コムラサキ(小紫)

  江戸や京都の近くには小江戸や小京都があり、蝶にはオオムラサキコムラサキがいる。そして、植物の場合も同じような名前が見つかる。
 私には気品の塊に見えるのがコムラサキで、クマツヅラ(熊葛)科に属する。開花時期は夏から秋にかけてで、紫色の綺麗な実をつけ始めている。根元に近い方から順次開花し、それを追うように実をつけていく。実は、緑色から紫色に変わる。コムラサキムラサキシキブ紫式部)に似ていることからこの名前になったのだが、庭木としてよく植えられている。
 ムラサキシキブコムラサキより大型のシソ科の落葉低木。日本各地の林などに自生している。オオムラサキシキブはムラサキシキブより大きな変種。見比べるなら、紫式部の名前に相応しいのはコムラサキの方で、見た目はコムラサキに軍配が上がる。
 コムラサキの別名はコシキブ。ムラサキシキブとは別種だが、混同されやすく、コムラサキムラサキシキブとして栽培している場合がほとんどである。コムラサキは葉の先端半分にだけ鋸歯があるが、ムラサキシキブは葉全体に鋸歯があることで区別できる。

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キムチ、カレー、タコス

 「反日嫌韓」といった言葉が毎日飛び交い、世界情勢が波立つ中で不安が先立つ昨今、何とものんびりしたタイトルである。タイトルから連想される国となれば、韓国、インド、メキシコ。そこに北朝鮮パキスタンバングラデシュ、そして日本を加えても構わない。確かに多くの日本人はキムチ、カレー、タコスが大好きである。まずは、現在マスコミには登場しない歴史認識から始めよう。
 ガンディー率いる「インド国民会議」は統一国家を目指したが、彼と対立する「全インド・ムスリム連盟」はイスラム教徒の国を作ることを決め、 1947年インドとパキスタンに分かれて独立した。カシミール地方は、藩王ヒンズー教徒、住民の77%がイスラム教徒という複雑な状況にあったが、藩王はインドへの所属を決定。だが、パキスタンは自国の領土だと主張し、1947年に義勇軍カシミールに送り込む。これに対し、藩王はインドに助けを求め、インドも軍を送り、カシミールで両軍が衝突。これが第一次インド・パキスタン戦争である。1949年国連が仲介し、カシミール地方の3分の2をインド、3分の1をパキスタンが支配するようになった。
 1954年アメリカはパキスタンと相互防衛援助協定を結ぶ。また、1959年にはチベットで大規模な反乱が起き、ダライ・ラマ14世がインドに亡命。中国が激怒し、1962年中国がカシミール地方のチベットと隣接したラダク地域を占領。その後、アメリカはインドに軍事援助し、中国はパキスタンを援助する。1965年には中国の侵攻に影響を受けたパキスタンが停戦ラインを越え、第二次印パ戦争が勃発。パキスタンは東西で経済格差が激しく、西はアーリア系パンジャブ人(イラン系に近い)、東はモンゴル系ベンガル人で、民族も異なっていた。1969年にパキスタン中央政府軍が鎮圧に出動し、東パキスタンと武力衝突。東パキスタンはインドの援助を得て全面戦争(第三次印パ戦争)に発展し、パキスタン中央政府軍は完敗、1971年に東パキスタンバングラデシュとして独立する。さらに、インドとパキスタンが核を保有、緊張が高まり、それは現在まで続く。
 印パ、中近東だけでなく、日本と韓国、アメリカとメキシコの昨今の緊張した関係も連日のニュースで繰り返し語られている。「…first」なる表現は世界中を駆け巡り、保守的な民族主義がヨーロッパでさえ息を吹き返している。自由経済グローバル化愛国主義のもとで変質しようとしている。そんな中で、少々異なる視点から現状を捉え直してみたい。

