストという一種の「フィルター」を通して注がれることによって、信者はその聖霊を通し、キリストの十字架の死と復活の力にあずかることができるのです。キリストは今は天にいますが、キリストの十字架死と復活の出来事と同じことが、聖霊によって信者の魂にも起こります。私たちは聖霊によって、古い自分が死に、「神の子」として新しい者に生まれ変わります。聖霊は、父なる神、およびキリストから出た霊です。したがって、聖霊は神性を有するのです。聖霊は、単なる「エネルギー」とか「力」ではなく、人格をもっています。

 このように、唯一の神の内に父・子・聖霊の三つの人格(神格)があります。人間個人に人格が三つあったら、多重人格で大変ですが、三位一体の神の人格は完全に統一されています。父なる神と子の意志が違ったり、子と聖霊の意志が違ったりすることはありません。意識の上では互いに独立しているものの、意志的には子は父に従い、聖霊は父と子に従い、神の統一性、唯一性が保たれています。聖書の中に、三位一体について直接に書いてある箇所はありません。新約聖書には、

「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け…」(マタイ28:19)

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが…」(第2コリント13:13)

といった記述は見られるのですが、これら三者の関係は明確ではありません。三位一体の教義は、キリスト者の間で長い年月の激しい論争を経て成立してきたものです。

 旧約聖書の中では、神は自らを唯一の神であり、自分の他に神はないと繰り返し語っています。ところが、イエスが十字架にかけられて死んだ後、「イエスは神だった」という教えが生まれます。また、新約聖書には、イエスが神を父と呼んだことや聖霊に関する記述も見られ、それらを矛盾なく説明する必要が出てきました。

 父、子、聖霊に関しては、さまざまな説明が可能です。伝統的なキリスト教においては、父と子と聖霊は「作られざる、同質なる、共に永遠なる三位一体」であるとみなす「内在的三位一体」論を教義として採択しています。しかし、「父のみが神であり、子や聖霊は神ではない」といった解釈も可能です。今日、エホバの証人ものみの塔聖書冊子協会)などはこの立場を取っています。また、「父、子、聖霊の三つは全く別個の存在であるが、三者は目的を同じくしている(三位同位)」とすることもできます。モルモン教会(末日聖徒イエス・キリスト教会)はこの立場を取っています。


 三位一体の教義が確立されるまでは、さまざまな解釈が出され、互いに競い合っていました。313年のミラノ勅令によってキリスト教信仰を公認したコンスタンティヌス帝は、教義の分裂がローマ帝国の混乱を招くことを懸念して、教義を統一する必要があると考えました。彼は、325年にニケーア公会議を招集して、イエスを「神と同質」とみなすアタナシウス派を正統とし、イエスを「神に最も近い人間(神とは異質)」とするアリウス派を異端としました。

 でも、論争はこれで決着したわけではなく、正統派の同質説とアリウス派の分派が唱えた同類説(「生まれざる父なる神と生まれし子なる神とは、同類だが、同質ではない」とする説)との間では、長い間論争が続いていました。テオドシウス帝は、同質説と同類説との論争に終止符を打つため、381年にコンスタンティノポリス公会議を招集して、「作られざる、同質なる、ともに永遠なる三位一体」という教義を打ち出しました。

 ところが、これ以降も論争は続き、「子なる神として神そのものであるキリストが、一体どのように同時に人間であり得るか」という点が問題となったのです。まず、アポリナリウス(315頃~390頃)が「魂の代りにロゴスが入った人間がキリストである」と主張しましたが、「それではキリストは完全な人間とはいえないではないか」という反論が出て、後に異端とされました。このアポリナリウスの説に反対したのは、ネストリウス(382頃~451頃)でした。彼は、神性と人性とは混同するものではなく、共存しているのだと説きました。また、その立場からマリアを「神の母」とすることに反対し、「キリストの母」と呼ぶべきだと唱えました。このネストリウスの説に反対したのは、アレクサンドリアのキュリウス(?~444)でした。「ネストリウスの立場では、キリストに二つの人格があることになってしまい、二人のキリストを認めることになる」と彼は批判しました。

 論争は延々と続き、431年のエフェソス公会議においてネストリウス派は異端とされました。さらに、451年のカルケドン公会議では、「イエスには人性が消えて神性のみがある」とするエウテュケスの神性単性説が異端として退けられ、「キリストのペルソナ(位格)は一つであり、さらに、神性と人性とを完全に備えつつ、両者は混同していない」ことが確認されました。

 

 このような説明で三位一体が何を意味するかわかったという人はまずいないでしょう。むしろ、ますますわからなくなり、それがキリスト教の根幹にあることに素直に驚くべきなのです。