セイヨウアブラナ

 セイヨウアブラナは、アブラナ科アブラナ属の植物。食用油の原料として、世界中で広く栽培されている。英語では、白菜等の仲間である近縁種Braasica rapaに由来する語rapeと表記されてきたが、近年はキャノーラ品種を意味する語canolaがセイヨウアブラナ全体を指す語として用いられている。日本在来種のアブラナとは別種で、染色体の数がアブラナの10対に対し、19対ある。
 私たちが「菜の花」と呼ぶのはアブラナが美しい花をつけたときの状態。アブラナは、日本では古くから野菜として、また油を採取するために栽培されてきた作物で、その成長過程に応じて名前が変わる。
・若い葉を食用とするとき→アオナ
・花をつけているとき→ナノハナ
花のあとに種子ができたとき→ナタネ
 アブラナは食用、鑑賞用、灯油の原料として、昔から日本人の生活に密着していた。現在栽培されているものはセイヨウアブラナで、かつて栽培されていた在来種とは種類が異なる。画像は既に咲いているセイヨウアブラナ

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エリカ

 エリカ属はツツジ科の属の一つで、700種類以上の種があり、その大部分は南アフリカ原産で、残りの70種程度がアフリカ以外の原産である。アフリカ、ヨーロッパに600種以上が分布する常緑性の樹木。英語ではヒース、ドイツ語ではハイデと呼ばれる。園芸では性質などの違いで南アフリカ原産種とヨーロッパ原産種に分けられている。
 葉は短い針型や線形で、枝にびっしりと付く姿は、枝に葉が生えているといった感じで、花はタマゴ型や壺状の小さな粒々のもの、紡錘形などがある。
 画像のジャノメエリカは日本でも庭木として定着している種。開花期は晩秋~春。満開時は枝が花にびっしり覆われる。

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ダリの「記憶の固執」、「記憶の固執の崩壊」:非写実的なものの命名

 「記憶の固執」はダリの作品の中でも最も広く知られている作品の一つ。ぐにゃりとチーズのようにとろけた時計はダリ作品のアイコンにもなっている。だが、この作品は24.1×33㎝というA4の紙ほどの大きさしかない。その小さなキャンバスに、細密にリアルに描かれた不思議な世界で、舞台となっているのはダリ作品に何度も登場する故郷の砂浜。魚なのか胎児なのか判別不能な物体が中央に横たわり、そこに柔らかな時計がのっている。時計の細部や画面左端の懐中時計の蟻などは非常に写実的で、細密に描かれている。ダリはこの柔らかい時計を、妻のガラがカマンベールチーズを食べているのを見て思いついた。
 昨日は「記憶の固執」、「記憶の固執の崩壊」というタイトルに疑義を呈した。だが、描かれているものが抽象的で、心的イメージのようなものである場合、それは世界の「何か」について写実的に描写することではなくなる。対象を忠実に描くことは重要でさえなくなる。それゆえ、抽象絵画と呼ばれるのである。つまり、抽象画は志向的でないのである。世界の「何か」についての絵画でなくなるなら、絵画のタイトルは描かれているものを表現する必要はなくなってくる。極端に言えば、作品名はその作品を他の作品から識別できればそれで十分ということになる。私たちの名前は命名時には志向的でない。誰も赤ん坊がどうなるのか予測できない。ある程度以降の年齢になると、その人の経歴に応じて、その名前が何を指すかが決まってくる。それと似たようなことがダリの絵にも成り立つのである。カンディンスキーモンドリアンの絵の名前は描かれている内容を指示するためにつけられたというより、名札のように他と区別するための命名で、名辞の因果説が主張する通りのものである。それと似たところがダリの「記憶の固執」や「記憶の固執の崩壊」にもある。だが、完全な抽象画ではなく、自らのイメージの寓意的な描写が入っているので、タイトルにはそれが反映されていると考えるのが無難だろう。そこで、ダリの作品制作の特徴を垣間見てみよう。

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モンドリアンコンポジション2 赤、青、黄」(1930)