 胡椒の原産地はインド。そして、唐辛子の原産地は唐ではなくメキシコ。メキシコでは数千年前から食用として栽培されていたが、唐辛子が広く知られるようになったきっかけは、15世紀のコロンブスの新大陸発見。「インドの胡椒」を発見しようとしたコロンブスが、カリブ海に浮かぶ西インド諸島をインドと思い込み、その際コロンブスが現地で見つけた唐辛子をコショウと勘違いして伝えたのだ。そのため、今でも唐辛子の英語名はred pepper。その後、唐辛子は急速に世界中に広がった。
 中国では西方から伝来した香辛料という意味で、胡椒と呼ばれた(胡は西方、北方の異民族を、椒はサンショウ属の香辛料を指す)。日本には中国を経て伝来。756年聖武天皇の77日忌にその遺品が東大寺に献納され、その目録『東大寺献物帳』の中にコショウが記載されている。コショウはその後も断続的に輸入され、平安時代に入ると調味料として利用されるようになった。唐辛子が伝来する以前は、サンショウと並ぶ香辛料として現在より多くの料理で利用されていて、うどんの薬味としても用いられていた。
 唐辛子が日本に入ってきた時期は二説ある。16世紀半ばに鉄砲とともにポルトガル人宣教師が伝えたという説と、17世紀はじめに豊臣秀吉朝鮮出兵の際、日本に持ち帰ったとする説である。だから、前者の説では「南蛮」、後者の説では「高麗胡椒」と呼ばれてきた。また、朝鮮半島へは豊臣秀吉が伝えたという説もある。さらに、中国に唐辛子が伝わったのは日本より後で、明の時代の末期(17世紀半ば)になってから。
 十七世紀初頭に書かれた朝鮮半島の記録には「日本から伝わったので、倭芥子と呼ぶ」と唐辛子について記載されている。「南蛮椒には大毒がある。倭国からはじめて伝わったので、倭芥子と呼ぶが、近頃これを植えているのを見かける。酒家では、その辛さを利用して焼酒(焼酎)に入れ、これを飲んだ多くの者が死んだ」(『芝峰類説』1614年)とある。まず、ポルトガルから大分に伝わった唐辛子が、倭寇か秀吉の兵によって朝鮮に持ち込まれたが、この時点ではまだ日本の本州には伝わっていない。そして、唐辛子が朝鮮で栽培され出した頃、九州出身でない日本人が本州へ持ち帰ったのではないか。

 局所的-普遍的(local-universal)という物理学での区別に似て、地域的-世界的、あるいはローカル-グローバル(global)といった区別をよく聞く。祖国を愛する、同じ民族で団結するという考えと移民や同化を推進するという考えは衝突する危険を常に孕んでいて、アフリカや中近東からのヨーロッパへの難民が引き起こす諸問題がその衝突を鮮明化してきた。今アメリカやヨーロッパに蔓延する愛国主義はいつでもどこにもあるもので、家族への愛を核にした半ば本能的なものだと考える人が多いのではないか。だが、民族主義歴史教育の結果であり、歴史が民族の歴史である限り、そこで中立的な教育を行うことは至難の業である。ここで私が強調したいのは歴史教育は偏向せざるを得ないということではなく、民族主義は教育の結果、学習成果であって、本能的なものではなく、血縁や地縁に関する評価判断は学習によって学ばれた知識に基づくということである。
 一方、タイトルのキムチ、カレー、タコスは評判の高い、ほぼ誰もが好きな食べ物であり、人の感覚的、本能的な嗜好が素直に反映されている。学習して好きになるのではなく、美味しいから飽くことなく食べるのである。知識なら真偽、正誤があるが、嗜好には好き嫌いしかない。さて、そのような対照的な特徴を意識して、国際問題を眺めるなら、争う国々の間で嗜好に大きな違いはなく、同じ食べ物を好みながら、学習した知識をもとにいがみ合っているという何とも滑稽で、微笑ましいとさえ言える光景が見えてこないだろうか。カレーを食べながらインドとパキスタンは対峙し、アメリカとメキシコの間の壁の両側でタコスをほおばり、日韓両国でキムチに舌鼓を打ちながら、争い合っている。それらの姿をE.T.や子供たちはどんな眼で見るのだろうか。
 文化や伝統は嗜好だけではなく、そこに知識や技術が入り込んでいる。その知識や技術はグローバル、ユニバーサルなものであり、文化や伝統の担い手たちがローカルな個人や集団であるのとは違っている。では、グローバルな経済に比べて政治はグローバルなのか。経済とは違って政治はローカルなままである。国が独立して存在し、世界が多くの国に分かれているのは、明治維新前の日本によく似ていて、国内政治と国際政治に分かれているのが当たり前になったままである。現在の国は歴史的な産物以外のものではない。だが、その歴史的で、偶然的な産物に対して、どの国も歴史的に自らを正当化しようとしてきた。歴史は自己正当化の都合のよい道具として使われてきた。戦争を正当化するには歴史を使うのが常套の手段だった。その常套の手段を取り除き、氏や育ちを忘れ、衣食住の生活だけを冷静に見比べるなら、人々は何ともよく似た生活を楽しんでいることがわかるのではないか。キムチ、カレー、タコスだけでなく、和食やラーメンを含め、多くの料理を誰もが楽しむように、世界のあちこちで同じように日々が過ぎている筈なのである。欲望に具体的な姿を与え、その実現に駆り立てるのは民族主義的な教育以外にはなかなか見つからない。だが、自国の歴史に誇りをもつことは良いことばかりを結果せず、時には戦争にまで至ることを忘れてはなるまい。とはいえ、人が科学的に振る舞うことにこだわり過ぎると非人になりかねない。

ダンギク(段菊)

 夏の終わりから秋にかけて、紫色の花が段々になって咲くのでダンギク。ダンギクは、日本、中国、朝鮮半島、台湾に分布するシソ科の多年草。日本では、九州の長崎、鹿児島、対馬に分布し、日当たりの良い岩場や斜面で、群落をつくっている。今では環境の変化に伴って自生地が減少し、環境省レッドデータブックの絶滅危惧Ⅱ類に登録されている。
 花はシソ科の植物に多く見られる唇形花で、長い雄しべと雌しべが花弁から突出する。唇形花は、筒状の花の先端が上下に分かれ、唇のような形になる花のこと。基本種の花色は淡い紫色だが、白花やピンク色の花を咲かせる品種も流通している。