 ダリは、あるイメージを別のあるイメージに重ね合わせて表現するダブルイメージ手法「偏執狂的批判的方法」の発明者であるとシュルレアリスム運動の中では評価されてきた。代表作品の「記憶の固執」では、時計とカマンベールチーズを重ね合わせて表現している。ダリが発明した偏執狂的批判的方法とは、簡単にはあるイメージが別のイメージにダブって見えるということである。そこで、時計とカマンベールチーズの組み合わせを表現する最も単純な言葉は「時計とカマンベールチーズ」。だが、これをタイトルにしたのでは平凡過ぎて、インパクトなし。そこで、さらに時計とカマンベールチーズの背後を探索すると、「記憶の固執」の要点が二点見えてくる。それらは、「柔らかいものと硬いもの」、「不安と欲望」の二つの表現であり 、後者はダリ自身の性的な不安と欲望の表現である。

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ダリ「記憶の固執」(1931)

 「記憶の固執」の中で描かれている「溶けている時計」は、ダリによれば、キッチンでガラが食べていたカマンベールチーズが溶けていく状態を見て、着想を得たという。その理由は、ダリの哲学や生い立ちを調べることで、ある程度は推測ができる。ダリの芸術哲学の中心には、ダリ自身が何度も主張しているが、「柔らかいもの」と「硬いもの」という両極への執着がある。そうした「硬いもの」と「柔らかいもの」という両極に対する執着が一つの画面に圧縮されたのが「記憶の固執」である。ダリはなぜ、「硬いもの」と「柔らかいもの」に執着していたのか。ダリは子供の頃からずっと女性に対する性的恐怖心をもっていた。このようなトラウマによって、ダリはEDだったらしく、彼の「硬いもの」と「柔らかい」ものへの執着は、ED問題が根底にあると言われている。さらに、「記憶の固執」で気になるのが中央にある白い謎の生物である。この謎の白い生物は、同じ年、1929年に描かれた「大自慰者」であり、大自慰者とはダリ自身の自画像である。この自画像はダリの作品のいたるところに登場する。

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ダリ「大自慰者」(1929)

 「溶けていく」という変化は、ダリにとって「衰える」、「崩壊する」、「柔らかくなる」などネガティブな状態を象徴している。一方、ダリにとって「硬いもの」、「硬くなっていく」という変化は好意的なものでポジティブな状態を象徴している。実際、ダリが好きな食べ物は固定した形のもので、硬いものだった。具体的にはロブスターや貝などの硬い性質をもった甲殻類が好きだった。反対に嫌いなものはホウレンソウなど柔らかいものや無定形なものだった。柔らかいものと硬いものの狭間で感情が激しく揺れ動き、一番自分にぴったりの食べ物と感じたのが、陽光を浴びて溶けていくカマンベール・チーズだった。 左下にあるオレンジ色の時計に蟻がたかっている。ダリには蟻は「腐敗」の象徴。子供の頃、蟻に食べられた昆虫を見て、中身がなくなっていたことにショックを受けたという。また、同時に蟻は大きな性的欲望を表すモチーフでもある。

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ダリ「記憶の固執の崩壊」(1954)

 その後、ダリは「記憶の固執」のリメイク作品「記憶の固執の崩壊」を制作する。オリジナル版との違いは、まず背景の海岸が前作よりも前に寄せており、浸水した状態になっている。主題となる「崩壊」を浸水で表現し、故郷カダケスの風景は浸水状態、つまり崩壊状態にある。中央の白い物体はオリジナルよりも透明なゼラチン状となり、その上方に魚が描かれている。ダリによれば「魚は私の人生を象徴する」と語っている。 オリジナル版にあった左側の平面ブロックはフロートレンガ状の小さな形状に分割された表現に変わる。この細かく分割されたブロックは、当時、ダリが関心をもっていた原子核で、ミクロな量子力学の世界を表現している。さらに、ブロックの背後にある多くの角は原子爆弾を象徴するもので、秩序ある地球の持続を人類が破壊する可能性があることを強調している。柔らかい時計がかけられているオリーブの木も、四つの時計の縁やダイヤルも、いずれもバラバラに分解され、死が迫っている。
 再度、ダリの絵画にとってその絵画のタイトルはどのような役割や意義をもっているのか、まとめておこう。絵画は「何か」を描いている。その何かが外部世界の対象や出来事であれば、絵画は志向的ということになり、この意味では古典的な絵画はみな志向的である。特に、肖像画は志向的であり、そうでなければならない。それに対して、印象派の絵画や抽象絵画は志向的でない絵画である。それゆえ、ダリの絵画も半ば志向的ではなく、とても理念的で直観的という相反するような性質を併せ持っている。作品名は固有名だと割り切れば、人の名前と同じで、名前と人格とが無関係だということになり、従って、作品名と何についての絵画かは無関係ということになる。まず「記憶の固執」、「記憶の固執の崩壊」とダリによって非志向的に命名され、その後人々に鑑賞され話題にされながら、その名前がどのような意義をもつかが次第に定着していった。私のタイトルの翻訳への疑義も二つの名前に付けくわえられて、その意味を僅かでも変えていくなら、大いに結構なことだが、無視されること間違いなしだろう。