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人口問題を斜めから見る

 人口が増えたり減ったりするのは自然の摂理に反することではなく、それゆえ、人口増減自体は科学的な問題ではない。この科学者の公式見解に対して、異論や反論がすぐに噴出する。絶滅種や絶滅危惧種、例えば、トキやライチョウに関して、極端に個体数の少ない集団は守られるべきであり、そのために科学的な知識を総動員すべきだということになっている。また、知性をもつクジラもイルカも捕獲すべきではないということになっている。このようなことは今では動植物についての常識でさえある。一方、子供をつくるか否かは自由であり、強制されるものではないという常識もある。人口減少社会ではこの常識がどのように評価されることになるのだろうか。これらの例だけでも人口問題は環境問題に似て、人の判断や価値評価が入り乱れて存在する領域である。科学的な人口動態研究と社会の中で直面する人口問題は医学と医療と同じような関係にあり、それゆえ、要注意なのである。
 「人口を増やすにはどうすればいいのか」という問いは、「火打山ライチョウを増やすにはどうすればいいのか」によく似ている。ライチョウ増殖計画にライチョウの自由意志は誰も考慮しないが、人が子供をつくる計画に個人の自由意志は大いに重要で、それは考慮されなければならないことになっている。ニワトリもブタも、その増殖は私たちが管理する中で実行されるが、人の出産は誰かが管理する増殖計画に基づいて行われるものではなく、当事者の自由な決定によって行われるのが常識になっている。
 何かが原因になって、その結果として人口の増減が生じる。だから、人口を増やす、あるいは減らすことを目標に置くためには、人口増減の原因をしっかり知っていなければならない。だが、これは相当に厄介なことで、人口増減の原因は意外に見えにくく、通常は複数の要因が重なり合っているだけでなく、状況に大きく依存してもいるのである。例えば、平和時と戦時、安定と不安定、裕福と貧困のいずれの場合により多くの子供が生まれるのか。これまでは、戦時、不安定で貧しい場合の方が多くの子供が生まれてきた。人は不安定な世界で安定して子孫を残すために多くの子供をつくる戦術をとってきたのである。この解答は進化生物学的には頷けるのだが、個人の自由意志で子供をつくるという原則が実は生物学的な本能の前では掛け声に過ぎないことを見事に示している。
 「自由意志で子供をつくる、計画的に出産する」ことは自然的なことなのか、反自然的なことなのかは、奇妙に響く問いのように思えるが、妊娠中絶に関する異なる立場がそれを見事に表してくれる。自由意志を重視するなら子供を産む、産まないは自由に決めることができるのだから、妊娠の中絶も自由な筈だが、それに反対する人たちがいて、彼らはそれを神の意志に反することで、自然の摂理にも反すると主張する。
 さらに、性選択(sexual selection)は自然選択(natural selection)とは違う側面を持っている。私たちは性選択の仕組みを研究し、それまでは神の領域と見做されてきた誕生と死亡を臨床的に扱うようになっている。いずれの領域でも当事者の自由意志がどれだけ医療の倫理に反映されるかはグローバルな基準にはまだなっていない。

柿や林檎

 子供の頃はどの家にも柿の木があって、今頃は甘い柿や渋い柿の実がたくさん色づき始めていた。そのためか、栗の実とは違って、柿の実はわざわざ木から採って食べたいとは思わなかった。今では柿は立派な果物で、スーパーで売られているが、少なくても子供の私は柿を売り物と思ってはいなかった。一方、林檎の木は私の周りになく、私には最初から立派な商品だった。夏の青い林檎から始まり、国光や紅玉、旭や印度といった銘柄が懐かしい。
 今では私が子供の頃には味わえなかった林檎や柿の品種が簡単に手に入る。確かに美味しいと感じ、味わうのだが、富有にもふじにも懐かしさを感じることはないのである。今食べている柿や林檎だけでなく、野菜や果物、さらには食品全般について、それらが記憶に残る食べ物になるにはあと何年必要なのかわからないが、今の私には富有もふじも懐かしい味でないのは確かである。