梅、雪、そして桜

 寒梅が咲き始めている。寒風の中の梅の花が嫌いな人はいないだろうが、雪と梅の花も見事な取り合わせではないだろうか。
 大島蓼太(りょうた)(1718~1787)は江戸中期の信濃俳人で、別号が雪中庵。江戸俳壇の実力者で、芭蕉への復帰を唱えた。
 「ともし火を見れば風あり夜の雪」は彼の傑作。雪が降り続き、一面に雪景色に変わった。夜更けて障子を開け、庭でも眺めたのだろうか。部屋の隅では、明け方まで灯をともす有明行灯がほの明るく、その灯が時折、ゆらりゆらり揺れ、その揺らめきに、かすかな風の気配を感じ取れる。
 梅と雪の句となれば、「寒梅や雪ひるがへる花の上」。雪国の信濃妙高ならばこそ、雪がひるがえる梅の花が見られるのではないか。
 大島蓼太は知らなくても、次の一句は知る人が多い筈である。梅の次は桜だが、「世の中は三日見ぬ間に桜かな」。「見ぬ間に」が「見ぬ間の」と言い慣わされ、「三日見ぬ間の桜」といった今日にも通ずる名言を生んだのである。

ウメ(梅、Japanese apricot)

 見上げれば、もう梅の花が咲き出している。ウメはバラ科サクラ属の落葉高木。モモやサクラに比べ、開花時の華やかな印象は薄いが、寒い中で咲く姿は凛としている。5枚の花弁のある1㎝から3㎝ほどの花を葉に先立って咲かせる。花の色は白、またはピンクから赤。子供の頃、我が家の前には梅の木があり、祖母がその実をつけて梅干しをつくっていた記憶がある。花は記憶に薄いのだが、実はよく憶えている。今なら実より花に関心が向くことだろう。ウメは1月中旬頃から咲き出すもの、3月中旬頃から咲き出すものなど、様々である。

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ダリの「記憶の固執」と「記憶の固執の崩壊」

La persistencia de la memoria, conocido también como Los relojes blandos o Los relojes derretidos es un famoso cuadro del pintor español Salvador Dalí pintado en 1931. Realizado mediante la técnica del óleo sobre lienzo, es de estilo surrealista y sus medidas son 24 x 33 cm. La pintura fue exhibida en la primera exposición individual de Dalí en la Galerie Pierre Colle de París, del 3 al 15 de junio de 1931, y en enero de 1932 en una exposición en la Julien Levy Gallery de Nueva York, Surrealism: Paintings, Drawings and Photographs. Se conserva en el MoMA (Museo de Arte Moderno) de Nueva York, donde llegó en 1934. En una revisión posterior del cuadro, Dalí creó La desintegración de la persistencia de la memoria.(Wikipedia
 「記憶の固執」はフランス語なら「La persistance de la mémoire」、そして英語なら「The persistence of memory」。サルバドール・ダリの作品の中でも、到達点の一つとされるのが「記憶の固執」。柔らかい時計と呼ばれることもある。

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記憶の固執

 サルバドール・ダリ(1904~1989)は不思議な絵を描く作家として記憶されている。ダリはシュールレアリストで、「記憶の固執」に描かれた溶けて曲がった「柔らかい時計」はダリの描く作品によく登場する。「記憶の固執」は、1931年にダリによって制作された24.1cm×33cmの油彩作品。ダリ初期の作品であり、ダリの代表作。「記憶の固執」は「柔らかい時計」や「溶ける時計」と呼ばれることもある。1934年に匿名の人物によりジュリアン・レヴィ・ギャラリー経由で同美術館に寄贈された。
 溶けている時計は、台所で溶けるチーズを見てインスピレーションを得たとされ、「その晩の夕食の仕上げは、たいそうこってりとしたカマンベール・チーズだった。みんなが出かけた後、私はテーブルに向かったまま、このチーズが心に呼び起こした「スーパー・ソフト」という哲学的問題について、長い間瞑想に耽った」と述べている。背景が描かれていた状態で、ガラが映画を見に行っていた2時間ほどの間に時計などが加えられたとも自身が述べている。ダリ自身は、「柔らかい時計は生物学的に言えばダリ的なDNAの巨大な分子である。それらは永続性ゆえにマゾ的であり、舌平目の肉のように機械的な時間という鮫に飲みこまれる運命である」と評している。絵画の解釈や解説には様々な憶測が現在も飛び交っている。
 彼の故郷であるカタルーニャは、ダリ作品に大きな影響を与えている。パニ山の山裾にある、ダリの家族が利用していた夏の別荘は「パニ山の山影とカダケスの風景」に見られるように、類似した場面が彼の作品に度々登場していた。「記憶の固執」では、パニ山の山影が前景を緩やかに覆い、ケープ・クレウスのゴツゴツした沿岸が遠景に横たわっている。構図の中心、ダリが当時の彼自身を表現するのに用い、その後の作品にも頻出する自画像のような抽象的な形をした奇妙な「モンスター」の中に、人間の姿を感じることができる。その「薄れていく」生物は、夢の中で正確な形と構図がわからないものであり、まつげの生えた閉じられた片目は、その生物もまた夢を見ているとも解釈できる。この図解はダリが経験した夢に基づいたもの、また「ぐにゃぐにゃの時計」は夢の中で過ぎ行く時間の象徴かも知れない。ダリは「記憶の固執」を覚醒時ではなくより夢の中で見られる像としてシュルレアリスムの画法に従って描いている。

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記憶の固執の崩壊

 「記憶の固執の崩壊」として知られている作品には、「記憶の固執の調和した崩壊が始まっている高度に着色された魚の目の染色体(The Chromosome of a highly-coloured fish's eye starting the harmonious disintegration of the persistence of memory)」という正式名称がある。「記憶の固執」を描き直したもので、25.4cm×33cmというやはり小さな作品。記憶の固執と比較すると、描かれていた故郷スペインのカタルーニャ・カダケスは浸水状態にあり、この浸水によってタイトルにある崩壊を表現している。また、平面のブロックもこの作品では、小さな形状に分割されて秩序正しく描かれており、原子核を表現している。そして、このブロックの後ろには、角状のものが飛んでおり、それは原子ミサイル。平和の象徴であるオリーブの木も、このミサイルによって分断され、地球には秩序があるにも関わらず、人類が秩序を破壊する可能性があること、原子ミサイルが平和を脅かしていることを強調している。これらはダリが原子物理学に傾倒していたことを示している。地球に秩序があるにも関わらず、人類がその秩序を破壊する可能性があることを強調している。柔らかい時計がかけられているオリーブの木もまた、バラバラに解体されて死が迫っている。4つの時計の縁やダイヤルも分解されてバラバラになりつつある。中央の生物はオリジナル版よりも透明状のゼラチン状となり、その上方に魚が並置されている。オリジナル版では魚は描かれていなかったが、ダリは「魚は私の人生を象徴するものだ」と語っている。「記憶の固執」に比べ、すべてが説明的で、わかりやすい。

 記憶についてあれこれ思案している私の眼前に飛び出してきたのがサルバドール・ダリの「記憶の固執」と「記憶の固執の崩壊」という二作品。シュールリアリズムの傑作ということになっているのだが、私の脳裏を過ぎったのは、上記の概略からもわかるように、『2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)』と『2010年宇宙の旅(2010: Odyssey Two)』の二つの映画。私の中では二つの映画の評価とダリの二作品の評価が重なってしまうのである。だが、絵画には素人の私が気になるのは絵ではなく、そのタイトルである。
 「固執」は「こしつ」か「こしゅう」かなどと今でも問われる。「こしつ」というのが今の読み方で、「こしゅう」でも構わないことになっている。では、ダリの絵は何と読むのか。私の推測では「きおくのこしゅう」。「こしゅう」でも「こしつ」でも、その意味は同じ。
 「固執」の意味は自分の考えを押し通そうとすること。つまり、他人の意見に耳をかさず、あくまでも自分の考えを押し通したり、主張したりすることである。「自説に固執する」、「立場に固執する」などと使われる。「固執」の「執(しつ)」には「かたくつかんで離さない」、「こだわる」という意味がある。執念、偏執、妄執など、固執の他にも「執」のつく漢字は、一筋縄ではいかない「こだわり」の意味が含まれている。「固執」の類語である「執着」は「そのことばかりを思って忘れられないこと」という意味。「執着」とほぼ同じ意味なのが「執心」。「執心」は特定の異性にとらわれている様子をからかい気味に表現している。「拘泥」は「必要以上に気にしてこだわる」。しつこくこだわり続ける様子なら「執拗」。
 「固執」の対義語は「譲歩」で、「道を譲る」ことから、自分の主張を曲げて相手の意見と折り合いをつけること。双方の主張が対立しているとき、お互いの主張を譲り合って一致点を見いだし、解決策をみいだすことが「妥協」。
 「崩壊」はdisintegrationのことで、分裂、分解、風化、粉末化とも訳される。