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老人の特権「忘れること」について

 私のように70歳を越えると、「知る」こと以上に「忘れる」ことが気になる。というのも、人やものの名前を始終忘れるからである。何かを忘れたことに気づくと、それを懸命に思い出そうとする。「忘れ、気づき、思い出す」という心の中の一連の作業を繰り返すことが毎日の仕事のようになってくる。同じ単語を何度も忘れ、何度も思い出すことなど若い時にはなかったことである。ある植物の名前を知っている時と、その名前を忘れてしまい、何と呼んでいいかわからなくなる時が交互に繰り返すのである。その心理状態の交代が面白くもあり、もどかしくもあり、しかも精神的な年齢を身近に感じられる時になっている。名前が忘れられ、思い出され、それを何度も繰り返すのは余り褒められたものではなく、それが老いるということなのだと自分に言い聞かせても、知る、憶える、忘れる、思い出す、といった繰り返しの中で、「知る」と「忘れる」はどのような関係にあるのか、老人の性としても無性に考えて見たくなるのである。
 「知る」の反対が「忘れる」ことなのか。そうではなさそうである。「忘れる」の反対は「思い出す」であり、「思い出す」は結局「再度知る、知り直す」ことである。「初めて知る」のではない知り方は私たちの生活では珍しいことではない。誰もが忘れる可能性をもっていて、何も忘れない人はむしろ稀である。となれば、「忘れる」の間接的な反対語が「知る」、「憶える」ではないのだろうか。だが、私たちは意図的、意識的に憶えるのに対して、忘れるの方は意図的でも、意識的でもなく(意識的に忘れたいことは沢山あるのだが)、知らずに忘れている。意識的に知ることが憶えることなのだろう。だから、意識して憶えることが「暗記」と呼ばれ、若い時分は苦もなく暗記できるのが普通である。
 学習の大半は知識を憶え、それを適用することであり、忘却は学習にとって敵でしかない。憶えることが学習の楽しみなら、忘れることは学習の失敗を意味している。学習は好奇心を満たし、生きる範囲と自信を広げるが、忘却はそれを妨げ、不幸をもたらす。では、忘れることは憶えることと何が違うのか。好奇心は知ることによって満たされるが、忘れることによって何が満たされるのか。知ることは楽しいことが実感できる例になるが、忘れることにどんな楽しみがあるというのか。
 知ること、憶えること、思い出すことは考えることと何かと相性がよく、協働作業ができる。知ることと考えることの協働作業の一例を挙げよう。「Aを知る、AならばB、BならばC」が成り立つなら、「Cを知る」ことができる。このような作業を忘れることと考えることの間につくることは残念ながらできない。知ることに対して論理規則を使うことは、本人であれ、他人であれ支障はないのだが、忘れることに対して論理規則を使うことは、なにより忘れる本人にはできないのである。
 知ることは意図的、意識的で、いつ何をどのように知るかはわかっている筈になっている。つまり、知ることは自覚的なのである。だが、忘れることは無意識的で、忘れることを意図的に行うことはできない。人はある時思い出せないことに気づき、忘れたことを知るのである。想い出せないことを知ることによって、忘れたことを知るのである。知ると忘れるを巡って色々な事柄がひしめきあっている。それらを解きほぐし、忘れることが何かを「知ること」についての認識論、認知科学を意識しながら考えてみよう
最初の疑問
 記憶とその表現を考えると、記憶自体の不具合と記憶の表現の不具合が似たような障害を起こすことが気になり出す。記憶と言葉は想起にどのように関わっているのか、とても面白い課題に見えてくる。
 年寄りはよく忘れると言われるのだが、その忘れ方にも幾つかのパターンがあることに気づく。健忘と言われる物忘れの多くは、記憶が消失する、飛んでしまうというもので、認知症の典型的な症状であり、大量の飲酒でもよく起こる。何があったか憶えていないのである。もう一つ、よく起こるのが言葉を思い出せない場合で、人の名前、ものの名前が出てこないのである。どちらの経験も豊富な私には二つの物忘れには大きな違いがあり、言葉とそれが指示する対象や出来事との間の違いが気になって仕方ないのである。
 「クスノキ(樟、楠)」は公園や歩道に植えられていて、珍しくない樹木である。私はこの「クスノキ」という名前をよく忘れる。よく忘れるためか、よく忘れる名前であることをしっかり憶えていて、クスノキを見るとその名前が何だったかを確認することが多い。このほぼ習慣化した記憶チェックでも私は相変わらず思い出せない場合がある。「クスノキ」は思い出せなくてもクスノキであることはわかっていて、名前だけがブランクになっているに過ぎないのである。この「クスノキ」健忘に似たものがないか探し出すと、動植物の名前で似たものが結構な数見つかるのである。「トチノキ」、「コアラ」、「アライグマ」、「オオルリ」等、何度も憶えては忘れる例が見つかる。これは人の名前についても同様で、何度も憶えるのだが、また忘れる人は相当数にのぼる。要は、対象の種類に関わらず、ものの名前が容易に忘れられるのだが、そのもの自体は忘れておらず、わかっているのであり、だからこそ、何度も名前を憶えようとするのである。
 一方、対象や出来事そのものを忘れる場合がある。ここには記憶の種類が関わってくるのだが、いわゆるエピソード記憶の健忘である。一連の出来事を忘れることであり、名前を忘れることとはまるで違っている。言葉の問題は背後に退き、一連の出来事からなる物語、世界の中での時間的な区間がすっぽり抜け落ちることである。これが文字通りの記憶の喪失であり、対象の名前の失念とは根本的に異なっている。では、対象や出来事を忘れることと、対象や出来事の名前を忘れることの違いは何なのか。対象や出来事をすっかり忘れていることと、対象や出来事の記憶を不得意な外国語で表現することを比べてみると二つが如何に異なることかはっきりするのではないか。
 記憶について復習しておくと、記憶は陳述(宣言)記憶(declarative memory)と非陳述(非選言)記憶(non-declarative memory)に大別される。陳述記憶にはエピソード記憶意味記憶がある。エピソード記憶は「個人が経験した出来事に関する記憶」であり、出来事の内容に加えて、出来事を経験したときのさまざまな付随情報と共に記憶されていることが重要な特徴になっている 。意味記憶は、いわゆる暗記というタイプの記憶のことで、例えば、テスト前に歴史の年号を覚えたり、英単語のスペルや漢字の書き方を覚えるのが意味記憶である。言葉の意味や知識、概念に関する記憶が意味記憶である。このような復習から、母国語の習得は意味記憶なのか、反復学習と記憶の関係は何か等、色んな疑問が浮かび上がってくる。
 私の物忘れの経験が陳述記憶の二つにどのように関わるのか、自分自身を使った観察はまだ暫く続きそうである。

敬老の日、あるいは高齢者3,588万人に寄せて

 まずは、日本医師会の「地域医療情報システム」を検索し、読者の住む地域のデータを見ていただきたい。そこには人口動態、医療施設、介護施設に関する統計データと経年変化が載っています。当たり前のことですが、この種の統計資料には冷静に対処しなければなりません。自分の住む市だけでなく、近隣の市や町はどうか、そして県はどうか、さらには首都圏はどうか、日本全体、世界はどうかと比較を慎重に重ね、今度は自分の住む市の各地域はどうかを見て、その上で別の観点からの統計資料や諸理論がなければ、十分な議論は始まらないでしょう。また、14日の私の「好奇心旺盛な子供の疑問、…」のような哲学的な議論も時には必要になります。肝心の人口や医療に関する政策を俎上に載せ、決定するためには今のところ私たちは信頼できる手立てをもっていないのです。
 さて、「地域医療情報システム」のデータを見ると、人口動態、医療施設、介護施設が並び、三つの事柄が最初から因果的に関連しているかのような表示になっているように見えます。人口が減少するから医療介護の施設や人員が少なくなるのか、その反対に、医療介護の施設や人員が貧弱なので、人口が減少するのか、(いずれも常識的だと思えるのですが)データ自体は何も言っていません。でも、つい私たちはそんな因果的関係があるかのように読んでしまいます。人口と医療介護の間に関係があるのか否か、あるならどんな関係なのか、様々に言われていても、実は私たちはよくわかっていないのです。
 医療は集団の人口構成にどのように関わるべきなのか。この問いだけでも、日本とアフリカの国々では答えがまるで違うことがすぐわかります。逆に、国や地域の人口構成が医療体制にどのような影響を与えるのか、じっくり考えるべき事柄です。医学や医療技術はグローバルでも、医療体制、医療目標などはとてもローカルなのです。高齢者への医療の目標は何かとなれば、同じ日本でも時代と地域によって揺れ動いてきました。
 医学部には基礎医学臨床医学という性格が随分と異なる二つの部門が伝統的に存在し、私のいた大学でもそれぞれの教員の印象(科学者と医者)は随分違っていました。しかし、その垣根も次第に低くなり、理工学部基礎医学臨床医学が一緒になって研究開発に挑むようになっています。ここに社会科学、環境科学などが加わり、医療や人口に関する総合的な政策作成に寄与するようになり始めています。