 こんな辞書のような確認をして、果たして「記憶の固執」、「記憶の固執の崩壊」というタイトルが何を言わんとしているかわかるのだろうか。とんとわからないというのが私の答え。「記憶がこだわる、執着する」という表現に意味があるかと問われると、どうもそれはないというのが大方の答え。では、端的に誤訳ではないのか。スペイン語や英語のタイトルから「固執」と訳すとわからなくなるのではないかと考えてしまうのである。別の訳を探すと、「記憶の残渣」。残滓と残渣は、残渣は主に溶解や濾過で使われる、残滓は例えでよくつかわれるといったところが違いである。当然ながら、記憶の搾りかすという意味での「記憶の残滓」でもない。
 もっと素直になって、「記憶の持続性、永続性」の方がまだマシである。記憶ではなく、時間であれば、「時間の持続性」はしっくりくる表現である。それと似たように記憶も持続するのだが…
 こんな風に見てくると、この絵のタイトルの訳は何が相応しいのかますますわからなくなる。ちなみに、固執するのは私であり、記憶や時間ではない。私は自らの記憶を信じ、それに固執するのであり、私の記憶が何かを信じ、固執するなどといったことはあり得ないのである。私が自分の記憶や世界の時間的、因果的な出来事の経過に固執するから、記憶や時間は持続したり、分断されたりするのである。相対性理論でも量子力学でも物理時間は連続的に、あるいは不連続的に持続する。そもそも時間がなければ物理世界はあり得ないのである。となれば、「持続していた記憶が自然法則に調和的に従って分解が始まる高度に着色された魚の目の染色体(The Chromosome of a highly-coloured fish's eye starting the harmonious disintegration of the persistence of memory)」と訳したくなるのは私だけではないだろう。
 時計が曲がることは時空が歪むことの一例になることができても、時空の歪みを象徴的に表象できる訳ではない。時空が曲がるから、そこに置かれた時計も曲がるに過ぎないのであり、時計のぐにゃぐにゃすることが時空の曲がりでないことはダリならしっかり承知していた筈である。実際、ぐにゃぐにゃした時計が置かれた場所はぐにゃぐにゃしていないのである。

白いツバキ

 私には「赤いタンポポ」のような感じがするのが「白いツバキ」という謂い回し。ツバキもサザンカも赤い花が圧倒的に目につく(画像は赤いカンツバキ)。そんな中に白い花もあるのだが、その一つがゴードニア・ラシアンサス(Gordonia lasianthus)。
 たき火など見ることができなくなった昨今だが、サザンカはあちこちでうるさい程に咲き誇っている。昨日はツバキの花も咲き始めたと述べた。そんな中で、サザンカと同じ頃に咲くのがツバキ科ゴードニア属のゴードニア・ラシアンサス(画像)。北アメリカ原産の常緑高木で、ツバキに似た白花を多数咲かせる。白い美しい花を次から次へと一日交替でつける。ナツツバキ(シャラの木)に似た花を咲かせるので、別名が「ジョウリョクシャラ(常緑沙羅)」。何とも平凡でいただけない命名なのだが、確かにその通りで、近くでは外堀通り(JR有楽町駅、東京フォーラム、三菱1号館美術館辺りの歩道)に植えられている。「夏ツバキ」も「白いツバキ」に似た謂い回しだが、これは初夏に白い花を咲かせ、高いものでは樹高15mほどになるツバキ科ナツツバキ属の落葉高木。

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